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萌え絵炎上の限界がそろそろ確定してきたという話。たわわ広告炎上へ寄せて

 もう長いこと萌え絵が炎上を繰り返していて、よく考えたら毎年何かしらの萌え絵が燃えている。そろそろいろんな事例が積みあがってきたことだし、「社会的な合意」のラインとやらが見えてきてもいいんじゃないの?と多くの人が思っているのではないだろうか。

 そういうわけで、今回はこれまで積みあがってきた事例からどんなことが言えるのかについて書いてみようと思う。

 さっそくだが、炎上の中で主に焦点となってきたのは、萌えキャラが具体的にどのように描写されているか、そのキャラクターがどのような人々をどのように表象しているかの2点である。萌えキャラの具体的な描写に対する批判においては、主に以下のような描写が問題視されてきた。

①肌の露出が多い

②頬を赤らめて恥じらいながらもこちらに笑顔を向けている

③服の皺や影によって局部のシルエットが浮かび上がっている

④胸の大きさを強調するように描かれている

 こうした描写をすべて兼ね備えたイラストが炎上した事例がある。2014年に炎上した碧志摩メグがそれだ。この炎上は、萌え絵批判の最初期の例であるが、この事例において主な論点が出そろっていることから注目に値すると思う。

 2014年に三重県志摩市が「17歳の海女」という設定の萌えキャラ「碧志摩メグ」を市の公認キャラクターにすることを決めたことを受けて、海女当事者らによる反対運動が起きたことで、結局市は公認を取り消すに至った。

炎上考>勝手なエロ目線で海女を描き、当事者の尊厳を傷つけた「萌えキャラ」 吉良智子:東京新聞 TOKYO Web

 この碧志摩メグについて美術史家の吉良智子は、美術史的な視点から次のように指摘している。

 このように、恥ずかしがりながらも「見られる」ことを受け入れる女性像は、古代の西洋美術における「恥じらいのヴィーナス」の系譜に連なっている。胸と股間を手で隠したヴィーナスは、異性愛の男性のまなざしに応える表象として、昔から絵画や彫刻などに制作されてきた。
 実は日本にも、風光明媚めいびな土地で働く海女などの女性を、男性が描いた浮世絵や日本画がたくさんある。特に近代の日本画では、画家を含む都市の男性知識人が、地方の女性労働者の身体を、その土地や自然と結びつけて「消費」した(池田忍『日本絵画の女性像』)。海女だからと時に裸体にされたり、その身体を「エキゾチックなモノ」として勝手なエロ目線で作品にされてきたのである。
 こうした長い歴史の延長線上に碧志摩メグは存在する。つまり「萌えキャラ」だからといって、そのコンセプトは全然新しくない。時代遅れの目線なのだ。

<炎上考>勝手なエロ目線で海女を描き、当事者の尊厳を傷つけた「萌えキャラ」 吉良智子:東京新聞 TOKYO Web

 海女当事者たちが過去に性的に描かれてきた歴史を踏まえ、こうした表現によって彼女らの尊厳を傷つけていることが公認撤回を正当化する理由として挙げられている。たしかに萌えキャラがある特定の集団を表象する場合には、彼女らの尊厳を傷つけないよう配慮が求められて当然だろう。

 なお、当事者らが反対運動で求めたのは市の公認撤回であって、このキャラクター自体は今も活動を続けているが、それに対して活動をやめるように求める活動は展開していない。つまり、萌え絵批判は、公的な組織が思わしくない表現にお墨付きを与えることを阻止する目的で行われているのである。この点もその後の炎上で踏襲されている点だ。

 この碧志摩メグのように特定の集団を表象していれば、その表現によって尊厳が傷つけられる可能性のある個人を想定しやすいし、批判の妥当性も大きくなると思われる。逆に、特定の集団の表象ではなく、数ある女性表象のバリエーションの一つとしか言いようのない場合は、「海女の女性の尊厳が傷つけられる」といったように具体的な被害者を立てることは難しいので、女性全般が当事者として想定されることになる。そこで、「見た人が不快にならないかどうか」や「見たくないものを見なくて済む権利」といったゆるい理屈が展開されるようになってきている。萌え絵炎上とはまた違うが、企業CMがたびたび炎上する際、家事や育児や介護などのケア労働は女性が行うものだといったステレオタイプな女性像が問題視されるのは、女性一般に置いてそれらが当時者性のあるトピックだからだ。

 逆に言えば、そうした女性一般の表象に当てはまらないほど現実と乖離する要素があれば、たとえば『うる星やつら』のラムちゃんは、けっこうきわどい恰好をしているが、ファンタジックな存在なので広告とかになっていてもそんなに問題視はされないだろう。あと『鬼滅の刃』の女キャラクターはかなりの確率で巨乳で胸元が露出しているが、それに文句を言う人はほとんど見かけない。身も蓋もないが国民的知名度があるキャラクターであればキャラの個性が勝ることでその表象の問題が免責されるのかもしれない。いまさらエヴァのプラグスーツがエロくてけしからんとかネタではなく本気で言う人がいるとはあまり考えにくい。

 結局のところ、この表現は誰のためのものなのかが問われた結果、ある集団のためだけの表現が公共の場にあることが違和感を生むのかもしれないし、さらに踏み込めば、萌え絵はキモオタのものだからなんだかいかがわしいといった判断が組み合わさることで炎上の準備は整うのかもしれない。もはや死語である「萌え」という言葉がいまだに使われ続けているのも、その表現が異性愛男性オタクのためだけの表現であることを指し示すのにうってつけだからだと考えればしっくりくる。「萌え」は、フェミニストたちが運動のために流用することで生きながらえることになったゾンビなのである。

 さて、話をもどして萌え絵炎上の過去の事例を見ていくと、批判を受けて描写を修正したり、撤回したりする場合もあれば、そこまでするほどではないと判断される場合もある。どのような点が問題視され、その程度によってどれくらい対応に差が出るのだろうか。

 2016年の駅乃みちかや2020年のラブライブみかんPRコラボの炎上などは、どちらも「③服の皺や影によって局部のシルエットが浮かび上がっている」描写が問題視された。駅乃みちかはイラストを修正されるという対応にとどまったが、女子高生キャラが描かれたラブライブコラボは撤去されるに至っている。2021年に千葉県警とご当地Vチューバーとのコラボ動画では、セーラー服を思わせる露出度の高いコスチュームであることが問題視され、動画が削除された。未成年である女子高生を表象または連想させ、かつ描写がセンシティブな場合、撤回に至るケースが多いことがわかる。

駅乃みちかのTwitterイラスト検索結果。ららぽーと沼津のラブライブ!サンシャイン!!高海千歌さんの西浦みかん大使コラボ展示が中止に - Togetter

性的」と指摘、フェミニスト議連に抗議署名4万件 千葉県警が女性Vチューバー出演の動画削除 :東京新聞 TOKYO Web

 一方で、2018年にキズナアイNHKノーベル賞の解説番組に登場したことで起きた炎上は「①肌の露出が多い」という描写に加え、彼女の演じた役回りがジェンダーロールの固定化を強化しているという批判がなされ、2019年の宇崎ちゃん献血ポスターの炎上は「④胸の大きさを強調するように描かれている」という点が問題視されたが、どちらも批判を受けても取り下げるまでには至らなかった。このように、修正したり取り下げたりするほどではないと判断される事例も存在している。

ノーベル化学賞に注目!|まるわかりノーベル賞2018|NHK NEWS WEB

胸が大きいだけの萌えキャラ」がセクハラ認定された本当の理由 宇崎ちゃん×日赤コラボが示す教訓 (2ページ目) | PRESIDENT  Online(プレジデントオンライン)

 以上のことからわかるのは、批判を受けた側が対応を決めるにあたって重要な判断材料になると考えられるのは、①具体的な描写においては肌の露出や、局部や胸を強調する度合い、②どれくらい具体的な特定の集団を表象しているかという二点になる。

 もちろんこの考察は、実務者レベルで行われる判断プロセスがおそらくこうであるに違いないという推測に過ぎない。それに、こうした判例法主義的な意味で、もし炎上したとしてもこのラインだけ守れば撤回するほどにはならないということは言えても、炎上を回避することをリスク管理の第一目標に据えた場合は自主規制するのが一番手っ取り早いということに変わりはない。とはいえ、これまで積みあがってきた事例から、萌え絵炎上の限界がそろそろ確定してきたということになれば、状況は変わりうるだろう。

 2014年に碧志摩メグが炎上してからというもの、毎年のように萌え絵が炎上し続けてきた。あと2年もすれば10年もの間、議論を続けてきたことになる。その間に積みあがった事例から、もし萌え絵が炎上したとしても、この程度であれば撤回するほどにはならないというラインがだんだん明確になってきているのだ。

 最近では、漫画『月曜日のたわわ』の日経広告が炎上したが、以上の考察を踏まえると、この広告で描写されているのは女子高生キャラであったとしても、具体的な描写においては先に挙げた4つの観点で問題視される描写は見当たらない。そのため、広告に問題はないという判断におそらくなるはずだ。

月曜日のたわわ」全面広告が日本経済新聞に「不安を吹き飛ばし、元気になってもらうため」(コメントあり) - コミックナタリー

 あえて言えば、タイトルの「たわわ」という表現に示されているように、巨乳であることをことさら価値づけるのはルッキズムだといった批判が想定されうるだろう。仮に「たわわ」というマイルド化された表現ではなく『月曜日の巨乳』というタイトルの漫画であったとしたら、当然のごとく炎上し、取り下げざるを得ないだろうし、そもそも広告に採用されることはなかったのではないかと思われる。「たわわ」というマイルド化された表現が微妙なラインではある。

 そこで、たわわ=巨乳という変換がスムーズに行われるかどうかが問題になるかもしれないが、イラストにおいて巨乳は強調されるどころかほとんど隠されている。とはいえ、左下に小さく表示されている単行本のパッケージや、「たわわ」という言葉の意味、そしてタイトルの「わわ」の文字が振動している描写などをよく見ればルッキズム的な内容の漫画であることを予想することは可能である。だがそれをもってイラストの修正や撤回といった強い措置を求めるのは、根拠として弱いと言わざるを得ないだろう。

 広告イラストの批判者は、漫画本編の、ときには偶然を装った身体的な接触をともなって巨乳の女子高生に癒されるという内容を周知することで広告の有害性を根拠づけようとする傾向にあるが、根拠づけに失敗している。東京工業大の治部れんげ氏がハフポストの取材に答えた記事がわかりやすい(「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載。専門家が指摘する3つの問題点とは? | ハフポスト NEWS)。

 広告だけを見たときには知りえない文脈を持ち出して広告が公共においてふさわしくないとする議論は、いままでこんな有害な発言をしている人間をメディアは取り上げるべきでないといったレトリックと似ている。仮に広告自体に問題がなかったとしても(その場その場の発言に問題がなくても)、漫画本編(本人の思想)こそが有害性の根本原因であるから、これを告発することで取り下げを求めることが可能であるということだ。簡単に言いなおすと、有害なコンテンツであると一度見なしたら、どんな内容のイラストだろうと公共にはふさわしくないと主張できるということだ。

 漫画本編の内容に触れた後、治部氏は次のように問題を指摘している。

読みたい人がヤングマガジンを手に取って読むことは、今回の問題ではありません。それよりも、女性や性的な描写のある漫画を好まない男性が『見たくない表現に触れない権利』をメディアが守れなかったことが問題です

だがよく考えてみるとこれはおかしな論理である。「見たくない表現に触れない権利」といった主張の主語になる人間は、公共の場における人間として想定できなくなるからだ。これでは、「漫画本編の有害性を知っている私たち」に配慮するべきだと言っているにすぎなくなってしまう。そこで、広告イラストの批判者たちは、SNS上で批判を繰り広げることで、配慮されるべき「漫画本編の有害性を知っている私たち」を増やすという戦略を展開しているようにみえる。これではSNS上でバッシングが過熱すればするほど、批判者は公共の場からは遠ざかり、告発者としての当事者性を批判の根拠にするしかなくなってしまうのだ。だが、告発する人間が告発するがゆえに配慮されるべきというのは一体どういうことなのだろうか。

 ただし、広告のイラストがそれ自体として問題だというなら話は別である。そこで治部氏はイラストについてどう考えているのかだが、氏は以下のように述べている。

今回の全面広告は、女子高生が胸を腕で隠すなど、『いまの日本が持つ基準内で問題にならないように』工夫した形跡があります。この広告がステレオタイプの助長につながるおそれがあると『多少はわかっている』のに、掲載に至ったと思われます。

これまで大手メディアとしてジェンダーステレオタイプを克服するために取り組んできたことは、全て偽善だったのでしょうか

イラストが「いまの日本が持つ基準内で問題にならないように」工夫されているという評価をしたうえで、その工夫の意図が不純なものあると指摘することで批判につなげている。では、どのような基準を設定すべきであるのかについては触れられておらず、「見たくない表現に触れない権利」の「見たくない表現」とはいったいどんな内容を指すのかも明らかではない。これでは議論のしようがないだろう。こうして根拠をぼかして、さも準拠すべきすばらしい基準があり、現在の日本の基準はゆるいといった印象だけをばらまくのはそれこそ卑怯ではないか。

 萌え絵炎上の変遷を見ていくと、最新の事例である『月曜日のたわわ』炎上において批判者たちの変節っぷりがわかりやすく表れている。碧志摩メグ以来、批判者たちの目的は一貫して公的な組織が問題のある表現にお墨付きを与えるのを阻止することである。だがその前提となる、問題のある具体的な描写は『たわわ』広告においては見いだせないため、それを見ることで傷つく特定の集団が想定できなくなっている。にもかかわらず、萌え絵炎上の伝統的な枠組みを維持して批判を展開しようとした結果、論理的に破綻したことを言うしかなくなっているのだ。

 もし仮に、『たわわ』炎上において批判者たちが持ち出してきた「こんな有害な発言をしている人間をメディアは取り上げるべきでない」というレトリックを徹底するのであれば、広告そのものにどんな問題があるか言えない以上は、根本的な原因である漫画それ自体を批判し、連載をやめるように雑誌に抗議したり、こんなものを読んでるやつは女子高生を性的に見ている変態だとか何とか言って非難したりするしかないだろう。