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【読書感想】吉田裕『日本人の戦争観』(文庫版2005、岩波書店)

はじめに

 

吉田裕『日本人の戦争観』(文庫版2005、岩波書店)を読んだ。戦争責任全般はどのように捉えられてきたのかを論じた本だ。

実はこの記事はけっこう昔に書くだけ書いて、下書きのままほったらかしにしていたのだが、消すのももったいないので、いまさら公開することにした。

まぁ感想というより、ほとんど要約という感じだけど。

 

ダブル・スタンダード

 本書は終戦から2000年代に至るまでの、日本人の十五年戦争日中戦争アジア・太平洋戦争)に対する戦争責任の捉え方を論じている。戦後の時代変遷から日本人が十五年戦争についてどのように表現してきたか、そこにどんな心理が働いていたのかを説明している。

 現在の日本人の歴史観を説明付けるキーワードとなるのは、「ダブル・スタンダード」である。

対外的には講和条約の第一一条で東京裁判の判決を受諾するという形で必要最小限の戦争責任を認めることによってアメリカの同盟者としての地位を獲得する、しかし、国内に置いては戦争責任を事実上、否定する、あるいは不問に付す、というように、対外的な姿勢と国内的な取り扱いを意識的にせよ無意識的にせよ、使いわけるような問題の処理の仕方がそれである。(p.91)

 日本が戦争責任を対外的に認めるとしても、それは周辺諸国との外交を円滑に進めるため、という現実的かつ消極的な理由による。つまり、国益に反するから建て前として戦争責任を黙って受け入れているが、本音では納得できていないというわけだ(その証左として、「大東亜戦争肯定論」が形を変えながら偏在し続けている)。

 そこにあるのは、未だに日本は本来の意味で過去を清算できたとは言い難く、戦争責任を全うしたうえでのナショナル・アイデンティティー確立には至っていない、という現実である。言い換えれば、未だにあの戦争は侵略だったか自衛だったか、という地点から国民の意識が発展していない。本書の言葉では、「過去の歴史をまさに歴史として対象化できていないこと、すなわち、私たちは未だに『戦争の時代』を生きていることを意味していることになるだろう(p.268)」。

 本書は、国外向け(建て前)と国内向け(本音)で相反する立場を使い分ける政治態度が、戦後、いかにして形成され、どのように揺らいでいったのかを中心に論じている。

 このダブル・スタンダードが出来上がったのが、1950年代、アメリカの占領政策から講和へと向かった時期のことだという。戦後まもない時期から日本人の戦争観が、いくぶん歪んだものとして立ち現れ、戦争に対する正当な反省を経ないままに講和へ至ってしまったことが原因だとする。

 歪みが生じた要因は二つに分けられる。それは、日本にとっての十五年戦争と、戦後の連合国(アメリカ)による占領政策の特殊性である。(pp.260-264)

 

十五年戦争の特殊性

1.戦中期における日本国民の生活が、困窮化の一途をたどったこと。

・限られた資源で軍需をまかなうために、国民生活を犠牲にする政策が意図的にとられたことによる。

・戦中期は、日本人にとって「もののない暗い時代」として回想されることになった。(ドイツの場合、生活水準の低下は比較的緩やかで、これは日本特有の現象だという)

 

2.軍部が独自の政治勢力となって、戦争を推進したこと。

・戦中期を「軍部独裁の時代」として捉えるようになった。

東京裁判に象徴されるように、戦争責任を全て軍部に押し付けるような形で過去が清算された。

・官僚や宮中グループ、政党、財界、マスコミなどの戦争への同調、協力は事実上不問に付された。

 

3.日中戦争と地続きのままにアジア・太平洋戦争に突入したこと。

・中国という当時の弱小国との戦争から始まり、最終的にアメリカという超大国に敗れたという事実によって、戦争責任を考える際にアメリカに敗北したという面が強調され、アジアは無視される傾向が生じた。

 

4.敗戦の結果、台湾・朝鮮という日本の植民地の喪失が自動的に実現したこと。

・欧米諸国が植民地との闘争の果てに撤退を余儀なくされたのとは違い、その過程をたどらずに済んだ日本は、植民地主義に対する清算という問題を深く自覚する機会を逸した。

 

 

戦後の占領政策の特殊性

1.連合軍による日本占領が、事実上アメリカの単独占領だったこと。

アメリカの国益占領政策に色濃く反映するようになった。

・日本人の戦争観といった価値観の面でもアメリカの影響を直接受けることになった。

 

2.冷戦への移行の中で、対日講和自体が次第に戦後処理としての性格を喪失していったこと。

・日本を西側陣営に組み入れるためのアメリカの政治的配慮があらゆる問題に優先するようになった。

・その結果、対日講和は、戦争責任問題の側面においては、日本にとって「寛大な講和」となった。

 

3.アジア諸国の国際的地位が低く、なおかつ極東においてはアメリカの圧倒的覇権が確立しているという国際環境の下で、日本の戦後処理があわただしく進められたこと。

・戦争の最大の犠牲者だったアジア諸国独自の要求や批判は、ほとんど無視された。

・アジアに対する加害責任を認識する機会を日本はほとんど持ち得なかった。

 

 以上のような状況下でダブル・スタンダードが成立したと本書はまとめている。

 ここから見えてくるのは、十五年戦争の過程と戦後のアメリカの占領政策によって、日本のナショナル・アイデンティティは、天皇に象徴される存続できたものと、軍部やアジアのリーダーたる日本といった存続できなかったものとの間で引き裂かれてしまったということだろう。このあいまいさに耐えられなかった結果の両極が、一方で昭和天皇に代表される指導者の戦争責任論であり、一方で大東亜戦争肯定論であるとも言えるだろう。この揺れ動きを本書は、ある程度妥当性をもって描き出すことに成功しているように思える。

 

大東亜戦争肯定論

 60年代前半に台頭してきた林房雄に代表される大東亜戦争肯定論は、侵略戦争ではなく自衛戦争、もしくはアジアを西洋帝国主義から開放するための戦争だったとして積極的に肯定するものであった(p.142)。興味深いのは、それが90年代に入ると、昭和天皇は平和主義者であり、戦争には反対だったとする宮中グループ史観と対立し、結果的に退潮していったという指摘だ(p.228)。大東亜戦争肯定論が、昭和天皇が戦争に反対だったとしつつも、戦争が正当なものだったと主張することは、論理的帰結として天皇を否定することになってしまう。そのため、大きな勢力をもつには至らなかったという。しかし、文庫版のあとがきでは、90年代半ばからまた台頭してきたとしている。

 もう一方の極である指導者の戦争責任論は、昭和天皇の死去したことで、今さらそれを問うことの積極的な意義を失っているように思える。

 

本書の限界

 吉田氏は、文庫版のあとがきにおいて、本書の限界として、その記述の仕方には、「侵略戦争という客観的事実を正確に写し取った戦争観があらかじめ存在し、その戦争観を基準にして他の戦争観の編さを測定するという方法が無意識のうちに採られている」と、自己批判している。そのような視点からは、複数の戦争観のせめぎ合いにから新しい戦争観が出来上がっていくという、複雑な過程をとらえきれなかったとする。ようするに、吉田氏が想定するような、戦争責任をより積極的に全しようとする理想的な戦争観へと向かうレールに、戦後を通して形成されてきた責任意識を無理やり乗せようとしても、それが成功するとはとても思えないという限界だ。人々の多様な記憶や経験、アイデンティティーは簡単には変えられないし、自分たちが悪者だったと認めるとなればなおさらだ。大東亜戦争肯定論が現在においてもなくならない原因もそこにある。