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萌え絵炎上の限界がそろそろ確定してきたという話。たわわ広告炎上へ寄せて

 もう長いこと萌え絵が炎上を繰り返していて、よく考えたら毎年何かしらの萌え絵が燃えている。そろそろいろんな事例が積みあがってきたことだし、「社会的な合意」のラインとやらが見えてきてもいいんじゃないの?と多くの人が思っているのではないだろうか。

 そういうわけで、今回はこれまで積みあがってきた事例からどんなことが言えるのかについて書いてみようと思う。

 さっそくだが、炎上の中で主に焦点となってきたのは、萌えキャラが具体的にどのように描写されているか、そのキャラクターがどのような人々をどのように表象しているかの2点である。萌えキャラの具体的な描写に対する批判においては、主に以下のような描写が問題視されてきた。

①肌の露出が多い

②頬を赤らめて恥じらいながらもこちらに笑顔を向けている

③服の皺や影によって局部のシルエットが浮かび上がっている

④胸の大きさを強調するように描かれている

 こうした描写をすべて兼ね備えたイラストが炎上した事例がある。2014年に炎上した碧志摩メグがそれだ。この炎上は、萌え絵批判の最初期の例であるが、この事例において主な論点が出そろっていることから注目に値すると思う。

 2014年に三重県志摩市が「17歳の海女」という設定の萌えキャラ「碧志摩メグ」を市の公認キャラクターにすることを決めたことを受けて、海女当事者らによる反対運動が起きたことで、結局市は公認を取り消すに至った。

炎上考>勝手なエロ目線で海女を描き、当事者の尊厳を傷つけた「萌えキャラ」 吉良智子:東京新聞 TOKYO Web

 この碧志摩メグについて美術史家の吉良智子は、美術史的な視点から次のように指摘している。

 このように、恥ずかしがりながらも「見られる」ことを受け入れる女性像は、古代の西洋美術における「恥じらいのヴィーナス」の系譜に連なっている。胸と股間を手で隠したヴィーナスは、異性愛の男性のまなざしに応える表象として、昔から絵画や彫刻などに制作されてきた。
 実は日本にも、風光明媚めいびな土地で働く海女などの女性を、男性が描いた浮世絵や日本画がたくさんある。特に近代の日本画では、画家を含む都市の男性知識人が、地方の女性労働者の身体を、その土地や自然と結びつけて「消費」した(池田忍『日本絵画の女性像』)。海女だからと時に裸体にされたり、その身体を「エキゾチックなモノ」として勝手なエロ目線で作品にされてきたのである。
 こうした長い歴史の延長線上に碧志摩メグは存在する。つまり「萌えキャラ」だからといって、そのコンセプトは全然新しくない。時代遅れの目線なのだ。

<炎上考>勝手なエロ目線で海女を描き、当事者の尊厳を傷つけた「萌えキャラ」 吉良智子:東京新聞 TOKYO Web

 海女当事者たちが過去に性的に描かれてきた歴史を踏まえ、こうした表現によって彼女らの尊厳を傷つけていることが公認撤回を正当化する理由として挙げられている。たしかに萌えキャラがある特定の集団を表象する場合には、彼女らの尊厳を傷つけないよう配慮が求められて当然だろう。

 なお、当事者らが反対運動で求めたのは市の公認撤回であって、このキャラクター自体は今も活動を続けているが、それに対して活動をやめるように求める活動は展開していない。つまり、萌え絵批判は、公的な組織が思わしくない表現にお墨付きを与えることを阻止する目的で行われているのである。この点もその後の炎上で踏襲されている点だ。

 この碧志摩メグのように特定の集団を表象していれば、その表現によって尊厳が傷つけられる可能性のある個人を想定しやすいし、批判の妥当性も大きくなると思われる。逆に、特定の集団の表象ではなく、数ある女性表象のバリエーションの一つとしか言いようのない場合は、「海女の女性の尊厳が傷つけられる」といったように具体的な被害者を立てることは難しいので、女性全般が当事者として想定されることになる。そこで、「見た人が不快にならないかどうか」や「見たくないものを見なくて済む権利」といったゆるい理屈が展開されるようになってきている。萌え絵炎上とはまた違うが、企業CMがたびたび炎上する際、家事や育児や介護などのケア労働は女性が行うものだといったステレオタイプな女性像が問題視されるのは、女性一般に置いてそれらが当時者性のあるトピックだからだ。

 逆に言えば、そうした女性一般の表象に当てはまらないほど現実と乖離する要素があれば、たとえば『うる星やつら』のラムちゃんは、けっこうきわどい恰好をしているが、ファンタジックな存在なので広告とかになっていてもそんなに問題視はされないだろう。あと『鬼滅の刃』の女キャラクターはかなりの確率で巨乳で胸元が露出しているが、それに文句を言う人はほとんど見かけない。身も蓋もないが国民的知名度があるキャラクターであればキャラの個性が勝ることでその表象の問題が免責されるのかもしれない。いまさらエヴァのプラグスーツがエロくてけしからんとかネタではなく本気で言う人がいるとはあまり考えにくい。

 結局のところ、この表現は誰のためのものなのかが問われた結果、ある集団のためだけの表現が公共の場にあることが違和感を生むのかもしれないし、さらに踏み込めば、萌え絵はキモオタのものだからなんだかいかがわしいといった判断が組み合わさることで炎上の準備は整うのかもしれない。もはや死語である「萌え」という言葉がいまだに使われ続けているのも、その表現が異性愛男性オタクのためだけの表現であることを指し示すのにうってつけだからだと考えればしっくりくる。「萌え」は、フェミニストたちが運動のために流用することで生きながらえることになったゾンビなのである。

 さて、話をもどして萌え絵炎上の過去の事例を見ていくと、批判を受けて描写を修正したり、撤回したりする場合もあれば、そこまでするほどではないと判断される場合もある。どのような点が問題視され、その程度によってどれくらい対応に差が出るのだろうか。

 2016年の駅乃みちかや2020年のラブライブみかんPRコラボの炎上などは、どちらも「③服の皺や影によって局部のシルエットが浮かび上がっている」描写が問題視された。駅乃みちかはイラストを修正されるという対応にとどまったが、女子高生キャラが描かれたラブライブコラボは撤去されるに至っている。2021年に千葉県警とご当地Vチューバーとのコラボ動画では、セーラー服を思わせる露出度の高いコスチュームであることが問題視され、動画が削除された。未成年である女子高生を表象または連想させ、かつ描写がセンシティブな場合、撤回に至るケースが多いことがわかる。

駅乃みちかのTwitterイラスト検索結果。ららぽーと沼津のラブライブ!サンシャイン!!高海千歌さんの西浦みかん大使コラボ展示が中止に - Togetter

性的」と指摘、フェミニスト議連に抗議署名4万件 千葉県警が女性Vチューバー出演の動画削除 :東京新聞 TOKYO Web

 一方で、2018年にキズナアイNHKノーベル賞の解説番組に登場したことで起きた炎上は「①肌の露出が多い」という描写に加え、彼女の演じた役回りがジェンダーロールの固定化を強化しているという批判がなされ、2019年の宇崎ちゃん献血ポスターの炎上は「④胸の大きさを強調するように描かれている」という点が問題視されたが、どちらも批判を受けても取り下げるまでには至らなかった。このように、修正したり取り下げたりするほどではないと判断される事例も存在している。

ノーベル化学賞に注目!|まるわかりノーベル賞2018|NHK NEWS WEB

胸が大きいだけの萌えキャラ」がセクハラ認定された本当の理由 宇崎ちゃん×日赤コラボが示す教訓 (2ページ目) | PRESIDENT  Online(プレジデントオンライン)

 以上のことからわかるのは、批判を受けた側が対応を決めるにあたって重要な判断材料になると考えられるのは、①具体的な描写においては肌の露出や、局部や胸を強調する度合い、②どれくらい具体的な特定の集団を表象しているかという二点になる。

 もちろんこの考察は、実務者レベルで行われる判断プロセスがおそらくこうであるに違いないという推測に過ぎない。それに、こうした判例法主義的な意味で、もし炎上したとしてもこのラインだけ守れば撤回するほどにはならないということは言えても、炎上を回避することをリスク管理の第一目標に据えた場合は自主規制するのが一番手っ取り早いということに変わりはない。とはいえ、これまで積みあがってきた事例から、萌え絵炎上の限界がそろそろ確定してきたということになれば、状況は変わりうるだろう。

 2014年に碧志摩メグが炎上してからというもの、毎年のように萌え絵が炎上し続けてきた。あと2年もすれば10年もの間、議論を続けてきたことになる。その間に積みあがった事例から、もし萌え絵が炎上したとしても、この程度であれば撤回するほどにはならないというラインがだんだん明確になってきているのだ。

 最近では、漫画『月曜日のたわわ』の日経広告が炎上したが、以上の考察を踏まえると、この広告で描写されているのは女子高生キャラであったとしても、具体的な描写においては先に挙げた4つの観点で問題視される描写は見当たらない。そのため、広告に問題はないという判断におそらくなるはずだ。

月曜日のたわわ」全面広告が日本経済新聞に「不安を吹き飛ばし、元気になってもらうため」(コメントあり) - コミックナタリー

 あえて言えば、タイトルの「たわわ」という表現に示されているように、巨乳であることをことさら価値づけるのはルッキズムだといった批判が想定されうるだろう。仮に「たわわ」というマイルド化された表現ではなく『月曜日の巨乳』というタイトルの漫画であったとしたら、当然のごとく炎上し、取り下げざるを得ないだろうし、そもそも広告に採用されることはなかったのではないかと思われる。「たわわ」というマイルド化された表現が微妙なラインではある。

 そこで、たわわ=巨乳という変換がスムーズに行われるかどうかが問題になるかもしれないが、イラストにおいて巨乳は強調されるどころかほとんど隠されている。とはいえ、左下に小さく表示されている単行本のパッケージや、「たわわ」という言葉の意味、そしてタイトルの「わわ」の文字が振動している描写などをよく見ればルッキズム的な内容の漫画であることを予想することは可能である。だがそれをもってイラストの修正や撤回といった強い措置を求めるのは、根拠として弱いと言わざるを得ないだろう。

 広告イラストの批判者は、漫画本編の、ときには偶然を装った身体的な接触をともなって巨乳の女子高生に癒されるという内容を周知することで広告の有害性を根拠づけようとする傾向にあるが、根拠づけに失敗している。東京工業大の治部れんげ氏がハフポストの取材に答えた記事がわかりやすい(「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載。専門家が指摘する3つの問題点とは? | ハフポスト NEWS)。

 広告だけを見たときには知りえない文脈を持ち出して広告が公共においてふさわしくないとする議論は、いままでこんな有害な発言をしている人間をメディアは取り上げるべきでないといったレトリックと似ている。仮に広告自体に問題がなかったとしても(その場その場の発言に問題がなくても)、漫画本編(本人の思想)こそが有害性の根本原因であるから、これを告発することで取り下げを求めることが可能であるということだ。簡単に言いなおすと、有害なコンテンツであると一度見なしたら、どんな内容のイラストだろうと公共にはふさわしくないと主張できるということだ。

 漫画本編の内容に触れた後、治部氏は次のように問題を指摘している。

読みたい人がヤングマガジンを手に取って読むことは、今回の問題ではありません。それよりも、女性や性的な描写のある漫画を好まない男性が『見たくない表現に触れない権利』をメディアが守れなかったことが問題です

だがよく考えてみるとこれはおかしな論理である。「見たくない表現に触れない権利」といった主張の主語になる人間は、公共の場における人間として想定できなくなるからだ。これでは、「漫画本編の有害性を知っている私たち」に配慮するべきだと言っているにすぎなくなってしまう。そこで、広告イラストの批判者たちは、SNS上で批判を繰り広げることで、配慮されるべき「漫画本編の有害性を知っている私たち」を増やすという戦略を展開しているようにみえる。これではSNS上でバッシングが過熱すればするほど、批判者は公共の場からは遠ざかり、告発者としての当事者性を批判の根拠にするしかなくなってしまうのだ。だが、告発する人間が告発するがゆえに配慮されるべきというのは一体どういうことなのだろうか。

 ただし、広告のイラストがそれ自体として問題だというなら話は別である。そこで治部氏はイラストについてどう考えているのかだが、氏は以下のように述べている。

今回の全面広告は、女子高生が胸を腕で隠すなど、『いまの日本が持つ基準内で問題にならないように』工夫した形跡があります。この広告がステレオタイプの助長につながるおそれがあると『多少はわかっている』のに、掲載に至ったと思われます。

これまで大手メディアとしてジェンダーステレオタイプを克服するために取り組んできたことは、全て偽善だったのでしょうか

イラストが「いまの日本が持つ基準内で問題にならないように」工夫されているという評価をしたうえで、その工夫の意図が不純なものあると指摘することで批判につなげている。では、どのような基準を設定すべきであるのかについては触れられておらず、「見たくない表現に触れない権利」の「見たくない表現」とはいったいどんな内容を指すのかも明らかではない。これでは議論のしようがないだろう。こうして根拠をぼかして、さも準拠すべきすばらしい基準があり、現在の日本の基準はゆるいといった印象だけをばらまくのはそれこそ卑怯ではないか。

 萌え絵炎上の変遷を見ていくと、最新の事例である『月曜日のたわわ』炎上において批判者たちの変節っぷりがわかりやすく表れている。碧志摩メグ以来、批判者たちの目的は一貫して公的な組織が問題のある表現にお墨付きを与えるのを阻止することである。だがその前提となる、問題のある具体的な描写は『たわわ』広告においては見いだせないため、それを見ることで傷つく特定の集団が想定できなくなっている。にもかかわらず、萌え絵炎上の伝統的な枠組みを維持して批判を展開しようとした結果、論理的に破綻したことを言うしかなくなっているのだ。

 もし仮に、『たわわ』炎上において批判者たちが持ち出してきた「こんな有害な発言をしている人間をメディアは取り上げるべきでない」というレトリックを徹底するのであれば、広告そのものにどんな問題があるか言えない以上は、根本的な原因である漫画それ自体を批判し、連載をやめるように雑誌に抗議したり、こんなものを読んでるやつは女子高生を性的に見ている変態だとか何とか言って非難したりするしかないだろう。

キョン子と、美少女になりたいオタク男子たち

キョン子・おぼえていますか

キョン子、というキャラクターをご存じだろうか。2006年に放送された大ヒットアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の主人公キョンを女体化させた二次創作キャラクターのことだ。もうほとんどの人は知らないか、忘れてしまったかだろうが、当時私はこのキャラクターのことがかなり気に入っていた。『ハルヒ』には三人のメインヒロインが登場するが、その誰よりもファンダムの中から発生したにすぎないこのキャラクターのほうが好きだったほどだ。当時風に言えば「萌え」ていた。

 最近では、2018年放送のアニメ『ポプテピピック』の最終話でキョン子ハルヒと思しき二人が登場し、ちょっとした話題になった。Twitterで「キョン子 since:2018-3-24 until:2018-3-26」と検索すると放送時にかなりの人数が反応しており、「やっぱりみんなハルヒキョン子に見えてたのか」、「キョン子とかいうワード懐かしすぎて死んだ」、「今ならハルヒキョン子の百合を見たい」といったツイートが散見される。

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画像出典:【ポプテピピック】最終回12話の元ネタ・小ネタのまとめ〈https://matomame.jp/user/FrenchToast/a450eac378fdb3664b47?page=2

 アニメ『ポプテピピック』は、ネットミームを最近の新しいものから知る人ぞ知るものまで幅広くパロディとして盛り込んだことで話題となった作品だ。そんな幅広いネットミームの中で、キョン子はもはや後者の部類に入っていると言っていいのかもしれない。だが、当時の『ハルヒ』ブームの中で二次創作をネット上で楽しんでいたオタクなら、深入りはせずともいわゆる「性転換ハルヒ」の存在は知っていたという程度には認知度があったように思う。

 しかし、なぜいまさら忘れられかけているネットミームキョン子に注目しようというのか。それは、私のオタクとしての原点のひとつにこのキャラクターの存在があると思うからだ。そして、この経験はなにも私個人だけのものではなく、同世代のオタクたちの経験の中に位置づくのではないかと思えるからだ。具体的に言えば、最近の男性オタクたちが美少女になりたいという欲求をありふれた感覚として捉えていことと、キョン子というキャラが生まれ、それが受け入れられていった現象にはなにか通じているものがあるのではないかということだ。

 

腐女子が生んだキャラクターにオタク男子たちは堕ちた

 キョン子というキャラクターが創作され、オタク男子たちを魅了していった主な舞台はニコニコ動画だった。ニコニコ動画は、オタクたちが好きな作品の二次創作動画を投稿したり、それにコメントしたりしてコミュニケーションをする場として一時代を築いた動画サイトだ。とくに『ハルヒ』ブームは、そうしたオタク同士のコミュケーションを一気に加速させた。「性転換ハルヒ」もそうした流れの中で生まれた流行のひとつだ。

 その始まりを振り返ってみよう。アニメの放送から2年ほど経った2008年1月20日に、『SOS団のみんなを性転換させてみた。…ちょっとカオス。』という動画があすかというユーザーによって投稿されたのがそもそもの発端だった(現在のハンドルネームは梅子となっているが、魚拓で確認できた当時のものを採用することにする)。

 動画内容は、キャラクターソングのCDジャケットをもとにして原作キャラたちを性転換させたイラストを紹介するというもの。 動画冒頭では、「だいたい発想が腐女子っぽいので...」と自嘲気味なアナウンスが入る。「性転換ハルヒ」の出発点は、『ハルヒ』のヒロインたちを腐女子好みのイケメンへと変換してみたらどうなるかといった発想からだったようで、「男→女」への女体化キャラはおまけのようなものだったことがうかがえる。この腐女子的発想から派生してオタク男子にも訴求力のあるキョン子というキャラクターが生まれたというのはなかなか興味深い現象だ。

 しかし、この動画においてキョン子というキャラが誕生したわけではない。誕生に至るまでには、もういくつかの段階を経る必要があった。この動画の主人公キョンを女体化させたキャラのデザインは、女の子になったというよりキョンがただ女装しているといった感じである。

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 この動画は、「性転換ハルヒ」がブームになるきっかけとして重要だったと思われるが、とはいえ、この動画自体はそれほど伸びなかった。注目を集めたのは、約10日後の1月31日、投稿者のあすかがイラストを一部修正して改めて投稿した動画『SOS団とユカイな仲間たちを性転換させてみた。』からである。

  動画は、描き改められたイラストと、そのキャラクターデザインをもとに劇中のワンシーンを改変したイラスト(いわゆるコラ画像)を紹介する内容となっている。キョンの女体化キャラのデザインは、かなり女の子らしい容姿に描き直されている。とはいえ、まだキョン子のプロトタイプといった感じだ。なぜポニーテールなのかといえば、原作においてキョンはこの髪型にとくに萌えるという嗜好があり、その設定をなぞっているからだ。つまり、キョンがもし女の子になるとしたら、自分が萌える女の子の髪形を自分でもするに違いないという発想だ。自らの性的嗜好に合うスタイルを自分で纏うことは、後で詳しく述べるが現代のネット空間におけるアバターの感覚に近いのではないか。

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 余談だが、この記事を書くために動画を見に行ったところ、ちょうど今年の2月になって投稿者コメント欄が追記されていた。追記には、投稿から12年経ち、その間に何度か動画を削除しようと思ったが、ひとつのブームとなって大きな反響を呼んだために思いとどまったとある。私がちょうどキョン子の思い出巡礼のようなことをしようと思った矢先のことだったので、あまりのタイミングの良さに驚いた。投稿者には動画を作ってくれたこと、そして、動画を残しておいてくれたことに感謝したい。

 「性転換ハルヒ」がファンの間でブームとなったのは、あすかの動画のさらに約一か月後、2月24日にもこみちが投稿した動画『ハ/ル/ヒたちを性転換させてみた*1』が起爆剤だった。もこみちの動画の構成は、あすかの動画とほとんど同じであるものの、アニメの絵柄を再現したクオリティーの高いイラストだったこと、オリジナリティー溢れる自然なデザインに落とし込まれていたことが起爆剤となった理由だろう。なかには本当に原作にこういうキャラが登場するのだと勘違いする人までいた。こうして、この動画においてキョン子というキャラクターが確定するとともに、オタク男子たちはそのかわいさに意表を突かれてしまったのだった。

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 キョン子のデザインは、あすかによるデザインからいくつか変更が加えられている。まず後ろ髪が縛られてポニーテールになっている点が無理のない描写に改善され、全体的な髪型の印象がまとまっていて魅力が増している。そして、なんといっても顔。とくに眼の描写が肝だ。まつ毛の程よい太さ、さりげない二重瞼の線によって整った顔立ちになっている。そして、眉をひそめた怪訝そうな表情、やる気のなさそうなジト目、ため息をついているのか何かぼやいているのかで控えめに開かれた口元。こうした巧みな描写がこのキャラクターの性格について想像力を喚起する。さらに追加要素としてカーディガンが着せられている。少しダボッとした服が華奢な身体の表現に一役買っており、小動物的な可愛らしさも加わっている。以降、キョン子といえば、たいていカーディガンを着ているというのが共通認識になった。胸の大きさは描き手によってまちまちだが、もこみちによるデザインのように貧乳として描かれることが比較的多い。貧乳設定もネタとして創作に活用されやすい要素だったことだろう。

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 今見ても、ボサボサな髪の毛のままうがいをしているところなんか、だらしないところに隙があってかわいいし、もうひとりの女体化キャラである古泉一姫にぐいぐい迫られていても鈍感そうなところもかわいいと思える。ちなみに当時の私はキョン子以外にはとくに興味なかったが、今は百合が好きなので古泉には好印象を持った。一方、メインヒロインたちの男体化キャラには、今でもまったく関心が持てない。全員が女の子の世界のほうがいい。まぁこれは完全に個人の意見だが。

 当時、キョン子がとても新鮮に映ったのは、外見だけでなくその性格(いわゆるキャラ属性)との組み合わせによるところも大きい。キョン子の性格を称するために「ダルデレ」という言葉まで新たに造語されたほどだ。pixiv百科事典から引用すると、「ダルデレとは、『面倒くさいなぁ』と言いながらも『はいはい、分ったよ。 やればいいんだろ?』という具合に面倒がりながらも最終的には付き合ってくれる性格の事。 主に涼宮ハルヒの憂鬱の性転換ヴァージョンである涼宮ハルヒコの憂鬱シリーズのキョン子の事を指す*2」。

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キョン子の新鮮さをダイレクトに伝えてくれるキャッチコピー。

 もこみちの動画の投稿から一か月の間に少なくとも約300本の関連動画が投稿されていることが現在でも確認できる。もう12年以上前なので、その間に削除されてしまった動画もかなりあるだろう。2ちゃんねるには専用スレが立ち、3月15日の時点で「今性転換タグ見てみたら500件もあったよ 多すぎてワロタ」とレスがついている。「歌ってみた」や「描いてみた」動画、そして、作り手同士が役割分担し、原作アニメを改変してキョン子たちを動かし声を当てたMAD動画などが作られていった。再生数の多い動画をいくつか挙げておこう。


ハルヒ性転換「射手座の日」完全版/"The Day of Sagittarius"[VoiceComplete ver]

 この魅力的なキャラクターたちをもっと動かしたいしゃべらせたいという思いがブームを過熱させたのだろう。当時の私も、原作にキョン子が本当に登場するのかもしれないといった気にさせてくれることを期待しながら、そうした二次創作を楽しんでいたものだ(素人の声が入るとちょっとキツイな...とも思っていたので、ブームにノリノリだったかというと微妙だが)。私が好んでいたのは主にイラストやSSで、原作のイラストレーターいとうのいじの絵を改変したコラ画像がとくにお気に入りだった。

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元はアニメDVDの限定版カバーイラスト。なかなか見つからず捜索が大変だった。

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今回の資料探しで発見したイラスト。すばらしい。当時の私ならPSPの壁紙にでもしていたに違いない。

   特筆すべきは、やはり「性転換ハルヒ」が当初腐女子向けであったことを超えて、オタク男子たちからも受け入れられたことだろう。とくにキョン子には、他の「性転換ハルヒ」のキャラたちとは明らかに一線を画した独自の人気があった。2ちゃんねるに立てられた専用スレのタイトルには【目覚めたら負け】などとあるように、普段BLや百合に興味のなかったオタク男子たちが多少の戸惑いを覚えながらもブームを楽しんでいる様子が観察できる(当時の私は、2ちゃんは見ていなかったが)*3

 とはいえ、「性転換ハルヒ」ブームは、それほど長続きしたわけではなかった。2ちゃんスレの多くはブームが始まって最初の一か月間に集中している。ニコニコ動画においても、「ハルヒ性転換シリーズ」タグが付いた動画を検索すると、現時点でヒットするのは全部で666件*4。そのうち、最初の一か月間の動画投稿数が全体のほぼ半分を占めている。一気にブームが過熱したものの、その後があまり続かなかったということだ。

 ネット上のブームというのは、往々にして燃料となるイベントや事件が定期的に起こらないかぎり、新鮮さを失って自然と沈静化していくものだが、「性転換ハルヒ」も例にもれずといったところか。視点を広げれば、「性転換ハルヒ」ブーム自体が『ハルヒ』ブームの中の一つのイベントであり事件だったともいえるはずだ。アニメの放送から2年が過ぎ、原作小説の続編が発表される気配もない無風状態だったところに「性転換ハルヒ」が現れたからこそ、一気に火がついたのだろう。

 また、「性転換ハルヒ」ブームが性転換や同性愛といった腐女子たちの嗜好(と、少なくとも当時のネット上ではみなされていた)を出発点としていただけに、嫌悪感を抱くオタクたち(おそらく主に男性)も多くいたことは言っておかねばならないだろう。2ちゃんねるにはアンチスレも立てられており、当時の否定的な反応も確認できる。今でこそBLや百合を題材にする作品は増えたし、そうした嗜好に対して理解も得られてきていると思うが、なにせ12年前のことだ。セクシャルマイノリティーやそれを題材とする作品への差別や偏見は今よりもずっと強かっただろうし、今振り返ってみれば、2ちゃんねるニコニコ動画がそもそも男性的な文化だった。

 

キョン子と、美少女になりたいオタク男子たち

 キョン子がオタク男子たちから戸惑いを伴いつつも支持された現象とは、いったい何だったのか。もう少し掘り下げるため、『ハルヒ』がそもそもどんな作品だったのか確認してみよう。

 『ハルヒ』において主人公キョンは、オタク男子の心理を重ねやすい存在として描かれている。キョンは、あまりひけらかしたりはしないものの、ふとしたときに「○○萌え」「○○属性」といったオタクワードを口にするキャラクター、いわゆる隠れオタクだ。小説やゲームやマンガはしょせんフィクションであり、そんなものに夢中になるのは子供だと思いつつも、どこかでそんな面白い出来事が現実に起こらないかと期待している。そして、期待した通りの面白おかしい大事件に巻き込まれていくというのが物語の筋だ。

  こうしたオタクの自意識を織り込んだ作品というのは、1990年代中盤ごろから作られるようになり、その後、その傾向が受け継いでいった作品群は「セカイ系」と総称されることが多い。『ハルヒ』も「セカイ系」の系譜に連なる作品とみなされている。

 「セカイ系」という言葉を通して、90年代中盤からゼロ年代の終わりまでのオタク文化シーンを総括した前島賢の『セカイ系とは何か』(星海文庫、2014)によれば、「セカイ系」とみなされる作品の核となっているのは過剰なまでの自己言及にあるという。

 これらの諸作品は、ほとんど過剰なまでに、自分たちの出会う不思議な登場人物や事態が、フィクショナルでチープなもの(ロボットアニメ、侵略SF、変身ヒーローもの、本格ミステリ、そしてセカイ系)でしかないと作中で指摘し続けるのである。

 しかし、それらをちゃかしたり笑ったりするのではなく、きわめて深刻な自意識の悩みという主題を展開する。(pp.144-145)

 こうした特徴に当てはまる作品として挙げられているのがまさに『ハルヒ』である。そして、この「自意識の悩み」の主体は、少年、男子であることが自明になっていることも重要だ。「自意識の悩み」というのはあくまで、ロボットアニメやアクションヒーローものに燃えたり、美少女に恋をしたり、悲劇のヒロインに涙したりするオタク男子の欲望や葛藤のことなのだ。『ハルヒ』においてこの主体は、主人公であるキョンが担っている。

 しかし、『ハルヒ』ブームの中から生まれた「性転換ハルヒ」においては、欲望の主体がかく乱されることになった。オタク男子の分身であるキョンからキョン子という美少女が生まれ、それをオタク男子が支持するというは、欲望や葛藤の主体が男性であるという前提を揺るがす事態だ。オタク男子たちが少なからず戸惑いを覚えたのは、腐女子の発想への嫌悪というよりも、それ以上に、そうした主体の揺らぎへの違和感や居心地の悪さが根底にあったからではないか。

 それにしても、現在から振り返ってみると、この程度のことで当時のオタク男子たちが戸惑っていたということに驚きを覚える。今では、百合は、注目度の高いジャンルであるし、愛好するオタク男子も少なくない。女の子のような少年キャラ、いわゆる「男の娘」も、今ではそれほどショッキングさはない。ツイッターアカウントなどのアイコンを美少女の画像にするのも普通のことだ。数年前から始まったVTuberブームでは、「バ美肉おじさん(バーチャル美少女受肉おじさんの略で、仮想現実において美少女のアバターで活動する男性のこと)」がバズワードとなったことも記憶に新しい。

 ネット空間の中で美少女の外見をアバターとしてまとっていたいという願望は、いまではありふれているように思う。現在の様相は、当時のオタク男子にとってとても想像できなかったものへと変貌しているのだ。おそらく10年代以降のオタク文化シーンの趨勢が、12年の間でこれほど大きな認識の落差が生じさせたということだろう。

 では、ここ12年の間に何が起きたのだろうか。まず前提となるゼロ年代の状況を確認するため、ふたたび前島の『セカイ系とは何か』から引こう。

90年代からゼロ年代を通じ、オタク文化における、もっとも大きな変化は何かと言えば「萌え」の前景化だろう。それまではせいぜい巨大ロボットのようなメカニックであったり、膨大な世界設定であったり、あるいはアニメであれば緻密な作画であったり......とオタクたちが好む要素の、あくまで一部であったはずの「美少女」、「萌え」は、ゼロ年代にいたると極端に大きな価値を持つようになり、オタクであることが美少女に萌えることとほぼ等価で結ばれるようになった。(pp.14-15)

たとえば、『ハルヒ』の次に大ヒットしたアニメ『けいおん!』(2009年)は、「萌え」の前景化を極限まで推し進めた作品だったといえるだろう。このアニメのキャラクターは全員美少女で、物語から男性は周到ともいえるほどに徹底して排除されているからだ。

 この点に注目して、『けいおん!』は、オタク男子が美少女に求める処女性を提供しているのだといった批判がなされている。さらに、作品の本編が様々なシチュエーションの見本市として素材を提供し、それを二次創作同人誌などがアダルトコンテンツに仕立て上げることでオタク男子たちの性欲を満足させているに過ぎないという批判まである。「オタク男子の欲望」が作品に直接反映されることがなくなったのは、二次創作同人誌などが外部委託先となったからだというのだ。これらの批判は、『けいおん!』のヒット以降たくさん作られた美少女ばかりが登場する作品にも当てはめられることになる。

 たしかにそうした見方ができないわけではないだろう。だが、私はこうした作品の隆盛に別の契機を見出したいと思う。それは、「オタク男子の欲望」のために行われたかのように見えた物語における男性の排除、つまり、男性のための男性性の疎外が、回り回って「オタク男子の欲望」を前提としない作品受容のあり方を生む契機となったということだ。いや、むしろ、「オタク男子の欲望」の中に、いままで想定されていなかった欲望が滑り込んでいったというほうがいいかもしれない。それこそが、いまではありふれたものになった、自分も美少女になりたいというオタク男子の新しい欲求なのである。

 最近盛り上がりを見せる百合は、まさにいままでの「オタク男子の欲望」を前提としていない。しばしば百合カップルの間に割って入る男性の存在が忌み嫌われるように、男性の欲求を百合で扱うことは相応しくないとみなされることが多い。そして、重要なのは、たとえ百合作品の中で処女性が描かれているとしても、それは二次創作同人誌などに委託して男性に提供するためではないということだ。百合において男性性の疎外は、最後まで貫徹されるべきものなのだ。

 物語から男性を排除する傾向がある点で百合も『けいおん!』と似通ってはいるが、先のような『けいおん!』への批判は百合にはあてはまらないという点で明らかに異なる。この新しい作品受容のあり方は、ゼロ年代までは自明だった「作品を消費する主体としての男性」が、ゼロ年代の終わりから10年代を通して「萌え」の前景化がさらに推し進められ、男性性を疎外するにまで至ることで、だんだんと自明ではなくなっていったという事態から生じたのではないか。

 かつて「セカイ系」と総称される作品の核をなしていた「オタク男子の自意識」は、10年代を通して根本から揺らいでいった。そして、その揺らぎの兆候は、『ハルヒ』の放送から2年後、または『けいおん!』放送の1年前である2008年に、ニコニコ動画を主な舞台にした『ハルヒ』ブームの中から誕生し、オタク男子たちから戸惑いを伴いながらも支持されたキョン子というキャラクターの存在において、すでに見出すことができるのではないだろうか。この見立ては、牽強付会にすぎるかもしれない。だが、当時、彼女にときめき、ゼロ年代の終わりから10年代にかけてのオタク文化の中で息を吸ってきた私が、今では無事(?)百合好きになっているのは、ごく自然な成り行きだったように思えてならないのだ。

 

追記

  冒頭で『ポプテピピック』最終話でキョン子が話題になったと述べたが、その2か月前にも当時のファンがキョン子を懐かしむ機会があった。2018年1月12日に「古キョン」が突如としてトレンド入りし、最終的には国内トレンド1位、世界トレンド9位になった*5。主たる話題は古泉とキョンのBLカップリングのことだったが、そこから派生してキョン子も一部で話題に上っていたようだ。

 とくに、エロ漫画家の赤佐たぬが描いたイラストがバズっていた。今風の絵柄でブラッシュアップされたキョン子もすばらしいね。ついでに、付されている解説が正確で好感が持てた。

このイラストでは、恥じらいの表情を見せつつも、自分の魅力をいささか自覚的に主張するような動作に、キョン子のキャラクター造形においても今風の新しい解釈が加えられているように見える。この新しさは、男の娘ジャンルなどの普及によって男性が女性的な外見を持つことに対する自信がもたらされた結果ではないかと思われる。というのも、赤佐たぬは男の娘モノのエロ漫画を手掛けており、「長門(♂)との~」という文言から自身の表現のルーツのひとつとして「性転換ハルヒ」やキョン子を位置づけていることが示唆されているからだ(本人曰く、はじめて買った同人誌が長門(♂)×キョン子のエロだったらしい)。

 やはりキョン子というキャラクターの独自性は、キョンという男子高校生がもとになったキャラクターであるという点が重要なのだ。男性の姿だったものが女性の姿に変身する。当初もっていたその過激さが、いまではより身近なものになっている。キョン子の魅力がいまでも色あせていないと思えるのは、そうした表現が身近になる前に生まれたからこそ生じたノイズが現在のわれわれに新鮮さを与えるからだと思う。そこからまだ新しい何かを見出せるかもしれないし、あるいは新しく生まれた何かがまたキョン子というキャラクターに還元されていくのかもしれない。

 また、トレンド入りを機に当時を回想するツイートをまとめたTogetterでは、当時の雰囲気の貴重な証言も確認できる。

togetter.com

f:id:noumos:20220224182009p:plain

キョン子オンリーイベントについての貴重な証言

当時において異彩を放っていたというキョン子オンリーイベントについては、今回取り上げることができなかった。というのも同人誌まで調査しきれなかったのと、当時のイベントの雰囲気を再現するのは私の手に余ると思われたからだが、だからこうした当時の証言をそのまま掲載するにとどめておく。

*1:動画タイトルのスラッシュは、検索除けのために入っている。ブームが過熱し、「性転換ハルヒ」動画が『ハルヒ』関連動画の検索結果を占拠してしまうという事態になったため、こうした措置が取られた。

*2:「ダルデレ (だるでれ)とは【ピクシブ百科事典】」〈https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%AC

ちなみに、ダルデレはもう使われてないのではないかと思ったが、Twitterで検索するとつい最近でも使っている人はまぁまぁいた。

*3:当時の2ちゃんスレ一覧をあげておく。

YouTube

【目覚めたら】ハルヒ性転換シリーズスレ【終わり】 2008/03/05

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1204728126/

【目覚めたら】ハルヒ性転換シリーズスレ その2【負け】 2008/03/10

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1205104806/

【目覚めたら】ハルヒ性転換シリーズスレ3【負け】 2008/03/27

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1206609991/

キョン子ハルヒ性転換シリーズスレ Part04【一姫】 2008/03/20

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1211512532/

 

性転換ハルヒアンチスレ 2008/03/12

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1205316660/

検索避けもしない性転換等の動画について 2008/03/20

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1205939502/

性転換ハルヒアンチスレ part2 2008/04/11

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1207903937/

ハルヒ性転換シリーズアンチスレ part3【キョン子(笑)】 2008/08/28

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1219933536/

 

なんでもあり板(YouTube板スレから分岐)

【カチューシャ】ハルヒ性転換スレ 2【ポニテ】 2008/03/10

https://tmp7.5ch.net/test/read.cgi/mog2/1205127271/

キョン子は】ハルヒ性転換スレ3【皆の嫁】 2008/03/12

https://tmp7.5ch.net/test/read.cgi/mog2/1205256248/

 

 パー速VIP(なんでもあり板スレから移行)

【涼宮】涼宮ハノレヒ性転換スレ4【晴彦】 2008/03/13

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/part4vip/1205340403/

 【ハルキ】涼宮ハノレヒ性転換スレ5【晴彦】 2008/03/17

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/part4vip/1205690060/

 [一姫]涼宮ハルヒ性転換スレ6[古泉] 2008/05/07

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/part4vip/1210088492

*4:ちなみに「キョン子」タグが付いた動画は、現在242件。

*5:涼宮ハルヒ」2018年に“古キョン”がTwitterトレンド1位獲得! 大きなおねえさん達、大騒ぎ https://animeanime.jp/article/2018/01/12/36476.html

宇崎ちゃんの献血キャンペーン第二弾、みんな絵をちゃんと比較できてなさすぎだろと思った。

 去年、宇崎ちゃんの献血ポスターが炎上してしまったが、今年に入って第二弾を無事発表できたようだ。私は、「巨乳のキャラクターは公の場に出てくるべきではない」という主張はさすがに条件が厳しすぎると思っていたので、取りやめにならなかったことはひとまずよかったと思っている。

 しかし、第一弾について批判的だった人たちの中には、第二弾に許容的な態度を示す人たちが多数おり、それに対して「同じ巨乳のキャラが登場するのになぜ第一弾のように批判しないのか?論理が一貫していないのではないか?」といった物言いがつけられるなど、炎上は延長戦に突入していったようにみえる。

 そういった物言いをつける人たちは、「第一弾と第二弾のどこがちがうのか?おなじ巨乳のキャラが出てくるではないか」といったように、第一弾と第二弾は本質的にはどこも変わっていないという認識があるようだ。これは巨乳だからダメだと第一弾を批判していた人々に対しては妥当な反論ではあるだろう。しかし、こうした表現は改善されるべきであるという広い意味での批判にこの反論だけで対応できているとも思えない。一方、第一弾には批判的で第二弾には許容する態度をとっている人たちも、第一弾と第二弾がどのように異なっているのかをちゃんと語っていないように思える。第一弾と第二弾をどのように評価できるのかを実際に作品から判断しようとする人が少ないために、お互いに難癖を押し付けあうような状況にいつまでたっても終わりがみえないのではないだろうか。

 どんな態度をとるにしても、作品を慎重に観察したうえでどのように批判できるのか、擁護できるのかを検討する必要があるはずだ。絵をちゃんとディスクリプションして比較するという基本的なことを怠るべきではない。そこで、第一弾と第二弾ではどのように表現が違っているのかを整理していくことにする。問題があるとして挙げられていた表現にはいくつかあったが、とくに注目度の高かった胸の表現に絞って比較していくことにする。

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  1. 漫画形式になることで画面全体を占める胸の割合が格段に減っている
    まず、一番大きな変化として挙げられるのがこの点だろう。前回のポスターでは、画面のど真ん中に大きく胸がくるように配置されていた。ほかの要素もあまりないシンプルな構成のため、巨乳であることで画面がほどよく満たされ、締まりのある画面が成り立っていた。一方、今回は、漫画形式となって構成要素が大幅に増えた分、画面全体を占める胸の割合も格段に減り、絵の構成における胸の重要性もかなり薄くなっているといっていい。

  2. タイトルロゴがキャラの手前に重ねて配置されていることで胸への注目度が弱くなっている
    これも、胸の重要性が減っているようにみえる一因だ。同じコマには、セリフの吹き出し、真後ろに主人公の男が描かれているのもそうだが、とくにタイトルロゴがキャラの手前に、しかも胸のすぐ近くに配置されている。前回はタイトルロゴと胸はかなり距離のある位置に配置されており、それぞれに注目できるだけの余裕があったが、今回の場合は、キャラの手前、胸のすぐ隣にロゴが配置されており、それだけ胸に注目する度合いも弱まっているように感じられる。

  3. 陰影のコントラストが前回ほど強くなく「乳袋」感が減っている
    この点は、指摘する人がけっこう多かったと思う。前回は黒くはっきりした影が胸の下のラインの丸みを強調する役割を果たしていたが、今回はそういった影の使い方はされていない。そのため、よく不自然な表現だと揶揄されがちな「乳袋」感が減っている。

  4. あおり視点の角度が若干控えめになっており、巨乳の迫力も減っている
    前回は下から見上げているようなあおり構図になっているため胸に巨大感があり、迫力があった。だが、今回は角度が若干控えめになっており、その分、胸が大きいことはわかっても、迫力があまり感じられない。

  5. 奥に腕を配してあることで胸のシルエットが途中で途切れている
    前回は黒いコスチュームと明るい背景という組み合わせで胸のシルエットがくっきりしていた。今回も暗めの色のコスチューム、明るい背景という点は同じだが、今回は奥に腕が配してあり、胸のシルエットが途中で途切れている。それによって、胸のラインが前回よりわかりずらい。
    これは言葉で説明するだけでは難しいかもしれない。そこで、奥の腕を薄く加工してシルエットをはっきりさせた画像をつくってくれている人がいたので、それで比較してみよう。こうやって加工でもしないと、胸のラインがこんなにふうに続いていたとパッと見では気づきにくいだろう。

    「宇崎ちゃん 第二弾 ポスター」の画像検索結果

    f:id:noumos:20200210113340p:plain

     

  6. 後ろに背の高い主人公の男がいることで宇崎ちゃんの身長がわかり、胸のサイズ感も前回と異なって小さく見える
    さいごに、これは意外と重要だと思うのが、宇崎ちゃんがそれほど身長の高くないキャラだということが、後ろに主人公の男が描かれていることでわかるということだ。比較対象があまりない前回に比べると、宇崎ちゃんの身長に対して相対的に胸が大きいから、より巨乳に見えただけなのかもしれないな、という見方ができるようになっていると思う。

 

 以上のように第一弾と第二弾を比較してみると、胸を強調する見せ方が第二弾ではかなり控えめになり、絵の構成要素の中で重要性が低くなっていることがわかった。第二弾に対して反発する人が前回に比べてかなり少ないのもそれが大きな理由の一つと思われる。

 そして、第一弾と第二弾の決定的な違いとして、そもそも第二弾の絵はポスターになっていないようである(すくなくとも私がネットに画像が上がっているのを見たのはクリアファイルだけであり、第二弾の絵がポスターになっていないならそもそも当初の論点とはまったく異なってしまっているように思う)。胸の表現が控えめになり、しかもそれを第一弾のようにポスターとして掲載することもできていないのなら、「表現の自由の後退じゃないか」と批判を強める人たちがいてもおかしくないと思うが、「表現に難癖をつけるフェミに勝った」という落としどころに落ち着いてしまっている人たちがあまりに多いようにみえる。

 私は、表現の自由は確保されるべきであると思っているのでポスターになっていないのは若干残念さを覚えるところだ(まぁ単純に予算の関係などの理由で、やらなかったのではなくできなかったのかもしれないが)。また、私は今回の場合、基本的にフェミニズム側の意見に賛成の立場でもある。その表現が提示される場所に対して適切なものであるべきだという主張それ自体は、表現の規制を求めているというよりも改善を求めていると思えるし、その改善の要求は性にかかわる表現については妥当だと思える。第一弾において胸の表現は過剰だったと思うからだ。それにたいして第二弾は、クレームを入れられたから取りやめるというよくありがちな浅はかな対応をせずにキャンペーンを続行した点、そして、第二弾の表現が第一弾に対してなされた改善の要求に対してある程度の折り合いをつけているとみなせる点で評価すべきであると思う。

本を裁断しないで、かつ速く自炊する方法

 

自炊というと本を裁断をするか、地道にプリンターでスキャンするしかないように思われがちだ。裁断は本をダメにしてしまうし、スキャンもグッと本を何度も押し込んでいたら傷んでしまう。スキャンの場合、時間もかかるし体力も持ってかれるので、何冊も自炊するのは現実的じゃない。

 そこで今回は、本を傷めないで、なるべく綺麗に、しかも素早く写真を撮って本を自炊する方法を紹介していく。この方法なら、慣れれば一冊15分くらいで自炊できるようになる。

 本を傷めないなら、図書館から借りてきた本を自炊しても問題ない。もう手に入りにくいような古典的な名著やらクソ高いお値段の専門書などを自炊しておくと、いつでも読めて便利だ。

 それに本というのはかさばるので、自炊は部屋の片づけにもなる。たしかに紙の本でしか味わえない魅力があるのはわかるけれど、ある程度の量に抑えておきたいものだ。私の場合、学術書は比較的愛着がわかないので、さっさと自炊してメルカリなどで売ってしまっている。

 ただし、今回紹介する方法は、そこまで綺麗に画像化できるわけじゃない。下の画像のようにページを開いている親指が映り込むし、ノドの部分は暗くなる。あくまで本を傷めず、読むのに問題ないレベルで画像化できるというだけで、綺麗さは二の次で良いという人向けの方法だ。

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文庫本だとこんな感じ

 

必要なもの

 もちろん、タダではできない。多少機材をそろえる必要がある。以下が、必要なものになる。

 

 

  • 机と椅子
    部屋にあるでしょう。

  • PC
    撮影した後、画像管理したり編集したりするのに必要。おすすめの編集方法も後で紹介する。

 

 三脚と書見台とアプリを買うとなるとだいたい5千円くらいだ。別に安いわけじゃないが、高すぎるってわけでもない。

 

自炊のやり方

 必要なものリストを見れば、なにをどうするのかなんとなくわかってもらえるだろう。台に本を、三脚にスマホをセットして、一枚一枚ページを手でめくって写真を撮っていく。態勢としては三脚の前に座り、両サイドから手をまわして本をおさえるかたちになる。

 ポイントは、書見台によくついている固定具は使わずに手で本をおさえることだ。固定具を使うとカメラに対して紙面が湾曲しすぎてしまい、画像化してもとても読めたものじゃない。それに、毎回1ページ開いては固定具で固定していたら時間がかかりすぎるし、固定具は本が傷む可能性があるので、やっぱり手でやるのが一番いい。そのほうが本の位置調節もしやすい。

 そうなると両手がふさがることになるので、シャッターは足で押すことになる。そのために遠隔操作するシャッターリモコンが必要になる。そうすることで、手でページをめくって足でシャッターを切るというサイクルを素早く回して撮影できる。慣れればだいたい一冊15分くらい、薄めの新書だと10分くらいで終わる。

 

 あとはいくつか細かいアドバイス

 ページをめくるうちに書見台が動いていかないように、壁を背するといい。それが無理なら後ろに壁になるような物を置く。

 外光はノドの影を強くしてしまうし、安定しないので、作業するときにカーテンを閉めて、部屋の照明だけになるようにしよう。

 書見台の角度は、紙面が照らないような角度を自分で見つけること。角度が足りない場合は、台の足場に何か挟もう。私は新書を三冊くらい挟んで本の角度が垂直近くになるよう調節している。

 

撮影が終わったら画像編集

 撮影が終わったらPCに画像データを移動させて、抜けているページがないかまず確認しよう。すこし面倒な作業だが、意外と抜けがあったり、ピントがぼけて読めなかったりする可能性があるので絶対やるように。あとで気づいて、もうその本が手元にない、なんてことになったら目も当てられない。

 早く確認するコツは、5回スクロールすればちょうど10ページ進んだことになるので、5枚目のページがちょうど10の倍数とプラス1になっていれば抜けはない。ズレてたら要確認。

 

 確認が終わったら、文字をより読みやすくするために画像を編集しよう。

 画像編集にはpicasa3を使う。picasa3は、一括で大量の画像を編集・一括保存できるので、自炊にはうってつけだ。画像をモノクロにして、ハイライトをいじれば下の画像のようになる。ファイルサイズも減ってデータ容量の節約になるので一石二鳥だ。

 さらに、マクロツールをインストールして使えば、編集を自動化できる。 私はHiMacroExっていうフリーソフトを使っている。

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冒頭であげたやつと同じページ

 

 

画像を編集したらタブレットで読もう

 一応これで自炊についての説明は終わりになる。

 そのまま自炊した画像をPCで読むのももちろんありだけど、私はFireHD8っていうAmazonで売ってるタブレットで読んでいる。セール中は5千円くらいだったけど、今見たら9千円…。8インチはちょうどいい大きさだけど、安い7インチでもいけるっちゃいけると思う。まぁそれでも6千円だけど。次のセールを待つのもありだろう。

 

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もし買うという人がいたら、もともと入ってるビューワーもAmazonアプリストアも貧弱なので、Googleプレイストアを導入して、perfectビューワーっていうアプリを入れると良い。

 

【読書感想】吉田裕『日本人の戦争観』(文庫版2005、岩波書店)

はじめに

 

吉田裕『日本人の戦争観』(文庫版2005、岩波書店)を読んだ。戦争責任全般はどのように捉えられてきたのかを論じた本だ。

実はこの記事はけっこう昔に書くだけ書いて、下書きのままほったらかしにしていたのだが、消すのももったいないので、いまさら公開することにした。

まぁ感想というより、ほとんど要約という感じだけど。

 

ダブル・スタンダード

 本書は終戦から2000年代に至るまでの、日本人の十五年戦争日中戦争アジア・太平洋戦争)に対する戦争責任の捉え方を論じている。戦後の時代変遷から日本人が十五年戦争についてどのように表現してきたか、そこにどんな心理が働いていたのかを説明している。

 現在の日本人の歴史観を説明付けるキーワードとなるのは、「ダブル・スタンダード」である。

対外的には講和条約の第一一条で東京裁判の判決を受諾するという形で必要最小限の戦争責任を認めることによってアメリカの同盟者としての地位を獲得する、しかし、国内に置いては戦争責任を事実上、否定する、あるいは不問に付す、というように、対外的な姿勢と国内的な取り扱いを意識的にせよ無意識的にせよ、使いわけるような問題の処理の仕方がそれである。(p.91)

 日本が戦争責任を対外的に認めるとしても、それは周辺諸国との外交を円滑に進めるため、という現実的かつ消極的な理由による。つまり、国益に反するから建て前として戦争責任を黙って受け入れているが、本音では納得できていないというわけだ(その証左として、「大東亜戦争肯定論」が形を変えながら偏在し続けている)。

 そこにあるのは、未だに日本は本来の意味で過去を清算できたとは言い難く、戦争責任を全うしたうえでのナショナル・アイデンティティー確立には至っていない、という現実である。言い換えれば、未だにあの戦争は侵略だったか自衛だったか、という地点から国民の意識が発展していない。本書の言葉では、「過去の歴史をまさに歴史として対象化できていないこと、すなわち、私たちは未だに『戦争の時代』を生きていることを意味していることになるだろう(p.268)」。

 本書は、国外向け(建て前)と国内向け(本音)で相反する立場を使い分ける政治態度が、戦後、いかにして形成され、どのように揺らいでいったのかを中心に論じている。

 このダブル・スタンダードが出来上がったのが、1950年代、アメリカの占領政策から講和へと向かった時期のことだという。戦後まもない時期から日本人の戦争観が、いくぶん歪んだものとして立ち現れ、戦争に対する正当な反省を経ないままに講和へ至ってしまったことが原因だとする。

 歪みが生じた要因は二つに分けられる。それは、日本にとっての十五年戦争と、戦後の連合国(アメリカ)による占領政策の特殊性である。(pp.260-264)

 

十五年戦争の特殊性

1.戦中期における日本国民の生活が、困窮化の一途をたどったこと。

・限られた資源で軍需をまかなうために、国民生活を犠牲にする政策が意図的にとられたことによる。

・戦中期は、日本人にとって「もののない暗い時代」として回想されることになった。(ドイツの場合、生活水準の低下は比較的緩やかで、これは日本特有の現象だという)

 

2.軍部が独自の政治勢力となって、戦争を推進したこと。

・戦中期を「軍部独裁の時代」として捉えるようになった。

東京裁判に象徴されるように、戦争責任を全て軍部に押し付けるような形で過去が清算された。

・官僚や宮中グループ、政党、財界、マスコミなどの戦争への同調、協力は事実上不問に付された。

 

3.日中戦争と地続きのままにアジア・太平洋戦争に突入したこと。

・中国という当時の弱小国との戦争から始まり、最終的にアメリカという超大国に敗れたという事実によって、戦争責任を考える際にアメリカに敗北したという面が強調され、アジアは無視される傾向が生じた。

 

4.敗戦の結果、台湾・朝鮮という日本の植民地の喪失が自動的に実現したこと。

・欧米諸国が植民地との闘争の果てに撤退を余儀なくされたのとは違い、その過程をたどらずに済んだ日本は、植民地主義に対する清算という問題を深く自覚する機会を逸した。

 

 

戦後の占領政策の特殊性

1.連合軍による日本占領が、事実上アメリカの単独占領だったこと。

アメリカの国益占領政策に色濃く反映するようになった。

・日本人の戦争観といった価値観の面でもアメリカの影響を直接受けることになった。

 

2.冷戦への移行の中で、対日講和自体が次第に戦後処理としての性格を喪失していったこと。

・日本を西側陣営に組み入れるためのアメリカの政治的配慮があらゆる問題に優先するようになった。

・その結果、対日講和は、戦争責任問題の側面においては、日本にとって「寛大な講和」となった。

 

3.アジア諸国の国際的地位が低く、なおかつ極東においてはアメリカの圧倒的覇権が確立しているという国際環境の下で、日本の戦後処理があわただしく進められたこと。

・戦争の最大の犠牲者だったアジア諸国独自の要求や批判は、ほとんど無視された。

・アジアに対する加害責任を認識する機会を日本はほとんど持ち得なかった。

 

 以上のような状況下でダブル・スタンダードが成立したと本書はまとめている。

 ここから見えてくるのは、十五年戦争の過程と戦後のアメリカの占領政策によって、日本のナショナル・アイデンティティは、天皇に象徴される存続できたものと、軍部やアジアのリーダーたる日本といった存続できなかったものとの間で引き裂かれてしまったということだろう。このあいまいさに耐えられなかった結果の両極が、一方で昭和天皇に代表される指導者の戦争責任論であり、一方で大東亜戦争肯定論であるとも言えるだろう。この揺れ動きを本書は、ある程度妥当性をもって描き出すことに成功しているように思える。

 

大東亜戦争肯定論

 60年代前半に台頭してきた林房雄に代表される大東亜戦争肯定論は、侵略戦争ではなく自衛戦争、もしくはアジアを西洋帝国主義から開放するための戦争だったとして積極的に肯定するものであった(p.142)。興味深いのは、それが90年代に入ると、昭和天皇は平和主義者であり、戦争には反対だったとする宮中グループ史観と対立し、結果的に退潮していったという指摘だ(p.228)。大東亜戦争肯定論が、昭和天皇が戦争に反対だったとしつつも、戦争が正当なものだったと主張することは、論理的帰結として天皇を否定することになってしまう。そのため、大きな勢力をもつには至らなかったという。しかし、文庫版のあとがきでは、90年代半ばからまた台頭してきたとしている。

 もう一方の極である指導者の戦争責任論は、昭和天皇の死去したことで、今さらそれを問うことの積極的な意義を失っているように思える。

 

本書の限界

 吉田氏は、文庫版のあとがきにおいて、本書の限界として、その記述の仕方には、「侵略戦争という客観的事実を正確に写し取った戦争観があらかじめ存在し、その戦争観を基準にして他の戦争観の編さを測定するという方法が無意識のうちに採られている」と、自己批判している。そのような視点からは、複数の戦争観のせめぎ合いにから新しい戦争観が出来上がっていくという、複雑な過程をとらえきれなかったとする。ようするに、吉田氏が想定するような、戦争責任をより積極的に全しようとする理想的な戦争観へと向かうレールに、戦後を通して形成されてきた責任意識を無理やり乗せようとしても、それが成功するとはとても思えないという限界だ。人々の多様な記憶や経験、アイデンティティーは簡単には変えられないし、自分たちが悪者だったと認めるとなればなおさらだ。大東亜戦争肯定論が現在においてもなくならない原因もそこにある。

 

キズナアイ騒動~おたくとフェミと、時々、日本~

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はじめに

タイトルは東京タワーのもじりですが、深い意味はとくにないです。

 

さて、キズナアイ騒動、まだ余波が続いてるんだよね。

いろんな人がもうさんざん喋りまくってるから、もう私なんてなんも言わなくてもいいかなぁなんて思ってたんだけど、言いたいことが一つだけ見つかったので、記事を書くことにしました。

概略とかめんどくさいんで書きませんが、今回の騒動がどんな経過をたどっているのかは、こちらの記事から辿っていけば大体わかると思います。

maname.hatenablog.com

まぁようするに、フェミニストオタク文化擁護派(表現の自由戦士は蔑称っぽいので使いません)の戦いなわけですね。これだけなら、これまで何度も繰り返されてきた、わりとよくある光景ですよね。

けどひとつだけ、今回は事情が違っているなぁと感じるのは、キズナアイについて問題視したのが学者という肩書で大学にいらっしゃるような、いわゆるアカデミズム系の方たちで、ネット記事を書いて意見までしているという点です。Twitterでつぶやいたりってことはこれまでにもあったと思うんですけど、今回はすごいですね。いままではネットの一部でバトってた印象がありましたが、こうなってくるといよいよ本格的な闘争になるのか?というような雰囲気が出てきてしまっているわけです。これはマズいですね。

 

なんでこんな事態になったのかといえば、天下のNHKキズナアイを起用したことが大きいことは明らかなんですが、もっと大きな視点に立ったときに、オタク文化が日本文化に「昇格」してしまったことがそもそもの原因なんじゃないか?と私には思えます。

どういうことかというと、オタク文化が社会に浸透してきており、また政府のクールジャパン戦略などによって日本文化としても大きな存在感を持ち始めている。今回いよいよアカデミズム系のフェミニストのみなさんが出てきたのは、キズナアイをめぐって以上のような背景を強く意識せざるを得なかったためだろう、ということです。

 

また、中にはキズナアイの容姿が男性主体の性的な欲求に基づいて設計されているなどと主張をする人もいますが、私はまったく同意できないし、そのような議論は不毛なので、今回記事で取り上げる「フェミニスト」というのは、有意義な議論をしている人たちに限定されていることはあらかじめ言っておきます。

 

オタクとフェミニストのすれ違い

フェミニストたちが持つオタク文化=日本文化という認識で、わかりやすい例がこの記事です。筆者は、同志社大学佐伯順子教授です。

gendai.ismedia.jp

この記事の冒頭にこうあります。

日本のポピュラー・カルチャーが海外で人気を博し、それが海外の若者への日本文化や社会への関心に結びついている現象は、文化による国際交流としては喜ばしいことであり、日本の「ソフト・パワー」として高く評価されている。

ただし、かわいらしさや未熟な少女らしさを特徴にした姿が海外で主流化するのは、日本女性を性的対象とみなす古い「ゲイシャ」イメージの焼き直しになりかねないのではないか。

ようするに「萌えキャラ」が海外で人気になるのってマズいんじゃね?と、佐伯先生は思っているみたいですね。

それに続けて、次のようなことも言っています

現代日本においても、“かわいい”少女キャラクターの海外での人気に自信をつけたかのように、少女キャラクターをグローバルな文化、社会的できごとを報道する際に利用する動きがみられる。

日本政府観光局がバーチャル・ユーチューバ―である「キズナアイ」を訪日促進アンバサダーに就任させたのはその象徴的な例であり、「キズナアイ」の存在感は、ノーベル賞に関するNHKの特設サイトへの起用にまで及んでいる。

 日本が主体的に、しかも公的に「萌えキャラ」を使っていくのはさらにマズいよね、と言いたいようです。

そして、その象徴的な例として、キズナアイを持ち出して来ています。まぁ確かに、彼女の日本政府観光局(JNTO)による観光大使への任命や、今回のNHKによる起用が、彼女にさらなる公的なお墨付きを与えるものというのは、歴然たる事実だよね。

簡単に言えば、ポップカルチャー日本代表の一人がキズナアイだと見なされているわけです。サッカー日本代表みたいな立ち位置ですね。うーん、察しのいい人はここらへんで、「日本を背負う」っていうことのややこしさ、面倒くささが想像できるんじゃないでしょうか。

日本代表ってことになると途端に世間の厳しい目にされされるという例は、枚挙にいとまがありません。最近でいえば、テニスの大阪なおみ選手についても、本人からしてみれば迷惑でしかないような議論が続いてますよね。「日本」ってラベルがくっつくとあらゆる物事が途端に面倒くさいことになるのが、逆説的に「日本」の特徴ですらあると思います。

 

さて話を戻しますが、上の記事で佐伯先生は、オタク文化=日本文化という前提の上で、オリエンタリズムという用語を持ち出しています。オリエンタリズムとは、ざっくり言うと、世界の「中心」である西洋から、「周縁」のオリエント(非西洋)へ向けられる好奇や侮蔑、幻想の入り混じった偏見のことです。

今回の場合、「かわいらしさや未熟な少女らしさを特徴にした」女性キャラクターが、その扱い方によっては、成熟した強者たる西洋と未熟な弱者たる日本という構図を再生産することになってしまうのではないか、と問題視しています。過去にはゲイシャが、現代ではいわゆる「萌えキャラ」がそのような役回りを演じてしまうのではないか。さらに言えば、萌えキャラがメイド・イン・ジャパンとして海外に売り込まれていくとき、日本人女性に対する偏見も再生産してしまうのではないか、というわけです。

このように見ていくと、この記事はゲイシャや萌えキャラそれ自体を叩いているわけではなく、それらを「日本」というラベルで売り出していくことを問題視していることがわかります。

 

私の意見ですが、佐伯先生の批判には、単なるアニメ・漫画表現としての萌えキャラ批判はどうも無理筋だけど、公の場に出張ってきたキズナアイをめぐる今回の事例ならいけるだろう、というグラデーションが見られます。というのもあって、じつは記事中で論点が前半と後半では変わっていて、んんん…?となるのですが、その一方で、キズナアイをめぐる批判だけ見れば、それなりに痛いところをついているなぁと思う部分もあります。

それは例えば、キズナアイが日本の観光大使として海外にPRするとき、不本意であっても日本人女性の表象を背負ってしまうかもしれない、という点です。確かに、そのように捉える人は出てくるかもしれません。正確には彼女はAIであって人間ではありませんとか、彼女が日本人女性を模しているとは必ずしも言えませんとか、中の人なんていません!とか言ってみたって、外国人の大多数が素直に了解してくれるでしょうか。日本語ネイティブの「中の人」という一つの人格を認めるとき、「日本人女性」という要素をキズナアイから完全に捨象するのは難しいと思います。

そして、そんな彼女の振る舞い方、扱われ方によっては、それは日本人女性をステレオタイプに押し込めてる!なんて言ってくる人が出てこないと言いきれるでしょうか。それに加えて、お前は日本代表なんだからこれくらい言わせろ!とか思っている人たちは、これからもきっと出てきますよ。

超めんどくさいですよね。でも、「日本」というラベルを張られるっていうのは、こういうことです。今回の騒動は、その前哨戦に過ぎないと私は思いますね。

 

以上のように、オタク文化が日本文化に「昇格」してしまったこと、その象徴としてキズナアイを捉えたからこそ、今回の出来事をフェミニストは危機感をもって批判しているのです。そして、オタク文化擁護派はそれをオタク文化の否定と捉えてフェミニストに反発している、という構図になっています。

でも、そもそもなんでこんな構図が出来上がってしまったのかといえば、政府がクールジャパン戦略と称してお金稼ぎを始めたからですよね。この点に意識があまり向いていないので、両者のすれ違いが起こっているように見えます。

 

オタク文化=日本文化と誰が決めたのか?

 一度疑ってみなければならないのは、オタク文化=日本文化という認識そのものです。

例えば、漫画家やアニメーター、コンテンツを消費するオタクたちに、われわれは日本を代表する文化の担い手なのだ、といったような意識がどれくらいあるでしょうか?

ぶっちゃけ、そんなにないですよね。

 

ではそもそも、オタク文化=日本文化って誰が決めたんでしょうか。それはクールジャパンという概念がどうやってできたのか、という問いと同義といっていいでしょう。

business.nikkeibp.co.jp

上の記事は、クールジャパンの成り立ちから概念の変容について順を追って論じており、非常にわかりやすいです。さらには政府の金策として官製標語になってから、いかに批判されてきたのかも解説しています。

この記事の指摘で重要なのは、クールジャパンには本来的な意味と官製的な意味の二つがあるという点です。前者は海外における日本のポップカルチャー熱といった現象そのものを指し、後者は政府の官製標語を指します。この二つは似て非なるものだというのです。

そして、官製クールジャパンに対しては、否定的な声がコンテンツ産業の当事者からも聞こえるといいます。

現状、クールジャパンと聞いて、「外国人が評価してくれている日本のポップカルチャー」とポジティブに捉える人も一部にはいる。ただ、ネガティブ派もけっこう増えてしまった。

「また政府の無意味なターゲット政策か」と思う人もいれば、「アニメ・マンガなんかに税金を使うな。ほかのことに使え」と憤る人もいる。「政府が介入すると失敗する」という悪しきジンクスを信じる人も多い。「自分でクールと言うな」という意見もある。そして、当のコンテンツ産業の中には「関わりたくない」という人もいる。

 音声合成ソフトで歌うバーチャルアイドル初音ミク」を生んだクリプトン・フューチャー・メディア伊藤博之社長は、ツイッターでこうつぶやいたことがある。

 「クールジャパンで引っ張ってきたこの数年間で、ビジネス的には何も起きなかったこの閉塞感を、新たなるコンテンツ(ボカロ)に求められても、そもそもの政策方針がプアなら、結果もプアになるわけで、それに巻き込まれるのは・・」

この記事を読む限りでは、批判は主にビジネスとして失敗しているという点においてであり、日本文化の代表選手としてオタク文化を含むポップカルチャーが神輿として担がれている点には無関心であるように見えます。もちろんこの記事だけで判断はできませんが、先立つものはお金であり、文化的意義は二の次というのが実態であるのは想像に難くないでしょう。つまり、「日本」というラベルのややこしさ、面倒くささはとりあえず置いておいて、まずはお金という意識が先行している。それがクールジャパンであり、オタク文化=日本文化という「公式」を成り立たせている意識なのです。

 

キズナアイ観光大使就任やNHKへの出演は、クールジャパン戦略やその延長線にあると言えます。もちろん、政府戦略に乗るというのは彼女自身の選択なので、それを頭から否定するべきではないとは思いますが、今回の騒動で「日本」というラベルを背負うことのリスクが浮き彫りになったというのもまた事実ではないでしょうか。そのほとんどは難癖が飛んでくるリスクかもしれませんが、中には日本人女性への偏見を作ってしまわないか、といったような軽々に無視できない批判も出てくるわけです。

ここでオタク文化擁護派は、批判してくるフェミニストをみんなで打ち倒せばいいと思っているかもしれません。しかし、私にはそれでパッヒーエンドを迎えられるとはあまり思えません。なぜなら、いまはフェミニストの声が目立っているけれど、その陰には日本代表ってことになると途端に厳しい目を向けてくる世間ってやつが隠れているからです。むしろ本当のラスボスはこっちではないかと思うのです。

 

おわりに

この記事を書こうと思ったのは、オタク文化擁護派はわりとオタク文化=日本文化という「公式」に乗っかることに対して手放しで歓迎している感じがあり、それってけっこう危ういなぁと思ったからでした。

 オタク文化が日本文化として公式のお墨付きをもらうことに、いったいどれだけの意味があるのか、私には疑問です。先ほど述べた官製クールジャパンの根底にある意識や、そこで丸め込まれている「日本」というラベルの面倒くささを踏まえた上で考えてみると、果たしてそんなに喜ばしいことなのでしょうか。オタク文化に対して胸を張るために、日本文化という固有性の枠組みに押し込んてしまう必要は必ずしもないと私は考えます。

 

最後に言っておきますが、私は、キズナアイのやってることは体制迎合だ!とか批判したいわけじゃありません。観光大使NHK、それはそれでいいと思います。ただ、キズナアイが「日本」というラベルを背負ったのは彼女が自ら選んだことであって、彼女を応援するならそのことに自覚的であるべきだと思うんですよね。

そう、これが言いたかった。

 

ではこのへんで。

「最善の相」の誕生 または、これを読めば、小宮-青識論争に最短で追いつける(完結)

 

青識亜論(ネット論客)vs小宮友根(社会学者)両氏による論争に最短で追いつくための記事でしたが、論争はすでに終結しました。

 

 

 

ぶっちゃけ、論争部分は、最後の「小宮氏の主張に関するやりとり」だけを読めば事足ります。

 

論争の発端となった発言

 

Aさん(Cさんが想定する外国人の友人)「日本女はなぜに簡単にやらせてくれるの?」

 

Cさん(瀬戸内快男児氏)「...と真顔で聞かれると答えに困るので、海外には貞操観念をしっかり持っていきましょう。ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ。」

 

Bさん(jiji氏)「それってあなた自身が馬鹿にされてるんだよ。『あなたの国の女性はなぜ簡単にやらしてくれるの』なんて聞くのは喧嘩売ってるのと同義なのに、そこで『貞操観念をしっかり持ちましょう~』とか自国の女性に言うこのピントのずれ方やばい。」

 

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両者の主張

 

青識亜論氏の主張(問題提起)

jiji氏の発言は、次の二つの理由で問題である。

 

①jiji氏の発言は、男性に怒ることを要請しており、男性に強くあるよう求めているのと同義である。

これはHeForSheの理念と矛盾しているから、フェミニストがjiji氏を批判しないのはおかしい。

 

②jiji氏の発言は、「女性は貞淑であるべきだ」という価値観を前提にしており、女性の貞操観念が低いことを否定的に評価するよう求めている。

これはフェミニズムの思想と矛盾しているから、フェミニストがjiji氏を批判しないのはおかしい。

 

小宮友根氏の主張(反論)

jiji氏の発言の趣旨は、「差別的な価値観に乗るな」である。

だからフェミニストはjiji氏を批判する必要はない。

 

両者はjiji氏の発言について、どちらの解釈が「より妥当」と言えるのかで論争をしていました。

 

青識氏の主張①に関するやりとり

 

1 青識氏の主張①

・HeForSheの理念は「男は強くなくてもよい」である。

・「喧嘩を売っているのと同義」「あなたは馬鹿にされている」は「男は強くあるべきだ」と言っている。

・ゆえに両者は矛盾する。

 

2 小宮氏の質問①

「喧嘩を売っているのと同義」「あなたは馬鹿にされている」は、「男は強くあるべきだ」と言っていることになると考える理由は?

 

3 青識氏の応答①

「あなたの国の女性は...」という発言に直面した男性に対して、怒るよう要請しているように読めるから。

 

4 小宮氏の質問①

なぜ「怒るように要請すること」=「男は強くあるべき」になるのと考えるのか?

 

5 青識氏の応答①

・怒りへの要請は、必然的に戦い、闘争への動員を意味している。

・その要請にこたえるためには強さが必要である。

・ならば「怒るように要請すること」=「男は強くあるべき」となる。

 

6 小宮氏の反論①

「怒る」と「闘う」は同じ意味ではない

・ある言動を「怒るべき」ものだと示すことは、必ずしも「相手と闘争せよ」を意味しない。

・「怒りへの要請」は「必然的に」「闘争への動員」だと言う根拠は?

 青識氏は、「怒りの要請」を「*男として*怒ることの要請」としてのみ理解しているように見える

・たとえば自国の女性への「悪口」に「怒るべき」というのが「自国民として怒るべき」という意味なら、仮に「怒るべき」が「強くあるべき」だとしても、「自国民は強くあるべき」という意味になって「男は強くあるべき」という意味にはならない

・もし青識氏が「自国民として怒ることの要請」のような理解を排除し「男として怒ることの要請」という理解のみを採用しているなら、その根拠は?

 

7 青識氏の反論①

 「怒る」と「闘う」は同じ意味として理解可能な場合もある

・例えば「職場で女性に重要な地位が与えられないことに怒れ」という言説は、女性を抗議や戦いへと動員してきた歴史がある。

・つまり、フェミニズム的観点からくる怒りへの同調を呼びかけることは、「闘え」と同義である。

 

8 青識氏の新たな主張①

ナショナリズム的解釈が成り立つとしたら「青識氏の主張②」と同じ理由で問題だ

・jiji氏が「同じ日本人として喧嘩を売られているんだよ」というナショナリスティックな怒りへの同調をCさん呼び掛けているのだとしたら、jiji氏は「自国の女性の貞操観念も擁護できず、外国人に取られてしまう日本人男性も貶められているよ」と言っていると理解できる。

・その場合、jiji氏が「女性は貞節でなければならない」という価値観に捉われていることになり、フェミニズムの理論と矛盾する。だからフェミニストがjiji氏を批判しないのはおかしい。

 

 

 やりとりはここで中断

 

 

青識氏の主張②に関するやりとり

 

1 青識氏の主張②

・「喧嘩を売っているのと同義」「あなたは馬鹿にされている」は女性の貞操観念が低いことを否定的に評価するよう求めている=「女性は貞淑であるべきだ」という価値感を前提にしている。

フェミニズムの理念は女性の貞操観念が低いことを否定的に評価するよう求めない。

・ゆえに両者は矛盾する 。

 

2 小宮氏の質問②

「喧嘩を売っているのと同義」「あなたは馬鹿にされている」は、女性の貞操観念が低いことを否定的に評価するよう求めていることになる、と考える根拠は?

 

3 青識氏の応答②

一般的に、「あなたの国の女性(男性)は○○である」を「喧嘩を売っているのと同義」みなす場合、○○に入るのは相手に否定的評価を下す言葉であると理解できるから。

 

4 小宮氏の反論②

「あなたの国の女性(男性)は○○である」という発言を「喧嘩を売っている」と理解するために、聞き手自身が「女性(男性)は○○であるべきではない」という前提を持っている必要は必ずしもない。

例 「チビ」や「つり目」などの身体的特徴を揶揄された場合

 

5 青識氏の反論②

・小宮氏が言うような他の解釈がありうるとしても、「○○」について話者が否定的評価をしているのだろうと推論するほうが自然である。

・例えば、○○人が差別されている社会において、「あなたは○○人のようだ」という発言に対して、「あなたを○○人のようだというなんて、あなたは馬鹿にされているのだ」「喧嘩を売られているのだ」ということは、差別的規範を受容してしまっている。

 

6 小宮氏の質問②

Aさんが特定の価値観のもとでBさんを低評価して侮辱したとき、「Aさんが侮辱をした」ことをBさんが理解するためにBさん自身はその価値観を持っていなくてもよい(Aさんがその価値観に従って発言していることをBさんにわかっていればよい)、これに反論はあるか?

 

7 青識氏の応答②

単に「理解する」だけなら「持っていなくてもよい」だろう。

 

 

つまり、反論はないようです。

ここで二人が合意したのは、Aさんとjiji氏のうちjiji氏だけが差別的規範を前提にしていないパターンは成立しうる、という点です。

 

 

8 青識氏の新たな主張②

・Aさんは「あなたの国の女性は貞操観念が低い」という発言を、差別としてではなく賞賛や中立的な意見のつもりで言っている可能性もあるから、Aさんが差別的規範を前提にしているかは不明。

・BさんがAさんの発言を勝手に侮辱と理解するのは、Bさんが差別的規範を前提にしているからだ。

 

9 小宮氏の質問②

青識氏は次の二つのことを言っている。

・Aさんが「○○は悪い」という価値観を前提にしてるかは不明

・Bさんは「○○は悪い」という価値観を前提にしてる可能性が高い

AさんよりBさんがのほうが「○○は悪い」を前提にしてる可能性が高いと考えるのはなぜか?

 

たとえばAさんがつり目ジェスチャーをした。Bさんは「喧嘩を売ってる」と理解した。このとき

・Aさんが「目が細いこと」を否定的に評価してる可能性

・Bさんが「目が細いこと」を否定的に評価してる可能性

を比べて後者のほうが高いと考えるのはなぜか?

 

10 青識氏の応答②

そういう問いであるならば、どちらも「○○が悪い」という価値観を前提していると推論する蓋然性は高いと私は思う。

 

11 小宮氏の指摘②

ならば、Aさんが「○○は悪い」という価値観を前提にしてるかは不明、というのは不要な懐疑だ。

 

 

ここで二人が合意したのは、jiji氏が差別的規範を前提にしている可能性は、Aさんより高いとは言えない、という点です。

 

 

12 小宮氏の質問②

「jiji氏はAさんの発言を勝手に侮蔑と判断し、それを投げかけられた男性に怒るよう要請した」とどういう根拠で考え、それを「フェミニストが批判しないのはおかしい」とどういう根拠で考えているのか?

 

13 青識氏の質問②

Aさんの発言は侮蔑だ、とjiji氏が判断したことについて、小宮氏は疑義があるのか?

 

14 小宮氏の応答②

「jiji氏はAさんの発言を勝手に侮蔑と判断し、それを投げかけられた男性に怒るよう要請した」という解釈に同意できるかどうかに私が答えるには、「勝手に」の意味と、「侮蔑」がどういう侮蔑なのかを先に青識氏に説明してもらう必要がある。

 

 

以降、二人はひたすら「勝手に」と「侮蔑」という言葉について吟味していきます。

 

 

15 青識氏の応答②

・「勝手に」は、この文脈では「相手が侮蔑の意味でそれを言ったのか確認を取ったわけでもなく」といった程度の意味である。

・「貞操観念が低い」というのは一般に悪口であるから(フェミニズムがどうこうとは関係なく)、jiji氏は日本人女性全般への侮蔑と感じたのだと推論できる。

 

16 小宮氏の質問②

つまり青識氏は、jiji氏が「あなたの国の女性は…」という発言について、発言者が侮辱の意味で言ったのかどうか確認することもなく、日本人女性全般が侮辱されたと判断し、それを言われた男性にそのことに対して怒るよう要請している、と理解した。

・青識氏は上記の理解にもとづいて「フェミニストはこれを批判すべきだ」と主張したが、それはフェミニストもjiji氏について上記のように理解するだろうと考えたのか?

・青識氏自身が「『貞操観念が低い』というのは一般的に悪口である」と理解しているのに、jiji氏がそれを「侮蔑」と理解したことについては「勝手に」という否定的ととれる形容をしているのはなぜか?

 

17 青識氏の応答②

フェミニストがどう理解するかはこの場合関係ない。一般的にそのように理解できるという点を重視した。

・「貞操観念が低い」を侮蔑の文脈で使うことは、「フェミニズムの論理」から言えば、否定的に扱われるべきものだと考えたから。

 

18 小宮氏の質問②

後者の回答「勝手に」についてもう少し詳しく。

フェミニズムの論理から否定されるべきもの」だとして、なぜそう理解することを「勝手に」と形容する必要があるのか?

「批判するときにはちゃんと確かめるべし」というのような理屈か?

 

19 青識氏の応答②

jiji氏の理解が「フェミニズムの論理」から言えば「批判されるべきもの」であるから、否定的な修辞として「勝手に」を使っている。

気になるのなら「勝手に」はあってもなくてもいい。

 

20 小宮氏の質問②

jiji氏の理解が「フェミニズムの論理」から言えば「批判されるべきもの」であると考えたのは青識氏である。

したがって、「勝手に」という否定的評価も青識氏が下していることになるが、それはなぜ?

 

21 青識氏の応答②

「私から見て」ではなく、「フェミニズムの理論から見て」否定的な評価をしている。

 

22 小宮氏の質問②

「jiji氏は勝手な理解をした」という否定的評価は「誰」の考えか?青識氏か青識氏の想定する「フェミニスト」か?

 

21 青識氏の応答②

主語は私であるが、否定的評価のもとになっているのは私の価値観ではなく「フェミニズムの理論」である。

 

22 小宮氏の反応②

OK。意味がわからないということがわかった。

 

解説

上記の「勝手に」の意味についてのやりとりは、少しわかりにくいので解説します。

もとになっているのは、「jiji氏はAさんの発言を勝手に侮蔑と判断した」という青識氏の見解です。 さきほどから二人は、この一文について、とくに「侮蔑」と「勝手に」という言葉の意味を吟味しています。

青識氏は、一般的にAさんの発言は侮蔑と判断できるから、jiji氏もそのような一般的な判断をしたのだろうと言いました。

これは、青識氏がjiji氏の判断が妥当なものだと肯定的評価をしている、と捉えることができます。

しかし一方で、青識氏は「勝手に」という否定的な評価ととれる修辞をつけています。

つまり、青識氏は、「jiji氏は勝手に一般的な判断をした」という肯定的評価と否定的評価が同居したよくわからないこと言っていることになります。

それに対して、えっそれってどういうこと?と小宮氏が理解に苦しんでいるのが一連のやりとりだと思われます。

 

私の見解ですが、おそらく青識氏は「jiji氏がAさんの発言を侮蔑と判断したこと」は、「一般的な判断」である場合と「勝手な判断」である場合の2パターンに分かれる、と言わねばなりませんでした。

青識氏は、jiji氏が「Aさんの発言をただの悪口だと一般的な判断をした」(肯定的評価)、もしくは「Aさんの発言を性差別だと勝手な判断をした」(否定的評価)、この2つのパターンのどちらであるとしても、結局「男性に怒ることを要請している」ので発言には問題がある、と主張しているからです。

ここで青識氏は、この2つのパターンを混同するミスを犯してしまったため、意味不明なことを言ってしまっているのだと思います。

 

 

23 小宮氏の返答②

話を戻して、青識氏の「jiji氏はAさんの発言を勝手に侮蔑と判断し、それを投げかけられた男性に怒るよう要請した」という理解に私が同意するかどうか答える。

私は、jiji氏の発言の主旨が「セクシズムなりレイシズムなりに乗るな」であると理解できる、と主張している。

したがって、「フェミニズムと関係ない侮辱」とか、よく意味のわからない「勝手に」とかいう形容をともなう理解に同意するわけがない。

答えはNo。

 

24 小宮氏の質問②

青識氏は私が同意していると思っていたのか。それとも同意していないと思っていたのか。それともどちらかわからないと思っていたから尋ねたのか。どれ。

 

25 青識氏の応答②
わからないから聞いている。 

 

26 小宮氏の反応②

青識氏は、相手が同意するかどうか「わからない」と考える命題に対して「これはフェミニズムと整合するんですか」と尋ねていた。

つまり、その質問に回答するために必要な、命題の前提となる理解の共有を無視していた。

これは多重質問の誤謬である。

 

 

 やりとりはここで中断

 

 コラム 「多重質問の誤謬」とは?

 

(wikipedaより引用)

多重質問の誤謬(たじゅうしつもんのごびゅう、英: loaded question, complex question fallacy)は、誤謬の一つである。

多重質問は、議論に関わる人々が受け入れていない、あるいは証明されていない前提に基づく質問。それに起因する誤謬を多重質問の誤謬という[1]。たとえば「あなたはまだ妻を虐待しているのか?」といった質問がある。この質問に対しては「はい」と答えようが「いいえ」と答えようが、「あなた」には妻がいて過去に虐待したことがあるということを認めたことになる。つまりこれらの事実が質問の「前提」とされたため、相手は多重質問の誤謬の罠にかけられ、一つの答えしかできない状況に追い込まれる[1]。質問者は修辞的にこのような質問を行い、特に返答を期待していないことが多い[1]

 

 

この場合、小宮氏が「受け入れていない前提」だと言っているのは、「jiji氏はAさんの発言を勝手に侮蔑と判断し、それを投げかけられた男性に怒るよう要請した」という部分です。

青識氏は、「jiji氏は...した」という解釈の中身について小宮氏がちゃんと理解していると判断し、「これはフェミニズムと整合するのか?」という質問をかなり粘り強く何度もしていました(この記事では割愛しましたが)。

そして、後になってから「『jiji氏は...した』について、小宮氏は疑義があるのか?」と質問しなおし、「わからないから聞いている」と言いました。

これに対して小宮氏は、最初の質問は多重質問の誤謬だと批判しました。

 

 

小宮氏の主張に関するやりとり

 

1 小宮氏の主張

・「あなたの国の女性は…」という発言には、差別的要素が含まれている。

  「簡単にやらせてくれる」かどうかだけで女性を評価することにはセクシズムが、

  また「日本人の」女性に対してことさらそうした評価が向けられるのであれば

  そこにはレイシズムオリエンタリズムが含まれていると理解できる。

 

・jiji氏のツイートの趣旨は、男性に対して「そうした差別的要素の乗っかるな」である。

・青識氏は、「あなたの国の女性は…」という発言をただの「悪口」と捉え、「日本人男性は思いやりがない」といった「悪口」と同等に扱っているが、これは誤りである。

 

2 青識氏の質問

・「あなたの国の女性は…」という発言が、「簡単にやらせてくれるかどうか『だけ』で女性を評価」しているかどうかは不明ではないか?

・セクシュアルな傾向性に言及することが即座にセクシズムなのか?

・日本人に対して評価的な判断をすることがオリエンタリズムレイシズムなのか?

 

3 小宮氏の応答

「あなたの国の女性はなぜ簡単にやらせるの?」発言がセクシズムである理由

・「あなたの国の女性は...」発言は、セクシュアルな傾向について否定的な評価をおこなって卑下をしていると理解するほうが自然だと私は思う。

・その理由は、「女性は貞節でなければならない」という価値観のもとで女性が性的にアクティブであることを否定的に評価し、そうした女性を卑下してきた歴史があり、「あなたの国の女性は…」発言は、その価値観を表現にしていると理解できるからだ。

実際、Cさん(瀬戸内快男児氏)もそのような価値感に乗っかっている

・Cさんが「自国の女性」に対して「貞操観念を持ちましょう」と注意したのは、「簡単にやらせる」発言を「あなたの国の女性は貞操観念がない」と否定的に評価されたと理解したからだろう。

・この「貞操観念」からの評価というのは、女性にだけ貞節であることを要求する点で、女性の性的自己決定権を軽んじ男性と対等に扱わない性差別的なもの。(性の二重規準)

・したがって、Cさんは「あなたの国の女性は…」という発言に含まれるセクシズムに乗っかっている、という理解をすることができる。

オリエンタリズムないしレイシズムの判定基準について

オリエンタリズムないしレイシズムかどうかは、単に「日本人に対して評価をする」かではなく、文化的ないし人種的に自分たちとは異なるとみなすことによって、対象を自分たちと対等ではない、異質で劣った存在として扱っているかどうかによる。

 

4 小宮氏の批判

・青識氏が性差別の歴史を知っていれば、「あなたの国の女性は...」発言が差別的だとわかるはず。わかっていないとしたら無知すぎる。

・青識氏が「あなたの国の女性は...」発言が差別的だとわかっていたなら、 jiji氏の発言を最善の相で理解しようとしたとき、jiji氏の発言の趣旨が「差別的価値観に乗るな」である可能性に思い至るはず。思い至っていて、あえて他の可能性を指摘しているなら、批判相手の趣旨を最善の相で理解する努力を放棄しており不誠実である。

 

 

時系列的には、ここから「青識氏の主張①、②」に分岐し、小宮氏が青識氏に対して突っ込みを入れても埒が明かないので、また↓に戻ってきた、という感じです。

 

 

5 小宮氏による主張の再説明

 

小宮主張再説

TwitLonger — When you talk too much for Twitter

 

 

まぁ、これは読みたい人が読めばいいと思います。(読まなくても議論の流れは追えます)

 

 

6 青識氏の質問

解釈の妥当性を述べていない

・なぜ「貞操観念が低いの?」というAさんの問いが、「女性は貞節でなければならない」ということを表しているのだ、と言えるのか?

・jiji氏が「フェミニズム的ではない解釈をした」可能性はありうる。(例えば、「青識氏の主張①に関するやりとり」の中で出てきたナショナリズム的解釈)

・にも関わらず、なぜ小宮氏はjiji氏の発言を「フェミニズム的解釈をすべきだ」と主張するのか?

・小宮氏は、jiji氏が「Aさんが差別的価値観から発話している」とフェミニズム的な解釈をしたことの妥当性が述べられていない。 

 

7 青識氏の疑念

私の疑念は、フェミニズム的に正しい・ポリティカルコレクトである解釈と、そうでない解釈が並び立った時に、小宮氏は、フェミニスト(jiji氏)の発言に対してだけ「最善の相」に立って解釈するよう要求しているのではないか?ということである。

つまり、小宮氏は、Aさんの発言に対しては「最善の相」に立って解釈するよう要求していないのではないか?だとしたら、小宮氏は不誠実である。 

 

 

8 小宮氏の撤回と再主張

 

「最善の相」について

TwitLonger — When you talk too much for Twitter

 

「最善の相」について撤回

・「最善の相」という書き方は適切ではなかった。

・「二つの合理的な解釈があるとき、相手の主張に有利な解釈を採用せよ」と要請しているように読める。

・これは自分が意図していた「相手の発言をもっとも合理的に解釈せよ」という要請とは別ものであり、混乱を招くものだったので撤回し、以下のように訂正する。

訂正後の主張

・Bさんの発言について、それがフェミニズムの考えに抵触するという解釈と、しないという解釈のいずれもが合理的であるのなら、フェミニストが前者を採用すべきであるということが示されない限り、『フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき』とは言えない。

青識氏に求める反論

青識氏が「フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき」という主張を維持するためには

・「jiji氏の発言はフェミニズムの考えに抵触しない」という解釈(私がこれまで示してきた解釈)が合理的ではないこと

・いずれの解釈も合理的であるがフェミニストは青識解釈を採用すべきであること

これのどちらかを示す必要がある。

 

コラム 「最善の相」とは?

小宮氏は、批判相手の趣旨を「最善の相」で理解する努力をするべきであり、それをあえてしない人間は不誠実である、と言いました。

これに対して青識氏は、それは相手の趣旨を忖度して考えろと言っているようなものだ。しかし、いままでフェミニストは批判相手の趣旨を忖度してきたか?してこなかっただろう?自分たちにだけ都合の良いことを言うな、と反発しました。

これを受けて小宮氏は、「最善の相」とは、「二つの合理的な解釈があるとき、相手の主張に有利な解釈を採用せよ」ではなく、「相手の発言をもっとも合理的に解釈せよ」という意味で使った。しかし、確かに誤解を招きかねない表現だった、として発言を取下げました。

 

 

 

以下から、最後のやりとりになります。

 

 

青識氏

 要するに小宮氏の主張は、ある表現に対する合理的な二つの解釈があったときに、フェミニストは自分たちに都合のよいときは差別的だ(フェミニズムに抵触する)という理解をしてもよいし、それが自分たちに向けられたときは拒否できるというということだろう?

 

小宮氏

違う。

自分たちの解釈の方が合理的だと言えれば、「相手も自分たちの解釈を採用するべきだ」と主張できる。

 

青識氏

フェミニストがいくら「これは差別だ」と批判しても、批判の対象に「それを採用せよ(=差別と認めるべき)」とは主張できない、ということだろう?

これではフェミニズムの規範的な効力が失効しそうだが。

小宮氏
フェミニストが「自分たちの解釈のほうが合理的」であることを示す努力をすれば失効はしない。

 

青識氏

ここでいう「合理的」とはなんだ?

多くの人が差別的でないと合意している表象でも、フェミニストの批判の対象になることはありうるわけだろう?

「合理」とは何を根拠として、どう判断されるものなのか。

 

小宮氏
脇道に逸れたくないので、その質問が今の議論とどう関係していて、その答えがないと反論ができないのか、だとしたらなぜか教えてくれ。

 

青識氏
脇道と言うか、ここが本質のように思う。

解釈の合理性とは、誰にとっての合理性なのか?

あるいは、誰かの主観ではなく、別の外部的な規範から調達されるものなのか?

 

小宮氏

・「合理的」の意味がわからないから「フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき」という自分の主張の合理性を示せと言われても具体的に何をしてよいかわからない

ということか?

 

青識氏
私はすでになすべき反論している。

 

小宮氏

私の求めた反論はまだしていない。

 

青識氏

私は小宮氏の解釈が誤りであるとは主張していない。

それは私の解釈とは異なるが、一つの解釈としては成立するかもしれない。

しかし、問題は、その解釈が成立するとして、だからなんなんだ、と聞いている?

 

それが私の反論だ、と言いたいのでしょう。

 

小宮氏

青識氏は「フェミニストはjiji氏を批判すべきだ」と主張したのだから、そこには「フェミニストも自分と同じ解釈を採用するはず(or)すべきだ」という前提があるはず。

なぜそのように考えるのかを明らかにしてくれ、とずっとお願いしている。

 

青識氏

私は、フェミニストの倫理では、差別性を見出しうる、ある任意の解釈があれば、批判可能なのだと思っていた。

なので、「性の二重規範に基づくマッチョイズムに基づく発言」と解釈可能なjiji氏の発言を差別性を見出しうると判断し、批判した。

しかし、フェミニストが「最善の相」に基づく批判しかできない、とするなら別の話だ。

 

小宮氏

フェミニストは他者の発言を批判するときに、他の合理的な解釈があってもフェミニスト解釈に従うことを他者に要求してきた。従って青識氏もjiji氏の発言に対して、他の合理的な解釈があっても青識解釈に従うようフェミニストに要求した

ということか?

 

青識氏
そうだ。私はそのように思っている。

ある表象の差別性を告発するときに、その表象が「差別的でないほかの解釈があるか」ということを、フェミニストが十分に検証してきたとは思えない。

しかし、一方でフェミニストは、他の合理的な解釈があってもフェミニスト的解釈に従うことを他者に要求してきた。

 

小宮氏
では、「フェミニストがおかしな議論の仕方してるように見えたから同じようにやり返したった」ということなのか?

 

青識氏
それを「おかしな議論の仕方」と小宮氏が評価するのであれば、そういうことだ。

 

小宮氏
私の評価は関係ない。

青識氏が「フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき」と主張した、その根拠を尋ねている。

 

青識氏
私の主張を、小宮氏がどう評価するのかを明言してくれ。

なぜ私だけが根拠を尋ねられる必要があるのか?

 

小宮氏
青識氏の主張の根拠を尋ねてるところだからだ。

 

青識氏
では、私も小宮氏の価値判断を聞きたいのだが、「おかしな議論の仕方」と私の主張を捉えるのか?

 

小宮氏
その前に、私の質問への答えは「Yes」ということでよいか。

 

小宮氏
では、「フェミニストがおかしな議論の仕方してるように見えたから同じようにやり返したった」ということなのか。

 

青識氏の
「おかしな議論」という評価が正しいかどうかは、小宮氏の答え次第だ。

 

小宮氏
別に表現は「おかしな」でも「悪い」でも「筋が通らない」でも何でもいいのだが、青識氏はフェミニストの議論の仕方を否定的に評価していて、今回はその同じ議論の仕方を自分でフェミニストに対してやってみせた、ということでいいのか?と聞いている。

 

青識氏の
さあ、どうなんだろう。

ただ、私はフェミニストたちの議論の仕方をトレースしただけで、特に今のところ明確な価値判断をしたつもりはない。

 

小宮氏
「明確な価値判断をしていない」なら、どういう根拠で「フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき」と主張したのか。
フェミニストはこういう議論の仕方で他者の発言を批判しているようだ。この議論の仕方が良いか悪いかはわからないが、自分も使ってみよう。

ということでよいか。

 

青識氏
というより、実際にフェミニストの発言が同じ方法で批判されたときにどのように理解するのか、ということが私の疑問だったのだ。

一線級のフェミニストであられる小宮氏が議論に参加してもらったことは、その点で全く僥倖であると私は考えている。

 

小宮氏
フェミニストはこういう議論の仕方で他者の発言を批判しているようだ。この議論の仕方が良いか悪いかはわからないが、自分も使ってみよう。それに対してフェミニストがどう反応するか見てみよう。

ということか。

 

青識氏
あえて言い換える意図がよくわからないが、私がすでに言ったような意味だ。

 

小宮氏
「青識氏がすでに言った意味」がわからないから確認している。
フェミニストはこういう議論の仕方で他者の発言を批判しているようだ。この議論の仕方が良いか悪いかはわからないが、自分も使ってみよう。それに対してフェミニストがどう反応するか見てみよう。

ということでいいのか?

 

青識氏
すでに言った通りだ。

 

小宮氏

フェミニストはこういう議論の仕方で他者の発言を批判しているようだ。この議論の仕方が良いか悪いかはわからないが、自分も使ってみよう。それに対してフェミニストがどう反応するか見てみよう。

ということだったと理解してよいのか、と確認させてほしいだけだ。

青識氏
同じ批判の方法で批判をし、その正当性を問うているという意味ではそうだ。

 

小宮氏
OK。ということは青識氏の今回の「フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき」というご主張は、青識氏自身も「正当性」があるかどうかわからない(「明確な価値判断をしていない」)議論の仕方によって主張していた、ということだ。


青識氏
「その前に」と言ったのだから、そろそろ小宮氏の価値判断を聞かせてもらえないか?

 

小宮氏
いや、もう議論は終りだ。なぜ終りかは以下で説明する。

 

 終わり

TwitLonger — When you talk too much for Twitter

 

もはや争点がないので言うことはないのですが、私の感想は「『反応を見るための釣りでした』のような指し手をは、いついかなる状況でも議論から離脱するために使えますよね」です。後の評価は第三者にゆだねます。

 

ようするに、青識氏、議論から逃げたね、みなさんどう思いますか?と言っていますね。

 

  観戦?してくださった方々へ

TwitLonger — When you talk too much for Twitter

 

ただ、(終り方は予想していなかったので結果論ですが)私自身がこの何の得にもならない、時間を浪費し実名で恥をさらしおそらく研究者フォロワーからは顰蹙を買うだけだったやりとりから「伝わったらいいな」と思うのは、双方が「議論するという営為」にコミットしなかったら「議論」は成立しないよ、ということです。

 

これは、つまり、今回の論争は、そもそも議論として成り立っていなかった、と言いたいのでしょう。

 

解説 「合理的」とは?

以上のやり取りで二人は、お互いにある質問をし、それに回答するよう要求し合っています。

しかしなんのことはありません。これは二人の決定的な認識の相違から来ているだけのことです。

それは「合理的」という言葉についての理解の違いに表れています。

 

青識氏は、「フェミニズムフェミニスト)の主張は、ある表現に対する合理的な二つの解釈があったときに、フェミニストたちに都合のよいときは差別的だと理解してもよいし、それが自分たちに向けられたときは拒否できる。」と言いました。

青識氏は、二つの解釈がどちらも「合理的」であった場合、優劣はつけられない。つまり、本来は判断を保留するしかないのに、フェミニストは自分たちに都合よく判断している、と理解しているわけです。その「都合のいい判断」を「最善の相」という言葉をあえて使って茶化しています(撤回を無視)。「フェミニスト特有の都合のいい論理」だと最後まで批判したいのでしょう。

そして、青識氏は質問で、「フェミニストの論理」をトレースした自らの主張(それが成功しているかは置いておいて)を小宮氏に「おかしな議論」だと否定的に評価させようとしているのですが、これはただの揚げ足取りが目的だろうと思います。

 

一方で小宮氏は、「自分たちの解釈の方が合理的だと言えれば、『相手も自分たちの解釈を採用するべきだ』と主張できる。」、そして「フェミニストが『自分たちの解釈のほうが合理的』であることを示す努力をすれば(フェミニズムの論理は)失効はしない。」と言いました。

小宮氏は、二つの解釈がどちらも「合理的」であった場合、どちらがより合理的」かによって優劣がつけられる。そして、優位であることを示す努力をすれば、「相手も自分たちの解釈を採用するべきだ」と主張できる、と理解しているわけです。

そして、小宮氏は質問の結果、青識氏が反論を放棄している、つまり「自分の解釈のほうが合理的」であることを示す努力を放棄していると判断し、論争終結を宣言した、というのが一連のやり取りです。

 

私は、このやり取りを見て、青識氏があがりを決め込んだのは時期尚早だなぁ、と感じました。なぜなら、二人の「合理的」という言葉の解釈に相違がある以上、青識氏が「フェミニストの論理」を忠実にトレースできているかはまだわからないからです。これでは青識氏が必要なあがり札を確保できておらず、議論の放棄と見なされても仕方ないと思います。

小宮氏が論争を打ち切りにしたのは、青識氏のとんだ茶番劇につき合わされた、もしくはフェミニストに対する印象操作の道具にされたと捉え、これ以上の歩み寄りはせずに損切りに回ったということだと思います。

 

以上です。

みなさんお疲れさまでした。

 

 

その後のやり取り

 

青識氏

 結局、小宮氏は価値判断を最後まで避けた。

いちおう言っておくが、他者の思想を検証するにおいて、そのものが利用している論理の構造を逆に当てはめてみるというのは、「釣り」ではない。

正当な議論の方法論だと思う。

 

小宮氏

海法 紀光@nk12 9月13日

青識さんの考える「フェミニズムの論理」を相手が認めたなら、「それを認めるなら、これも認めるだろう」といった話ができますが、認めたわけでもなく、認めざるを得ない筋道も出してないので、単に脳内論理を勝手に当てはめてるだけで、それは反転可能性でもなんでもないですよ。

↑をRTしたうえで

そもそも「相手が自分に向けてやってる(と自分が思う)ことを相手に向けてやる」ことを「検証する」とは言わない。

 

小宮氏

いまだに「最善の相」という私が使った表現に関するtwが流れてくるので、落ち穂拾い的な話をひとつ。

 「最善の相」について(2)

TwitLonger — When you talk too much for Twitter

 

青識氏
とりあえず、小宮先生は最後まで本当に根気強く付き合ってくれたとは思う。誠実さについても疑っていない。もちろん、かみ合わない部分も数多くあったが。


いわゆるフェミニズムによる性表現批判は、多くの場合、一見するとなんでもないように見える表現について、「性差別」を読み取る構造になっており、必然的に複数の合理的な解釈から「最悪のもの」を読み取ることが「可能である」という議論に立ってきた。

「私達は差別となる『可能性』のある表象を批判するべきだ」ということがフェミニストの批判には内在していた。「差別的意図のないただの観光PR」という解釈と、「この絵は性的消費だから差別だ」という解釈を比べて、どちらが合理的か、という検証は果たしてこれまでなされてきたのか。

もちろん、私たちは、意識的にせよ無意識的にせよそのような論証をいつでもフェミニストに強いる戦術をとってきたかもしれない。しかし、その戦術の正しさを、小宮先生がお手ずから裏書してくれたというわけだ。それは素晴らしいことだ。

 

青識氏

せっかくなので、noteで今回の小宮先生との論争について、論点と私の見解をまとめた。これからのTwitterフェミニズムと戦うに際して、一つのパッケージができたのかなと思っている。

 

論点整理:小宮・青識論争――または「最善の相」について|青識亜論|note

 

 

小宮氏

特に言うべきことはないので、比べて読んでいただければと思う

小宮主張再説

TwitLonger — When you talk too much for Twitter
「最善の相」について

TwitLonger — When you talk too much for Twitter
終わり

TwitLonger — When you talk too much for Twitter
「最善の相」について(2)

TwitLonger — When you talk too much for Twitter

 

「最善の相」と表象の問題についても、これなら上の(2)に急いで何か付け加える必要はないかな。

なお考えていたのは、表象の差別性が争われる場合、ある表象が差別的と解釈できるかという問いに加えて、差別的と解釈しうる表象が用いられる表現をどう扱うべきかという別の問いがあって、そのぶん議論は複雑になるよね、ということ。

 

こちらはずっと「その主張がどう正当化できるのか」を問うていたのに対し、相手は「どう正当化できるのか」どころか「自分がどんな主張をしているか」にもあまり関心がなかったのではという印象を確認させてもらえる「論点整理」だった。

後から見て最大限好意的に解釈すると、「フェミニストダブスタだ」という類いのことが言いたくて、(1)HeForSheとJ発言、(2)フェミニストの議論の仕方と自分の議論の仕方、(3)小宮発言とフェミニストによる表象批判、などを並べて見せているという感じ。

私が今回議論をしてたのは(1)のJ発言の理解について。議論の最後に突然出てきたのが(2)。「論点整理」の後半に書かれているのが(3)。

けれど並べられた個々の要素をどう理解しどう比較すべきかについて自分の主張を正当化するという作業がないので、根拠が示されないままただ並べて「みなさんわかりますよねー」という以上のことになっておらず、(1)から(2)(3)へとぽんぽん飛ぶことにも疑問を感じていない。

繰り返しだけど、「自分がどんな主張をしてて、どうしたらそれを正当化できるか」ということへの関心がとても低いと思う。

関心もってやりとりを振り返ってくださっている方は、ぜひ「互いがどのような主張を提示していて、それをどのように正当化しようとしているか」という筋を再構成しようとしてみていただければと思います。