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脱マラ オナ禁に代わる新たな男性のための実践

 ”脱マラ”という言葉を提唱します。

 なにそれ? リセマラじゃなくて?

 違います。

 

  脱マラの”マラ”とは、男性器の”マラ”のことです。性欲から自由になるための実践を、脱マラと称することにしました。

  なぜこの言葉が必要なんでしょうか?それはオナ禁という言葉がどうもしっくりこないからです。

  オナ禁という言葉を男性なら一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。オナニーを我慢することで自信がみなぎってきて活動的になったり、肌や髪質が改善したり、女子にモテてるようになったりするなど、いろんな恩恵が得られるとまことしやかに言われているアレのことです。

  オナ禁からリタイヤすることを”リセット”と呼ぶそうです。オナ禁とは、延々とオナ禁とリセットを繰り返すことになります。ようするに、リセ”マラ”ですね。

  脱マラ、つまり性欲から自由になるための実践とは、性欲のリセマラというサイクルから脱することです。オナ禁とどう違うかと言いますと、まずオナニーを我慢するという点は同じです。しかし、目指すところは正反対です。

  オナ禁はその先に活動的になる、女子からモテるといった具体的な成果が想定されていますが、脱マラはオナニーを我慢しなくてもしないのが当たり前の状態それ自体を目標とするのです。はじめは性欲の発散を我慢するところから始め、意識せずとも性欲が湧いてこなくなればゴールです。

  多くの男性にとって性欲を我慢することは容易なことではありません。オナ禁という言葉が成立する背景もそこにあります。我慢が困難であるからこそ、それを行うことでなにか良いことがあるはずだという発想に説得力が生まれるのです。 しかし、オナ禁は性欲を自明なものとしている点で不十分であると私は考えています。

  男性が抱える辛さについて考える際に、”非モテ”という問題はよく取り上げられます。”非モテ”であるということによって生じる男性の辛さとは、ありていに言えば、「男性が女性と交際して、セックスによって己の性欲をより良いかたちで発散させることができない状態」のことです。男性が女性と交際できるというのは、性欲の「より良い発散」ができるばかりでなく、社会的な承認を受けられることにも繋がります。逆に言えば、”非モテ”の問題とは、己の性欲を社会的に承認される形で発散できないならば、それは「不健全」な状態であるという発想に基づいていると言えます。これは性欲を自明なものと見なし、その発散に過剰に執着しているからこそ生まれる辛さに他なりません。

  ところで、性欲がないならないほうがいいと考える男性は、意外と多くいるのではないでしょうか。性欲のせいで不本意な行動をとってしまうことは辛いことですし、性欲を発散させた後のむなしさは性欲が自分を救ってくれるわけがないと感じさせるには十分でしょう。しかし、性欲がない状態が実現可能であるとはとても思えないからこそ、”非モテ”という辛さを男性にとって根源的なもので、その問題から逃れ得ないのだとつい考えてしまうのです。

  「不健全」よりも「健全」な状態を目指すことは、それ自体否定すべきものであるとは特段思いませんが、そうした価値観を相対化する選択肢もあったほうが良いでしょう。そこで提示したいのが脱マラというオルタナティブな道です。どちらの道が自分にとって辛くなく、健やかに生きられるかを考えて選び取ればいいのです。

 

  脱マラは、性欲を否定した2人の人物から着想を得たものです。それはゴータマ・ブッダとエマヌエル・カントです。

  ブッダが成し遂げた解脱とか悟りとか言われているものとは、簡単に言ってしまえば、あらゆるストレスの根源を断ち切ることです。つまり、解脱の一要素として性欲がない状態があると言えるでしょう。ブッダは、脱マラを成し遂げた人物であり、先駆者と見なすことができます。脱マラとは、性欲に起因するストレスを断ち切ることだけにとりあえず集中するということです。解脱は凡人にとってはハードルが高すぎますが、その中の一部分だけならなんとかなるのではないかという発想です。ちなみにマラとは、もともとは仏教用語で、マーラー(魔羅)という悪魔が由来です。

  仏教は性欲を悪しきものとしただけでなく、女性差別的な要素を持つことでも知られています。

 女性は修行しても仏になれないとする「女人五障(にょにんごしょう)」、女性は親、夫、子に従うべきだとする「三従(さんしょう)」の教えのほか、女性は男性に生まれ変わって成仏できる「変成男子(へんじょうなんし)」思想を紹介するもので、現代の目線で見ると差別的な内容だ。古代インド社会の女性差別観が仏教に流入したものという。

 女性は仏になれない…仏典に残る性差別 どうすれば:朝日新聞デジタル

 ただ、こうした教えは、ブッダの死後の仏教が保守化する中で取り入れていったものです。 ブッダ自身は当時において比較的男女平等に近い思想の持ち主であったらしいです。

  とはいえ、ブッダと女性に関するエピソードの中にこんなものもあります。マーガンディアというバラモン(司祭)が美人の娘を連れてきて、婿になってくれと頼んできたのに対し、ブッダは「この糞尿に満ちた女が何だというのだ。私はそれに足でさえも触れたくない」と吐き捨てて拒絶したというのです。これは自らの性欲を嫌悪するあまり、その負の感情を女性に対して向けている状態ではないかと思われます。これは脱マラを実践するにあたって、反面教師にしなければならないことでしょう。

  ブッダは性に関する欲望を完全に滅するために、異性とのあらゆる接触はもちろん、それについて考えることすらもやめるように説きました。そこまでしなければ異性に対する欲求を滅することができないと考えたようです。しかし、社会でふつうに暮らすなら異性との接触は避けられないし、避けるべきでもないでしょう。脱マラの実践はもうすこしユルいものです。むしろ逆に女性を性欲を発散させてくれる存在と見なさないことによって、女性とより良い関係を築くことを期待してもいいと思います。

  女性を性欲を発散させてくれる存在と見なすことは、その人を道具的に扱うことを意味します。人格や尊厳を無視して、自分の欲望を満たすための手段にしてしまうということです。それは倫理的に問題があると批判した人物がカントです。

  カントの有名な言葉に次のようなものがあります。

 あなたは、あなた自身の人格においてであれ他者の人格においてであれ、人間性を常に同時に目的として扱い、決して単なる手段として扱わないようにせよ。

 『人倫の形而上学の基礎づけ』

 そして、これを性欲に関して当てはめると、カントによれば次のような結論が導き出せます。

 性的傾向性〔ようは性欲〕は、人間が人間としての他人に向かってもつ傾向性ではなく性へと向かう傾向性であるから、この傾向性は人間性を低劣にする原理であり、他人よりも性を優先させて傾向性を満足させることによって人間性を汚す源泉である。ひとが女性に対してもつ傾向性は、ひとりの人間としての女性に対するものではない。むしろ、ある男性にとって女性における人間性はどうでもよく、ただ性だけが彼の傾向性の対象なのである。

 『倫理学講義』

 カントは、その人の人間性よりも性的な満足を優先させることはよくないと述べていて、そこは同意できます。しかし、であるからしてセックスは非道徳的であるというのは言い過ぎだろうと思います(引用文の後にセックスについてそのように言っています)。

  脱マラは、カントのようにセックスを否定しません。お互いが性的な満足のためにするのであれ、同意があってするならば、とくに問題はないように思えるからです。異性に魅力を感じる以上、そこには性的魅力がいくらか含まれているし、そうであればこそセックスへの期待を抱くのはおかしなことではありません。その期待が一方的ではなく双方向な欲求であるとわかった段階であればセックスすること自体に問題はないと思います。セックスがお互いを手段として扱う危険な行為であるからこそ、お互いの信頼関係が必要というのは、一般的な考え方としても違和感はないのではないでしょうか。それに相手の期待に応えなければ、性欲を持った主体である女性の尊厳を傷つけてしまうということもあり得ます。

  ただし、セックスをある種のゴールと見なす発想や、女性との交際はセックスの手段の所有であるといった考えかたはやめるべきでしょう。そのように女性を性的な満足の対象と見なして執着しないようにする努力が必要です。カントが言うように、他人の人間性よりも己の性的な満足を優先してはならないのです。

  では具体的にどうするのかと言えば、オナニーをしないようにしましょうというのが答えです。好きな女性について妄想してオナニーするのも、エロ動画などをみてオナニーするのもやめましょう。オナニーは女性を性的な道具と見なす訓練であると考えてみればわかりやすいと思います。そのような訓練をやめれば、おのずと女性との接し方も、セックスについての考え方も質的に変化するはずです。そして、その変化は女性とのよりよい関係が期待できるものであるはずです。このようにオナニーを否定することを通してセックスを肯定するのが脱マラです。

  その変化が実現すれば、”非モテ”という問題は意味をなさなくなり、解消するとひとまず言えると思います。オナニーを否定し、異性を道具的に見なす習慣をなくすことができれば、性的満足よりも人間性を優先させる関係性が基本となり、異性との交際や異性の獲得による社会的な承認が自分にとって問題ではなくなるからです。そして、セックスへの過剰な期待や執着はなくなり、セックスは異性との交際の単なる一要素、コミュニケーション手段のヴァリエーションの一つにすぎなくなるでしょう。

  以上が、魔羅という憑き物を落として性欲から自由になるための実践である脱マラの思想とその意義になります。

 

  最後に、実際にオナニーを我慢し、オナニーをしない状態がふつうになるためにはどうすればいいのかについて私の経験をすこしお話します。私もまだ模索している最中であり、私自身が脱マラの達成者ではないことをまず言っておきます。

 オナニーを日常的にしている人間にとって、それをいきなりやめるというのははっきり言って不可能に近いです。私は以前タバコを吸っていて、禁煙に成功した経験をあるのですが、オナニーをやめるというのはタバコをやめるよりも圧倒的に難しいと感じます。ですが、いつかは同じようにやめられるはずです。

  重要なのは、日々のストレスを少なくすることです。日々のストレスが多ければ多いほど、それを性欲の発散によって一時的に緩和しようとしてしまうからです。とはいえ、無理に我慢しようとして日常生活に支障をきたしてしまうのであれば、オナニーをしても仕方ないでしょう。大事なのはそこで自分を責めずに、さらなるストレスを生まないようにすることです。

  私は、まずオナニーの記録を取って自分の傾向を観察することからはじめました。オナニーをした日とその回数を記録していく作業を、一年ほど続けました。そうすると、だんだんと傾向や周期性あることがわかってきました。例えば、一度オナニーすると数日は性欲が収まりにくいこと。一カ月に一回くらいは性欲が湧いてこない日が数日続くこと。そうしたときは比較的イライラしてしまいやすいことなど、そういうこともメモしていきました。

  そうした中で仏教について興味を持ち、性欲を滅するためにどのような実践があるのか調べてみました。その中で有効かつ自分でもできそうな実践は、瞑想くらいでした。出家はもちろん、女性と一切接触を断つとか、断食をするとか、女性の死体が腐っていく様を見続けるとか、そんなことしたら日常生活が成り立ちませんので。瞑想の方法は、ヴィパッサナー瞑想というものを参考にして、最近は毎日仕事が終わって寝るまでの間に一時間くらいしています。その成果にはいまのところけっこうな手ごたえがありました。まだ日が浅いので、自信をもって言うことはまだできませんが、続けていくつもりです。

  このようにまだ道半ばですが、とにかく、理論的な部分を整理したいと思い、この記事を書くことにしたという次第です。

 

 おわりに一枚の写真を上げたいと思います。

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マン・レイ《解剖学》1930年頃

  この写真は、見ての通り男が顎を天に突き上げているさまが、まさしく勃起したマラのように見えるというシュールレアリスティックな作品です。これが男性の本性であるとでも言いたいのでしょうか。つまり性欲に理性を支配されているということが。多くの男性がそのことに対して恐れを抱いてきたことは確かでしょう。いまその恐れを認めて、向き合うことが必要ではないかと思います。

 

 参考文献

 魚川 祐司『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』 (新潮社、2015)

 江口 聡「性的モノ化と性の倫理学」『京都女子大学現代社会研究』(135号、2006)

『チェンソーマン』のエ ロはアイロニー

 

 

藤本タツキといえば、Twitterで「妹の姉」という読み切り作品を無料公開したら叩かれていたのが印象に残っている。妹が無断で描いた姉のヌードが学年一位をとったので学校の玄関口に一年間飾られることになってしまい、姉は己のあられもない姿を晒されて公開処刑されてしまうという出だしの物語だったので、まぁたしかに批判できそうな点はあるものの、まずもってよくできた作品だなと思った。おそらくこの人は女性の裸体を漫画で描くことのマズさを十分理解していて、しかしそれでも女性の裸体が描きたいから描いているのだなと思った。いわゆるラッキースケベのような出来の悪い言い訳とは一味違って、何かべつの新しいレトリックが生み出そうとしていることにひたむきさがあり、それはそれで創作として正直であり、健全なのかもしれない。

 余談だが、執拗に女性の裸体を描きまくっている鶴田謙二の『ポム・プレゾニエール』という漫画がある。鶴田謙二の漫画には、セクハラがわりとそのまま描かれたりするのでなんとも読んでいて居心地が悪いが、この作品は、女性が自分以外誰もいない環境においてではあるが、とにかく一人でに裸になりたがり、読者はそれを覗いているのか、彼女の猫たちが読者に成り代わってその女体と戯れるという趣なので、セクハラよりはたいしたことないがこれは一義的には男性の目の保養のために描かれているという点では同じである。ただそうした点を踏まえたうえでこの作品の女性の身体をなお良いと思えるのは、わざとらしい性的な魅力の押し売りがなく、どこまでもその人のものでしかないところの身体を描いているからだ。

 

 

 「妹の姉」も、最終的にヌードが彼女たちにとっては己のための道具でしかないというふうに描かれているし、最後に提示されるヌードが性的魅力を強調するために描かれているわけでもない。ただし、作者としては女性の裸体を描きたいという欲求が根底にあり、女性が自分自身のものであると考えるところの身体こそ真に魅力的ではないかという主張なので、これも結局一義的には男性読者にむけたプレゼンなのだが、覗き趣味を打ち出す『ポム・プレゾニエール』よりはるかに真面目だ。

 現在連載中の『チェンソーマン』もやはり性的な描写が特徴的で、それはエロいことを実現させるために主人公が払う犠牲が過剰すぎるというアンバランスさにあると思う。それに加えて、性的描写自体はかなりあけすけであっても、それがまともな恋愛に発展する見込みがないことが最初から決まっていることにある種の悲哀と笑いがある。エロいことがいやらしく描かれているという感じがしないのはそうした理由で、女性側がそれをいやらしいことだとはっきり自覚したうえで堂々と割り切ってやっているから、さほどいやらしくならない。むしろいやらしさというノイズがなくなってはじめて見えてくる良さというものがあるのだと気づかされる。

 主人公のデンジはエロいことをしたいと本気で思っているので、そのためなら命がけで悪魔と戦うし、そのおかげで死にかけることもある。普通の人間の考えでは胸を揉むという行為にそれだけの価値はないが彼にとってはあるわけだ。そして、そうした彼の情熱とは裏腹に、女性にはそれぞれの思惑があってエロいことは結局彼を利用するための道具でしかないという意識のギャップがある。だが彼の視界においては、欲しかったものが目の前にあって、手が届くかもしれないという希望に満ち溢れていて、それが可笑しいやら悲しいやらで読む者は一喜一憂する。ようするにこの物語はエロい行為を最上の価値と見なす男の期待がことごとく裏切られ続けているがそれに気づかないという滑稽話とも見なせるのであって、この漫画の性的な描写は、女が自分の身体を己のものだと理解しているぶんだけ女のほうが利口だと感じさせることで成り立っている。そしてむしろだからこそ性的な欲求をどこまでも正直に描くことができるというレトリックなのだ。

 作者が女性の裸体を描くことのマズさを理解しているのと同様に、男性の欲求をそのまま描くことのマズさを理解しているからこうした描き方になっているのだろうと思う。そういう真面目さがあってなおかつ男の性的欲求に良く応えてみせる女を描くにはどうしたらいいかという知恵を出してくるところが『チェンソーマン』の独特さなので、つまり少年漫画がたびたび描いてきたエロの値打ちを男の側が勝手に過剰にインフレさせて、そのエロに対する情熱の空回りを描くアイロニーがそれなのだ。

キョン子と、美少女になりたいオタク男子たち

キョン子・おぼえていますか

キョン子、というキャラクターをご存じだろうか。2006年に放送された大ヒットアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の主人公キョンを女性へと性転換させた二次創作キャラクターのことだ。もうほとんどの人は知らないか、忘れてしまったかだろうが、当時私はこのキャラクターのことがかなり気に入っていた。『ハルヒ』には三人のメインヒロインが登場するが、その誰よりもファンダムの中から発生したにすぎないこのキャラクターのほうが好きだったほどだ。当時風に言えば「萌え」ていた。

 最近では、2018年放送のアニメ『ポプテピピック』の最終話でキョン子ハルヒと思しき二人が登場し、ちょっとした話題になった。Twitterで「キョン子 since:2018-3-24 until:2018-3-26」と検索すると放送時に結構な人数が反応しており、「やっぱりみんなハルヒキョン子に見えてたのか」、「キョン子とかいうワード懐かしすぎて死んだ」、「今ならハルヒキョン子の百合を見たい」といったツイートが散見される。

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画像出典:【ポプテピピック】最終回12話の元ネタ・小ネタのまとめ〈https://matomame.jp/user/FrenchToast/a450eac378fdb3664b47?page=2

 アニメ『ポプテピピック』は、ネットミームを最近の新しいものから知る人ぞ知るものまで幅広くパロディとして盛り込んだことで話題となった作品だ。そんな幅広いネットミームの中で、キョン子はもはや後者の部類に入っていると言っていいのかもしれない。だが、当時の『ハルヒ』ブームの中で二次創作をネット上で楽しんでいたオタクなら、深入りはせずとも、いわゆる「性転換ハルヒ」の存在は知っていたという程度には認知度があったように思う。

 しかし、なぜいまさら忘れられかけているネットミームキョン子に注目しようというのか。それは、私のオタクとしての原点のひとつに、このキャラクターの存在があると思うからだ。そして、この経験はなにも私個人だけのものではなく、同世代のオタクたちの経験の中に位置づくのではないかと思えるからだ。具体的に言えば、最近の男性オタクたちが美少女になりたいという欲求をありふれた感覚として捉えていことと、キョン子というキャラが生まれ、それが受け入れられていった現象にはなにか通じているものがあるのではないか、ということだ。

 

腐女子が生んだキャラクターにオタク男子たちは堕ちた

 キョン子というキャラクターが創作され、オタク男子たちを魅了していった主な舞台は、ニコニコ動画だった。ニコニコ動画は、オタクたちが好きな作品の二次創作動画を投稿したり、それにコメントしたりしてコミュニケーションをする場として一時代を築いた動画サイトだ。とくに『ハルヒ』ブームは、そうしたオタク同士のコミュケーションを一気に加速させた。「性転換ハルヒ」もそうした流れの中で生まれた流行のひとつだ。

 その始まりを振り返ってみよう。アニメの放送から2年ほど経った2008年1月20日に『SOS団のみんなを性転換させてみた。…ちょっとカオス。』という動画が投稿されたのがそもそもの発端だった。

 動画内容は、キャラクターソングのCDジャケットをもとにして原作キャラたちを性転換させたイラストを紹介するというもの。 動画冒頭では、「だいたい発想が腐女子っぽいので...」と自嘲気味なアナウンスが入る。「性転換ハルヒ」の出発点は、『ハルヒ』のヒロインたちを腐女子好みのイケメンへと変換してみたらどうなるかといった発想からだったようで、「男→女」への性転換キャラはおまけのようなものだったことがうかがえる。この腐女子の発想から派生的に、オタク男子にも訴求力のあるキョン子というキャラクターが生まれたというのは、なかなか興味深い現象だ。

 しかし、この動画においてキョン子というキャラが誕生したわけではない。誕生に至るまでには、もういくつかの段階を経る必要があった。この動画の主人公キョンを性転換させたキャラのデザインは、女の子になったというよりキョンがただ女装しているといった感じである。

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 この動画は、「性転換ハルヒ」がブームになるきっかけとして重要だったと思われるが、とはいえ、この動画自体はそれほど伸びなかった。注目を集めたのは、約10日後の1月31日、投稿者の梅津氏がイラストを一部修正して改めて投稿した動画『SOS団とユカイな仲間たちを性転換させてみた。』からである。

  動画は、描き改められたイラストと、そのキャラクターデザインをもとに劇中のワンシーンを改変したイラスト(いわゆるコラ画像)を紹介する内容となっている。キョンの性転換キャラのデザインは、かなり女の子らしい容姿に描き直されている。とはいえ、まだキョン子のプロトタイプといった感じだ。なぜポニーテールなのかといえば、原作においてキョンはこの髪型にとくに萌えるという嗜好があり、その設定をなぞっているからだ。つまり、キョンがもし女の子になるとしたら、自分が萌える女の子の髪形を自分でもするに違いないという発想だ。

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 余談だが、この記事を書くために動画を見に行ったところ、ちょうど今年の2月になって投稿者コメント欄が追記されていた。追記には、投稿から12年経ち、その間に何度か動画を削除しようと思ったが、ひとつのブームとなって大きな反響を呼んだために思いとどまったとある。私がちょうどキョン子の思い出巡礼のようなことをしようと思った矢先のことだったので、あまりのタイミングの良さに驚いた。投稿者の梅子氏には動画を作ってくれたこと、そして、動画を残しておいてくれたことに感謝したい。

 「性転換ハルヒ」がファンの間でブームとなったのは、梅津氏の動画のさらに約一か月後、2月24日にもこみち氏が投稿した動画『ハ/ル/ヒたちを性転換させてみた*1』が起爆剤だった。もこみち氏の動画内容は、梅津氏の動画とほとんど同じであるものの、アニメの絵柄を再現したクオリティーの高いイラストだったこと、キャラデザが転換前の原作キャラをより自然に彷彿とさせる魅力的なものに更新されたことが起爆剤となった理由だろう。そして、この動画においてキョン子というキャラクターのデザインが確定するとともに、オタク男子たちはそのかわいさに意表を突かれてしまったのだった。

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 キョン子のデザインは、梅津氏のデザインからいくつか変更が加えられている。ポニーテールが短くなり、前髪がセミロングに、キョンの男子としては短すぎず長すぎない髪型が女の子のデザインに上手く落とし込まれている。そして、追加要素としてカーディガンが着せられている。以降、キョン子といえば、たいていカーディガンを着ているというのが共通認識になった。胸の大きさは描き手によってまちまちだが、もこみち氏によるデザインのように貧乳として描かれることが比較的多い。

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 今見ても、ボサボサな髪の毛のままうがいをしているところなんか、だらしないところに隙があってかわいいし、もうひとりの「男→女」性転換キャラである小泉一姫にぐいぐい迫られていても鈍感そうなところもかわいいと思える。ちなみに当時の私はキョン子以外にはとくに興味なかったが、今は百合が好きなので小泉には好印象を持った。一方、メインヒロインたちの「女→男」性転換キャラには、今でもまったく関心が持てない。全員が女の子の世界のほうがいい。

 当時、キョン子がとても新鮮に映ったのは、外見だけでなくその性格(いわゆるキャラ属性)との組み合わせによるところも大きい。キョン子の性格を称するために「ダルデレ」という言葉まで新たに造語されたほどだ。pixiv百科事典から引用すると、「ダルデレとは、『面倒くさいなぁ』と言いながらも『はいはい、分ったよ。 やればいいんだろ?』という具合に面倒がりながらも最終的には付き合ってくれる性格の事。 主に涼宮ハルヒの憂鬱の性転換ヴァージョンである涼宮ハルヒコの憂鬱シリーズのキョン子の事を指す*2」。

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キョン子の新鮮さをダイレクトに伝えてくれるキャッチコピー。

 もこみち氏の動画の投稿から一か月の間に少なくとも約300本の関連動画が投稿されていることが現在でも確認できる。もう12年以上前なので、その間に削除されてしまった動画もかなりあるだろう。2ちゃんねるには専用スレが立ち、3月15日の時点で「今性転換タグ見てみたら500件もあったよ 多すぎてワロタ」とレスがついている。「歌ってみた」や「描いてみた」動画、そして、作り手同士が役割分担し、原作アニメを改変してキョン子たちを動かし声を当てたMAD動画などが作られていった。再生数の多い動画をいくつか挙げておこう。


ハルヒ性転換「射手座の日」完全版/"The Day of Sagittarius"[VoiceComplete ver]

 この魅力的なキャラクターたちをもっと動かしたいしゃべらせたいという思いがブームを過熱させたのだろう。当時の私も、原作にキョン子が本当に登場するのかもしれないといった気にさせてくれることを期待しながら、そうした二次創作を楽しんでいたものだ(素人の声が入るとちょっとキツイな...とも思っていたので、ブームにノリノリだったかというと微妙だが)。私が好んでいたのは主にイラストやSSで、原作のイラストレーターいとうのいじ氏の絵を改変したコラ画像がとくにお気に入りだった。

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元はアニメDVDの限定版カバーイラスト。なかなか見つからず捜索が大変だった。

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今回の資料探しで発見したイラスト。すばらしい。当時の私ならPSPの壁紙にでもしていたに違いない。

   特筆すべきは、やはり「性転換ハルヒ」が当初腐女子向けであったことを超えて、オタク男子たちからも受け入れられたことだろう。とくにキョン子には、他の「性転換ハルヒ」のキャラたちとは明らかに一線を画した独自の人気があった。2ちゃんねるに立てられた専用スレのタイトルには【目覚めたら負け】などとあるように、普段BLや百合に興味のなかったオタク男子たちが多少の戸惑いを覚えながらもブームを楽しんでいる様子が観察できる(当時の私は、2ちゃんは見ていなかったが)*3

 とはいえ、「性転換ハルヒ」ブームは、それほど長続きしたわけではなかった。2ちゃんスレの多くはブームが始まって最初の一か月間に集中している。ニコニコ動画においても、「ハルヒ性転換シリーズ」タグが付いた動画を検索すると、現時点でヒットするのは全部で666件*4。そのうち、最初の一か月間の動画投稿数が全体のほぼ半分を占めている。一気にブームが過熱したものの、その後があまり続かなかったということだ。

 ネット上のブームというのは、往々にして燃料となるイベントや事件が定期的に起こらないかぎり、新鮮さを失って自然と沈静化していくものだが、「性転換ハルヒ」も例にもれずといったところか。視点を広げれば、「性転換ハルヒ」ブーム自体が『ハルヒ』ブームの中の一つのイベントであり事件だったともいえるはずだ。アニメの放送から2年が過ぎ、原作小説の続編が発表される気配もない無風状態だったところに「性転換ハルヒ」が現れたからこそ、一気に火がついたのだろう。

 また、「性転換ハルヒ」ブームが性転換や同性愛といった腐女子たちの嗜好(と、少なくとも当時のネット上ではみなされていた)を出発点としていただけに、嫌悪感を抱くオタクたち(おそらく主に男性)も多くいたことは言っておかねばならないだろう。今でこそBLや百合を題材にする作品は増えたし、そうした嗜好に対して理解も得られてきていると思うが、なにせ12年前のことだ。セクシャルマイノリティーやそれを題材とする作品への差別や偏見は今よりもずっと強かっただろうし、今振り返ってみれば、2ちゃんねるニコニコ動画がそもそも男性的な文化だった。

 

キョン子と、美少女になりたいオタク男子たち

 キョン子がオタク男子たちから戸惑いを伴いつつも支持された現象とは、いったい何だったのか。もう少し掘り下げるため、『ハルヒ』がそもそもどんな作品だったのか確認してみよう。

 『ハルヒ』において主人公キョンは、オタク男子の心理を重ねやすい存在として描かれている。キョンは、あまりひけらかしたりはしないものの、ふとしたときに「○○萌え」「○○属性」といったオタクワードを口にするキャラクター、いわゆる隠れオタクだ。小説やゲームやマンガはしょせんフィクションであり、そんなものに夢中になるのは子供だと思いつつも、どこかでそんな面白い出来事が現実に起こらないかと期待している。そして、期待した通りの面白おかしい大事件に巻き込まれていくというのが物語の筋だ。

  こうしたオタクの自意識を織り込んだ作品というのは、1990年代中盤ごろから作られるようになり、その後、その傾向が受け継いでいった作品群は「セカイ系」と総称されることが多い。『ハルヒ』も「セカイ系」の系譜に連なる作品とみなされている。

 「セカイ系」という言葉を通して、90年代中盤からゼロ年代の終わりまでのオタク文化シーンを総括した前島賢氏の『セカイ系とは何か』(星海文庫、2014)によれば、「セカイ系」とみなされる作品の核となっているのは過剰なまでの自己言及にあるという。

 これらの諸作品は、ほとんど過剰なまでに、自分たちの出会う不思議な登場人物や事態が、フィクショナルでチープなもの(ロボットアニメ、侵略SF、変身ヒーローもの、本格ミステリ、そしてセカイ系)でしかないと作中で指摘し続けるのである。

 しかし、それらをちゃかしたり笑ったりするのではなく、きわめて深刻な自意識の悩みという主題を展開する。(pp.144-145)

 こうした特徴に当てはまる作品として挙げられているのがまさに『ハルヒ』である。そして、この「自意識の悩み」の主体は、少年、男子であることが自明になっていることも重要だ。「自意識の悩み」というのはあくまで、ロボットアニメやアクションヒーローものに燃えたり、美少女に恋をしたり、悲劇のヒロインに涙したりするオタク男子の欲望や葛藤のことなのだ。『ハルヒ』においてこの主体は、主人公であるキョンが担っている。

 しかし、『ハルヒ』ブームの中から生まれた「性転換ハルヒ」においては、欲望の主体がかく乱されることになった。オタク男子の分身であるキョンからキョン子という美少女が生まれ、それをオタク男子が支持するというは、欲望や葛藤の主体が男性であるという前提を揺るがす事態だ。オタク男子たちが少なからず戸惑いを覚えたのは、腐女子の発想への嫌悪というよりも、それ以上に、そうした主体の揺らぎへの違和感や居心地の悪さが根底にあったからではないか。

 それにしても、現在から振り返ってみると、この程度のことで当時のオタク男子たちが戸惑っていたということに驚きを覚える。今では、百合は、注目度の高いジャンルであるし、愛好するオタク男子も少なくない。女の子のような少年キャラ、いわゆる「男の娘」も、今ではそれほどショッキングさはない。ツイッターアカウントなどのアイコンを美少女の画像にするのも普通のことだ。数年前から始まったVTuberブームでは、「バ美肉おじさん(バーチャル美少女受肉おじさんの略で、仮想現実において美少女のアバターで活動する男性のこと)」がバズワードとなったことも記憶に新しい。

 ネット空間の中でだけでも美少女の外見をまとっていたいという願望は、いまではありふれているように思う。現在の様相は、当時のオタク男子にとってとても想像できなかったものへと変貌しているのだ。おそらく10年代以降のオタク文化シーンの趨勢が、12年の間でこれほど大きな認識の落差が生じさせたということだろう。

 では、ここ12年の間に何が起きたのだろうか。まず前提となるゼロ年代の状況を確認するため、ふたたび前島氏の『セカイ系とは何か』から引こう。

90年代からゼロ年代を通じ、オタク文化における、もっとも大きな変化は何かと言えば「萌え」の前景化だろう。それまではせいぜい巨大ロボットのようなメカニックであったり、膨大な世界設定であったり、あるいはアニメであれば緻密な作画であったり......とオタクたちが好む要素の、あくまで一部であったはずの「美少女」、「萌え」は、ゼロ年代にいたると極端に大きな価値を持つようになり、オタクであることが美少女に萌えることとほぼ等価で結ばれるようになった。(pp.14-15)

たとえば、『ハルヒ』の次に大ヒットしたアニメ『けいおん!』(2009年)は、「萌え」の前景化を極限まで推し進めた作品だったといえるだろう。このアニメのキャラクターは全員美少女で、物語から男性は周到ともいえるほどに徹底して排除されているからだ。

 この点に注目して、『けいおん!』は、オタク男子が美少女に求める処女性を提供しているのだといった批判がなされている。さらに、作品の本編が様々なシチュエーションの見本市として素材を提供し、それを二次創作同人誌などがアダルトコンテンツに仕立て上げることでオタク男子たちの性欲を満足させているに過ぎないという批判まである。「オタク男子の欲望」が作品に直接反映されることがなくなったのは、二次創作同人誌などが外部委託先となったからだというのだ。これらの批判は、『けいおん!』のヒット以降たくさん作られた美少女ばかりが登場する作品にも当てはめられることになる。

 たしかにそうした見方ができないわけではないだろう。だが、私はこうした作品の隆盛に別の契機を見出したいと思う。それは、「オタク男子の欲望」のために行われたかのように見えた物語における男性の排除、つまり、男性のための男性性の疎外が、回り回って「オタク男子の欲望」を前提としない作品受容のあり方を生む契機となったということだ。いや、むしろ、「オタク男子の欲望」の中に、いままで想定されていなかった欲望が滑り込んでいったというほうがいいかもしれない。それこそが、いまではありふれたものになった、自分も美少女になりたいというオタク男子の新しい欲求なのである。

 最近盛り上がりを見せる百合は、まさにいままでの「オタク男子の欲望」を前提としていない。しばしば百合カップルの間に割って入る男性の存在が忌み嫌われるように、男性の欲求を百合で扱うことは相応しくないとみなされることが多い。そして、重要なのは、たとえ百合作品の中で処女性が描かれているとしても、それは二次創作同人誌などに委託して男性に提供するためではないということだ。百合において男性性の疎外は、最後まで貫徹されるべきものなのだ。

 物語から男性を排除する傾向がある点で百合も『けいおん!』と似通ってはいるが、先のような『けいおん!』への批判は百合にはあてはまらないという点で明らかに異なる。この新しい作品受容のあり方は、ゼロ年代までは自明だった「作品を消費する主体としての男性」が、ゼロ年代の終わりから10年代を通して「萌え」の前景化がさらに推し進められ、男性性を疎外するにまで至ることで、だんだんと自明ではなくなっていったという事態から生じたのではないか。

 かつて「セカイ系」と総称される作品の核をなしていた「オタク男子の自意識」は、10年代を通して根本から揺らいでいった。そして、その揺らぎの兆候は、『ハルヒ』の放送から2年後、または『けいおん!』放送の1年前である2008年に、ニコニコ動画を主な舞台にした『ハルヒ』ブームの中から誕生し、オタク男子たちから戸惑いを伴いながらも支持されたキョン子というキャラクターの存在において、すでに見出すことができるのではないだろうか。この見立ては、牽強付会にすぎるかもしれない。だが、当時、彼女にときめき、ゼロ年代の終わりから10年代にかけてのオタク文化の中で息を吸ってきた私が、今では無事(?)百合好きになっているのは、ごく自然な成り行きだったように思えてならないのだ。

 

*1:動画タイトルのスラッシュは、検索除けのために入っている。ブームが過熱し、「性転換ハルヒ」動画が『ハルヒ』関連動画の検索結果を占拠してしまうという事態になったため、こうした措置が取られた。

*2:「ダルデレ (だるでれ)とは【ピクシブ百科事典】」〈https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%AC

ちなみに、ダルデレはもう使われてないのではないかと思ったが、Twitterで検索するとつい最近でも使っている人はまぁまぁいた。

*3:当時の2ちゃんスレ一覧をあげておく。

YouTube

【目覚めたら】ハルヒ性転換シリーズスレ【終わり】 2008/03/05

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1204728126/

【目覚めたら】ハルヒ性転換シリーズスレ その2【負け】 2008/03/10

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1205104806/

【目覚めたら】ハルヒ性転換シリーズスレ3【負け】 2008/03/27

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1206609991/

キョン子ハルヒ性転換シリーズスレ Part04【一姫】 2008/03/20

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1211512532/

 

性転換ハルヒアンチスレ 2008/03/12

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1205316660/

検索避けもしない性転換等の動画について 2008/03/20

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1205939502/

性転換ハルヒアンチスレ part2 2008/04/11

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1207903937/

ハルヒ性転換シリーズアンチスレ part3【キョン子(笑)】 2008/08/28

https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/streaming/1219933536/

 

なんでもあり板(YouTube板スレから分岐)

【カチューシャ】ハルヒ性転換スレ 2【ポニテ】 2008/03/10

https://tmp7.5ch.net/test/read.cgi/mog2/1205127271/

キョン子は】ハルヒ性転換スレ3【皆の嫁】 2008/03/12

https://tmp7.5ch.net/test/read.cgi/mog2/1205256248/

 

 パー速VIP(なんでもあり板スレから移行)

【涼宮】涼宮ハノレヒ性転換スレ4【晴彦】 2008/03/13

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/part4vip/1205340403/

 【ハルキ】涼宮ハノレヒ性転換スレ5【晴彦】 2008/03/17

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/part4vip/1205690060/

 [一姫]涼宮ハルヒ性転換スレ6[古泉] 2008/05/07

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/part4vip/1210088492

*4:ちなみに「キョン子」タグが付いた動画は、現在242件。

宇崎ちゃんの献血キャンペーン第二弾、みんな絵をちゃんと比較できてなさすぎだろと思った。

 去年、宇崎ちゃんの献血ポスターが炎上してしまったが、今年に入って第二弾を無事発表できたようだ。私は、「巨乳のキャラクターは公の場に出てくるべきではない」という主張はさすがに条件が厳しすぎると思っていたので、取りやめにならなかったことはひとまずよかったと思っている。

 しかし、第一弾について批判的だった人たちの中には、第二弾に許容的な態度を示す人たちが多数おり、それに対して「同じ巨乳のキャラが登場するのになぜ第一弾のように批判しないのか?論理が一貫していないのではないか?」といった物言いがつけられるなど、炎上は延長戦に突入していったようにみえる。

 そういった物言いをつける人たちは、「第一弾と第二弾のどこがちがうのか?おなじ巨乳のキャラが出てくるではないか」といったように、第一弾と第二弾は本質的にはどこも変わっていないという認識があるようだ。これは巨乳だからダメだと第一弾を批判していた人々に対しては妥当な反論ではあるだろう。しかし、こうした表現は改善されるべきであるという広い意味での批判にこの反論だけで対応できているとも思えない。一方、第一弾には批判的で第二弾には許容する態度をとっている人たちも、第一弾と第二弾がどのように異なっているのかをちゃんと語っていないように思える。第一弾と第二弾をどのように評価できるのかを実際に作品から判断しようとする人が少ないために、お互いに難癖を押し付けあうような状況にいつまでたっても終わりがみえないのではないだろうか。

 どんな態度をとるにしても、作品を慎重に観察したうえでどのように批判できるのか、擁護できるのかを検討する必要があるはずだ。絵をちゃんとディスクリプションして比較するという基本的なことを怠るべきではない。そこで、第一弾と第二弾ではどのように表現が違っているのかを整理していくことにする。問題があるとして挙げられていた表現にはいくつかあったが、とくに注目度の高かった胸の表現に絞って比較していくことにする。

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  1. 漫画形式になることで画面全体を占める胸の割合が格段に減っている
    まず、一番大きな変化として挙げられるのがこの点だろう。前回のポスターでは、画面のど真ん中に大きく胸がくるように配置されていた。ほかの要素もあまりないシンプルな構成のため、巨乳であることで画面がほどよく満たされ、締まりのある画面が成り立っていた。一方、今回は、漫画形式となって構成要素が大幅に増えた分、画面全体を占める胸の割合も格段に減り、絵の構成における胸の重要性もかなり薄くなっているといっていい。

  2. タイトルロゴがキャラの手前に重ねて配置されていることで胸への注目度が弱くなっている
    これも、胸の重要性が減っているようにみえる一因だ。同じコマには、セリフの吹き出し、真後ろに主人公の男が描かれているのもそうだが、とくにタイトルロゴがキャラの手前に、しかも胸のすぐ近くに配置されている。前回はタイトルロゴと胸はかなり距離のある位置に配置されており、それぞれに注目できるだけの余裕があったが、今回の場合は、キャラの手前、胸のすぐ隣にロゴが配置されており、それだけ胸に注目する度合いも弱まっているように感じられる。

  3. 陰影のコントラストが前回ほど強くなく「乳袋」感が減っている
    この点は、指摘する人がけっこう多かったと思う。前回は黒くはっきりした影が胸の下のラインの丸みを強調する役割を果たしていたが、今回はそういった影の使い方はされていない。そのため、よく不自然な表現だと揶揄されがちな「乳袋」感が減っている。

  4. あおり視点の角度が若干控えめになっており、巨乳の迫力も減っている
    前回は下から見上げているようなあおり構図になっているため胸に巨大感があり、迫力があった。だが、今回は角度が若干控えめになっており、その分、胸が大きいことはわかっても、迫力があまり感じられない。

  5. 奥に腕を配してあることで胸のシルエットが途中で途切れている
    前回は黒いコスチュームと明るい背景という組み合わせで胸のシルエットがくっきりしていた。今回も暗めの色のコスチューム、明るい背景という点は同じだが、今回は奥に腕が配してあり、胸のシルエットが途中で途切れている。それによって、胸のラインが前回よりわかりずらい。
    これは言葉で説明するだけでは難しいかもしれない。そこで、奥の腕を薄く加工してシルエットをはっきりさせた画像をつくってくれている人がいたので、それで比較してみよう。こうやって加工でもしないと、胸のラインがこんなにふうに続いていたとパッと見では気づきにくいだろう。

    「宇崎ちゃん 第二弾 ポスター」の画像検索結果

    f:id:noumos:20200210113340p:plain

     

  6. 後ろに背の高い主人公の男がいることで宇崎ちゃんの身長がわかり、胸のサイズ感も前回と異なって小さく見える
    さいごに、これは意外と重要だと思うのが、宇崎ちゃんがそれほど身長の高くないキャラだということが、後ろに主人公の男が描かれていることでわかるということだ。比較対象があまりない前回に比べると、宇崎ちゃんの身長に対して相対的に胸が大きいから、より巨乳に見えただけなのかもしれないな、という見方ができるようになっていると思う。

 

 以上のように第一弾と第二弾を比較してみると、胸を強調する見せ方が第二弾ではかなり控えめになり、絵の構成要素の中で重要性が低くなっていることがわかった。第二弾に対して反発する人が前回に比べてかなり少ないのもそれが大きな理由の一つと思われる。

 そして、第一弾と第二弾の決定的な違いとして、そもそも第二弾の絵はポスターになっていないようである(すくなくとも私がネットに画像が上がっているのを見たのはクリアファイルだけであり、第二弾の絵がポスターになっていないならそもそも当初の論点とはまったく異なってしまっているように思う)。胸の表現が控えめになり、しかもそれを第一弾のようにポスターとして掲載することもできていないのなら、「表現の自由の後退じゃないか」と批判を強める人たちがいてもおかしくないと思うが、「表現に難癖をつけるフェミに勝った」という落としどころに落ち着いてしまっている人たちがあまりに多いようにみえる。

 私は、表現の自由は確保されるべきであると思っているのでポスターになっていないのは若干残念さを覚えるところだ(まぁ単純に予算の関係などの理由で、やらなかったのではなくできなかったのかもしれないが)。また、私は今回の場合、基本的にフェミニズム側の意見に賛成の立場でもある。その表現が提示される場所に対して適切なものであるべきだという主張それ自体は、表現の規制を求めているというよりも改善を求めていると思えるし、その改善の要求は性にかかわる表現については妥当だと思える。第一弾において胸の表現は過剰だったと思うからだ。それにたいして第二弾は、クレームを入れられたから取りやめるというよくありがちな浅はかな対応をせずにキャンペーンを続行した点、そして、第二弾の表現が第一弾に対してなされた改善の要求に対してある程度の折り合いをつけているとみなせる点で評価すべきであると思う。

本を裁断しないで、かつ速く自炊する方法

 

自炊というと本を裁断をするか、地道にプリンターでスキャンするしかないように思われがちだ。裁断は本をダメにしてしまうし、スキャンもグッと本を何度も押し込んでいたら傷んでしまう。スキャンの場合、時間もかかるし体力も持ってかれるので、何冊も自炊するのは現実的じゃない。

 そこで今回は、本を傷めないで、なるべく綺麗に、しかも素早く写真を撮って本を自炊する方法を紹介していく。この方法なら、慣れれば一冊15分くらいで自炊できるようになる。

 本を傷めないなら、図書館から借りてきた本を自炊しても問題ない。もう手に入りにくいような古典的な名著やらクソ高いお値段の専門書などを自炊しておくと、いつでも読めて便利だ。

 それに本というのはかさばるので、自炊は部屋の片づけにもなる。たしかに紙の本でしか味わえない魅力があるのはわかるけれど、ある程度の量に抑えておきたいものだ。私の場合、学術書は比較的愛着がわかないので、さっさと自炊してメルカリなどで売ってしまっている。

 ただし、今回紹介する方法は、そこまで綺麗に画像化できるわけじゃない。下の画像のようにページを開いている親指が映り込むし、ノドの部分は暗くなる。あくまで本を傷めず、読むのに問題ないレベルで画像化できるというだけで、綺麗さは二の次で良いという人向けの方法だ。

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文庫本だとこんな感じ

 

必要なもの

 もちろん、タダではできない。多少機材をそろえる必要がある。以下が、必要なものになる。

 

 

  • 机と椅子
    部屋にあるでしょう。

  • PC
    撮影した後、画像管理したり編集したりするのに必要。おすすめの編集方法も後で紹介する。

 

 三脚と書見台とアプリを買うとなるとだいたい5千円くらいだ。別に安いわけじゃないが、高すぎるってわけでもない。

 

自炊のやり方

 必要なものリストを見れば、なにをどうするのかなんとなくわかってもらえるだろう。台に本を、三脚にスマホをセットして、一枚一枚ページを手でめくって写真を撮っていく。態勢としては三脚の前に座り、両サイドから手をまわして本をおさえるかたちになる。

 ポイントは、書見台によくついている固定具は使わずに手で本をおさえることだ。固定具を使うとカメラに対して紙面が湾曲しすぎてしまい、画像化してもとても読めたものじゃない。それに、毎回1ページ開いては固定具で固定していたら時間がかかりすぎるし、固定具は本が傷む可能性があるので、やっぱり手でやるのが一番いい。そのほうが本の位置調節もしやすい。

 そうなると両手がふさがることになるので、シャッターは足で押すことになる。そのために遠隔操作するシャッターリモコンが必要になる。そうすることで、手でページをめくって足でシャッターを切るというサイクルを素早く回して撮影できる。慣れればだいたい一冊15分くらい、薄めの新書だと10分くらいで終わる。

 

 あとはいくつか細かいアドバイス

 ページをめくるうちに書見台が動いていかないように、壁を背するといい。それが無理なら後ろに壁になるような物を置く。

 外光はノドの影を強くしてしまうし、安定しないので、作業するときにカーテンを閉めて、部屋の照明だけになるようにしよう。

 書見台の角度は、紙面が照らないような角度を自分で見つけること。角度が足りない場合は、台の足場に何か挟もう。私は新書を三冊くらい挟んで本の角度が垂直近くになるよう調節している。

 

撮影が終わったら画像編集

 撮影が終わったらPCに画像データを移動させて、抜けているページがないかまず確認しよう。すこし面倒な作業だが、意外と抜けがあったり、ピントがぼけて読めなかったりする可能性があるので絶対やるように。あとで気づいて、もうその本が手元にない、なんてことになったら目も当てられない。

 早く確認するコツは、5回スクロールすればちょうど10ページ進んだことになるので、5枚目のページがちょうど10の倍数とプラス1になっていれば抜けはない。ズレてたら要確認。

 

 確認が終わったら、文字をより読みやすくするために画像を編集しよう。

 画像編集にはpicasa3を使う。picasa3は、一括で大量の画像を編集・一括保存できるので、自炊にはうってつけだ。画像をモノクロにして、ハイライトをいじれば下の画像のようになる。ファイルサイズも減ってデータ容量の節約になるので一石二鳥だ。

 さらに、マクロツールをインストールして使えば、編集を自動化できる。 私はHiMacroExっていうフリーソフトを使っている。

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冒頭であげたやつと同じページ

 

 

画像を編集したらタブレットで読もう

 一応これで自炊についての説明は終わりになる。

 そのまま自炊した画像をPCで読むのももちろんありだけど、私はFireHD8っていうAmazonで売ってるタブレットで読んでいる。セール中は5千円くらいだったけど、今見たら9千円…。8インチはちょうどいい大きさだけど、安い7インチでもいけるっちゃいけると思う。まぁそれでも6千円だけど。次のセールを待つのもありだろう。

 

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もし買うという人がいたら、もともと入ってるビューワーもAmazonアプリストアも貧弱なので、Googleプレイストアを導入して、perfectビューワーっていうアプリを入れると良い。

 

【読書感想】吉田裕『日本人の戦争観』(文庫版2005、岩波書店)

はじめに

 

吉田裕『日本人の戦争観』(文庫版2005、岩波書店)を読んだ。戦争責任全般はどのように捉えられてきたのかを論じた本だ。

実はこの記事はけっこう昔に書くだけ書いて、下書きのままほったらかしにしていたのだが、消すのももったいないので、いまさら公開することにした。

まぁ感想というより、ほとんど要約という感じだけど。

 

ダブル・スタンダード

 本書は終戦から2000年代に至るまでの、日本人の十五年戦争日中戦争アジア・太平洋戦争)に対する戦争責任の捉え方を論じている。戦後の時代変遷から日本人が十五年戦争についてどのように表現してきたか、そこにどんな心理が働いていたのかを説明している。

 現在の日本人の歴史観を説明付けるキーワードとなるのは、「ダブル・スタンダード」である。

対外的には講和条約の第一一条で東京裁判の判決を受諾するという形で必要最小限の戦争責任を認めることによってアメリカの同盟者としての地位を獲得する、しかし、国内に置いては戦争責任を事実上、否定する、あるいは不問に付す、というように、対外的な姿勢と国内的な取り扱いを意識的にせよ無意識的にせよ、使いわけるような問題の処理の仕方がそれである。(p.91)

 日本が戦争責任を対外的に認めるとしても、それは周辺諸国との外交を円滑に進めるため、という現実的かつ消極的な理由による。つまり、国益に反するから建て前として戦争責任を黙って受け入れているが、本音では納得できていないというわけだ(その証左として、「大東亜戦争肯定論」が形を変えながら偏在し続けている)。

 そこにあるのは、未だに日本は本来の意味で過去を清算できたとは言い難く、戦争責任を全うしたうえでのナショナル・アイデンティティー確立には至っていない、という現実である。言い換えれば、未だにあの戦争は侵略だったか自衛だったか、という地点から国民の意識が発展していない。本書の言葉では、「過去の歴史をまさに歴史として対象化できていないこと、すなわち、私たちは未だに『戦争の時代』を生きていることを意味していることになるだろう(p.268)」。

 本書は、国外向け(建て前)と国内向け(本音)で相反する立場を使い分ける政治態度が、戦後、いかにして形成され、どのように揺らいでいったのかを中心に論じている。

 このダブル・スタンダードが出来上がったのが、1950年代、アメリカの占領政策から講和へと向かった時期のことだという。戦後まもない時期から日本人の戦争観が、いくぶん歪んだものとして立ち現れ、戦争に対する正当な反省を経ないままに講和へ至ってしまったことが原因だとする。

 歪みが生じた要因は二つに分けられる。それは、日本にとっての十五年戦争と、戦後の連合国(アメリカ)による占領政策の特殊性である。(pp.260-264)

 

十五年戦争の特殊性

1.戦中期における日本国民の生活が、困窮化の一途をたどったこと。

・限られた資源で軍需をまかなうために、国民生活を犠牲にする政策が意図的にとられたことによる。

・戦中期は、日本人にとって「もののない暗い時代」として回想されることになった。(ドイツの場合、生活水準の低下は比較的緩やかで、これは日本特有の現象だという)

 

2.軍部が独自の政治勢力となって、戦争を推進したこと。

・戦中期を「軍部独裁の時代」として捉えるようになった。

東京裁判に象徴されるように、戦争責任を全て軍部に押し付けるような形で過去が清算された。

・官僚や宮中グループ、政党、財界、マスコミなどの戦争への同調、協力は事実上不問に付された。

 

3.日中戦争と地続きのままにアジア・太平洋戦争に突入したこと。

・中国という当時の弱小国との戦争から始まり、最終的にアメリカという超大国に敗れたという事実によって、戦争責任を考える際にアメリカに敗北したという面が強調され、アジアは無視される傾向が生じた。

 

4.敗戦の結果、台湾・朝鮮という日本の植民地の喪失が自動的に実現したこと。

・欧米諸国が植民地との闘争の果てに撤退を余儀なくされたのとは違い、その過程をたどらずに済んだ日本は、植民地主義に対する清算という問題を深く自覚する機会を逸した。

 

 

戦後の占領政策の特殊性

1.連合軍による日本占領が、事実上アメリカの単独占領だったこと。

アメリカの国益占領政策に色濃く反映するようになった。

・日本人の戦争観といった価値観の面でもアメリカの影響を直接受けることになった。

 

2.冷戦への移行の中で、対日講和自体が次第に戦後処理としての性格を喪失していったこと。

・日本を西側陣営に組み入れるためのアメリカの政治的配慮があらゆる問題に優先するようになった。

・その結果、対日講和は、戦争責任問題の側面においては、日本にとって「寛大な講和」となった。

 

3.アジア諸国の国際的地位が低く、なおかつ極東においてはアメリカの圧倒的覇権が確立しているという国際環境の下で、日本の戦後処理があわただしく進められたこと。

・戦争の最大の犠牲者だったアジア諸国独自の要求や批判は、ほとんど無視された。

・アジアに対する加害責任を認識する機会を日本はほとんど持ち得なかった。

 

 以上のような状況下でダブル・スタンダードが成立したと本書はまとめている。

 ここから見えてくるのは、十五年戦争の過程と戦後のアメリカの占領政策によって、日本のナショナル・アイデンティティは、天皇に象徴される存続できたものと、軍部やアジアのリーダーたる日本といった存続できなかったものとの間で引き裂かれてしまったということだろう。このあいまいさに耐えられなかった結果の両極が、一方で昭和天皇に代表される指導者の戦争責任論であり、一方で大東亜戦争肯定論であるとも言えるだろう。この揺れ動きを本書は、ある程度妥当性をもって描き出すことに成功しているように思える。

 

大東亜戦争肯定論

 60年代前半に台頭してきた林房雄に代表される大東亜戦争肯定論は、侵略戦争ではなく自衛戦争、もしくはアジアを西洋帝国主義から開放するための戦争だったとして積極的に肯定するものであった(p.142)。興味深いのは、それが90年代に入ると、昭和天皇は平和主義者であり、戦争には反対だったとする宮中グループ史観と対立し、結果的に退潮していったという指摘だ(p.228)。大東亜戦争肯定論が、昭和天皇が戦争に反対だったとしつつも、戦争が正当なものだったと主張することは、論理的帰結として天皇を否定することになってしまう。そのため、大きな勢力をもつには至らなかったという。しかし、文庫版のあとがきでは、90年代半ばからまた台頭してきたとしている。

 もう一方の極である指導者の戦争責任論は、昭和天皇の死去したことで、今さらそれを問うことの積極的な意義を失っているように思える。

 

本書の限界

 吉田氏は、文庫版のあとがきにおいて、本書の限界として、その記述の仕方には、「侵略戦争という客観的事実を正確に写し取った戦争観があらかじめ存在し、その戦争観を基準にして他の戦争観の編さを測定するという方法が無意識のうちに採られている」と、自己批判している。そのような視点からは、複数の戦争観のせめぎ合いにから新しい戦争観が出来上がっていくという、複雑な過程をとらえきれなかったとする。ようするに、吉田氏が想定するような、戦争責任をより積極的に全しようとする理想的な戦争観へと向かうレールに、戦後を通して形成されてきた責任意識を無理やり乗せようとしても、それが成功するとはとても思えないという限界だ。人々の多様な記憶や経験、アイデンティティーは簡単には変えられないし、自分たちが悪者だったと認めるとなればなおさらだ。大東亜戦争肯定論が現在においてもなくならない原因もそこにある。

 

キズナアイ騒動~おたくとフェミと、時々、日本~

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はじめに

タイトルは東京タワーのもじりですが、深い意味はとくにないです。

 

さて、キズナアイ騒動、まだ余波が続いてるんだよね。

いろんな人がもうさんざん喋りまくってるから、もう私なんてなんも言わなくてもいいかなぁなんて思ってたんだけど、言いたいことが一つだけ見つかったので、記事を書くことにしました。

概略とかめんどくさいんで書きませんが、今回の騒動がどんな経過をたどっているのかは、こちらの記事から辿っていけば大体わかると思います。

maname.hatenablog.com

まぁようするに、フェミニストオタク文化擁護派(表現の自由戦士は蔑称っぽいので使いません)の戦いなわけですね。これだけなら、これまで何度も繰り返されてきた、わりとよくある光景ですよね。

けどひとつだけ、今回は事情が違っているなぁと感じるのは、キズナアイについて問題視したのが学者という肩書で大学にいらっしゃるような、いわゆるアカデミズム系の方たちで、ネット記事を書いて意見までしているという点です。Twitterでつぶやいたりってことはこれまでにもあったと思うんですけど、今回はすごいですね。いままではネットの一部でバトってた印象がありましたが、こうなってくるといよいよ本格的な闘争になるのか?というような雰囲気が出てきてしまっているわけです。これはマズいですね。

 

なんでこんな事態になったのかといえば、天下のNHKキズナアイを起用したことが大きいことは明らかなんですが、もっと大きな視点に立ったときに、オタク文化が日本文化に「昇格」してしまったことがそもそもの原因なんじゃないか?と私には思えます。

どういうことかというと、オタク文化が社会に浸透してきており、また政府のクールジャパン戦略などによって日本文化としても大きな存在感を持ち始めている。今回いよいよアカデミズム系のフェミニストのみなさんが出てきたのは、キズナアイをめぐって以上のような背景を強く意識せざるを得なかったためだろう、ということです。

 

また、中にはキズナアイの容姿が男性主体の性的な欲求に基づいて設計されているなどと主張をする人もいますが、私はまったく同意できないし、そのような議論は不毛なので、今回記事で取り上げる「フェミニスト」というのは、有意義な議論をしている人たちに限定されていることはあらかじめ言っておきます。

 

オタクとフェミニストのすれ違い

フェミニストたちが持つオタク文化=日本文化という認識で、わかりやすい例がこの記事です。筆者は、同志社大学佐伯順子教授です。

gendai.ismedia.jp

この記事の冒頭にこうあります。

日本のポピュラー・カルチャーが海外で人気を博し、それが海外の若者への日本文化や社会への関心に結びついている現象は、文化による国際交流としては喜ばしいことであり、日本の「ソフト・パワー」として高く評価されている。

ただし、かわいらしさや未熟な少女らしさを特徴にした姿が海外で主流化するのは、日本女性を性的対象とみなす古い「ゲイシャ」イメージの焼き直しになりかねないのではないか。

ようするに「萌えキャラ」が海外で人気になるのってマズいんじゃね?と、佐伯先生は思っているみたいですね。

それに続けて、次のようなことも言っています

現代日本においても、“かわいい”少女キャラクターの海外での人気に自信をつけたかのように、少女キャラクターをグローバルな文化、社会的できごとを報道する際に利用する動きがみられる。

日本政府観光局がバーチャル・ユーチューバ―である「キズナアイ」を訪日促進アンバサダーに就任させたのはその象徴的な例であり、「キズナアイ」の存在感は、ノーベル賞に関するNHKの特設サイトへの起用にまで及んでいる。

 日本が主体的に、しかも公的に「萌えキャラ」を使っていくのはさらにマズいよね、と言いたいようです。

そして、その象徴的な例として、キズナアイを持ち出して来ています。まぁ確かに、彼女の日本政府観光局(JNTO)による観光大使への任命や、今回のNHKによる起用が、彼女にさらなる公的なお墨付きを与えるものというのは、歴然たる事実だよね。

簡単に言えば、ポップカルチャー日本代表の一人がキズナアイだと見なされているわけです。サッカー日本代表みたいな立ち位置ですね。うーん、察しのいい人はここらへんで、「日本を背負う」っていうことのややこしさ、面倒くささが想像できるんじゃないでしょうか。

日本代表ってことになると途端に世間の厳しい目にされされるという例は、枚挙にいとまがありません。最近でいえば、テニスの大阪なおみ選手についても、本人からしてみれば迷惑でしかないような議論が続いてますよね。「日本」ってラベルがくっつくとあらゆる物事が途端に面倒くさいことになるのが、逆説的に「日本」の特徴ですらあると思います。

 

さて話を戻しますが、上の記事で佐伯先生は、オタク文化=日本文化という前提の上で、オリエンタリズムという用語を持ち出しています。オリエンタリズムとは、ざっくり言うと、世界の「中心」である西洋から、「周縁」のオリエント(非西洋)へ向けられる好奇や侮蔑、幻想の入り混じった偏見のことです。

今回の場合、「かわいらしさや未熟な少女らしさを特徴にした」女性キャラクターが、その扱い方によっては、成熟した強者たる西洋と未熟な弱者たる日本という構図を再生産することになってしまうのではないか、と問題視しています。過去にはゲイシャが、現代ではいわゆる「萌えキャラ」がそのような役回りを演じてしまうのではないか。さらに言えば、萌えキャラがメイド・イン・ジャパンとして海外に売り込まれていくとき、日本人女性に対する偏見も再生産してしまうのではないか、というわけです。

このように見ていくと、この記事はゲイシャや萌えキャラそれ自体を叩いているわけではなく、それらを「日本」というラベルで売り出していくことを問題視していることがわかります。

 

私の意見ですが、佐伯先生の批判には、単なるアニメ・漫画表現としての萌えキャラ批判はどうも無理筋だけど、公の場に出張ってきたキズナアイをめぐる今回の事例ならいけるだろう、というグラデーションが見られます。というのもあって、じつは記事中で論点が前半と後半では変わっていて、んんん…?となるのですが、その一方で、キズナアイをめぐる批判だけ見れば、それなりに痛いところをついているなぁと思う部分もあります。

それは例えば、キズナアイが日本の観光大使として海外にPRするとき、不本意であっても日本人女性の表象を背負ってしまうかもしれない、という点です。確かに、そのように捉える人は出てくるかもしれません。正確には彼女はAIであって人間ではありませんとか、彼女が日本人女性を模しているとは必ずしも言えませんとか、中の人なんていません!とか言ってみたって、外国人の大多数が素直に了解してくれるでしょうか。日本語ネイティブの「中の人」という一つの人格を認めるとき、「日本人女性」という要素をキズナアイから完全に捨象するのは難しいと思います。

そして、そんな彼女の振る舞い方、扱われ方によっては、それは日本人女性をステレオタイプに押し込めてる!なんて言ってくる人が出てこないと言いきれるでしょうか。それに加えて、お前は日本代表なんだからこれくらい言わせろ!とか思っている人たちは、これからもきっと出てきますよ。

超めんどくさいですよね。でも、「日本」というラベルを張られるっていうのは、こういうことです。今回の騒動は、その前哨戦に過ぎないと私は思いますね。

 

以上のように、オタク文化が日本文化に「昇格」してしまったこと、その象徴としてキズナアイを捉えたからこそ、今回の出来事をフェミニストは危機感をもって批判しているのです。そして、オタク文化擁護派はそれをオタク文化の否定と捉えてフェミニストに反発している、という構図になっています。

でも、そもそもなんでこんな構図が出来上がってしまったのかといえば、政府がクールジャパン戦略と称してお金稼ぎを始めたからですよね。この点に意識があまり向いていないので、両者のすれ違いが起こっているように見えます。

 

オタク文化=日本文化と誰が決めたのか?

 一度疑ってみなければならないのは、オタク文化=日本文化という認識そのものです。

例えば、漫画家やアニメーター、コンテンツを消費するオタクたちに、われわれは日本を代表する文化の担い手なのだ、といったような意識がどれくらいあるでしょうか?

ぶっちゃけ、そんなにないですよね。

 

ではそもそも、オタク文化=日本文化って誰が決めたんでしょうか。それはクールジャパンという概念がどうやってできたのか、という問いと同義といっていいでしょう。

business.nikkeibp.co.jp

上の記事は、クールジャパンの成り立ちから概念の変容について順を追って論じており、非常にわかりやすいです。さらには政府の金策として官製標語になってから、いかに批判されてきたのかも解説しています。

この記事の指摘で重要なのは、クールジャパンには本来的な意味と官製的な意味の二つがあるという点です。前者は海外における日本のポップカルチャー熱といった現象そのものを指し、後者は政府の官製標語を指します。この二つは似て非なるものだというのです。

そして、官製クールジャパンに対しては、否定的な声がコンテンツ産業の当事者からも聞こえるといいます。

現状、クールジャパンと聞いて、「外国人が評価してくれている日本のポップカルチャー」とポジティブに捉える人も一部にはいる。ただ、ネガティブ派もけっこう増えてしまった。

「また政府の無意味なターゲット政策か」と思う人もいれば、「アニメ・マンガなんかに税金を使うな。ほかのことに使え」と憤る人もいる。「政府が介入すると失敗する」という悪しきジンクスを信じる人も多い。「自分でクールと言うな」という意見もある。そして、当のコンテンツ産業の中には「関わりたくない」という人もいる。

 音声合成ソフトで歌うバーチャルアイドル初音ミク」を生んだクリプトン・フューチャー・メディア伊藤博之社長は、ツイッターでこうつぶやいたことがある。

 「クールジャパンで引っ張ってきたこの数年間で、ビジネス的には何も起きなかったこの閉塞感を、新たなるコンテンツ(ボカロ)に求められても、そもそもの政策方針がプアなら、結果もプアになるわけで、それに巻き込まれるのは・・」

この記事を読む限りでは、批判は主にビジネスとして失敗しているという点においてであり、日本文化の代表選手としてオタク文化を含むポップカルチャーが神輿として担がれている点には無関心であるように見えます。もちろんこの記事だけで判断はできませんが、先立つものはお金であり、文化的意義は二の次というのが実態であるのは想像に難くないでしょう。つまり、「日本」というラベルのややこしさ、面倒くささはとりあえず置いておいて、まずはお金という意識が先行している。それがクールジャパンであり、オタク文化=日本文化という「公式」を成り立たせている意識なのです。

 

キズナアイ観光大使就任やNHKへの出演は、クールジャパン戦略やその延長線にあると言えます。もちろん、政府戦略に乗るというのは彼女自身の選択なので、それを頭から否定するべきではないとは思いますが、今回の騒動で「日本」というラベルを背負うことのリスクが浮き彫りになったというのもまた事実ではないでしょうか。そのほとんどは難癖が飛んでくるリスクかもしれませんが、中には日本人女性への偏見を作ってしまわないか、といったような軽々に無視できない批判も出てくるわけです。

ここでオタク文化擁護派は、批判してくるフェミニストをみんなで打ち倒せばいいと思っているかもしれません。しかし、私にはそれでパッヒーエンドを迎えられるとはあまり思えません。なぜなら、いまはフェミニストの声が目立っているけれど、その陰には日本代表ってことになると途端に厳しい目を向けてくる世間ってやつが隠れているからです。むしろ本当のラスボスはこっちではないかと思うのです。

 

おわりに

この記事を書こうと思ったのは、オタク文化擁護派はわりとオタク文化=日本文化という「公式」に乗っかることに対して手放しで歓迎している感じがあり、それってけっこう危ういなぁと思ったからでした。

 オタク文化が日本文化として公式のお墨付きをもらうことに、いったいどれだけの意味があるのか、私には疑問です。先ほど述べた官製クールジャパンの根底にある意識や、そこで丸め込まれている「日本」というラベルの面倒くささを踏まえた上で考えてみると、果たしてそんなに喜ばしいことなのでしょうか。オタク文化に対して胸を張るために、日本文化という固有性の枠組みに押し込んてしまう必要は必ずしもないと私は考えます。

 

最後に言っておきますが、私は、キズナアイのやってることは体制迎合だ!とか批判したいわけじゃありません。観光大使NHK、それはそれでいいと思います。ただ、キズナアイが「日本」というラベルを背負ったのは彼女が自ら選んだことであって、彼女を応援するならそのことに自覚的であるべきだと思うんですよね。

そう、これが言いたかった。

 

ではこのへんで。