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語ることって大事

キズナアイ騒動~おたくとフェミと、時々、日本~

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はじめに

タイトルは東京タワーのもじりですが、深い意味はとくにないです。

 

さて、キズナアイ騒動、まだ余波が続いてるんだよね。

いろんな人がもうさんざん喋りまくってるから、もう私なんてなんも言わなくてもいいかなぁなんて思ってたんだけど、言いたいことが一つだけ見つかったので、記事を書くことにしました。

概略とかめんどくさいんで書きませんが、今回の騒動がどんな経過をたどっているのかは、こちらの記事から辿っていけば大体わかると思います。

maname.hatenablog.com

まぁようするに、フェミニストオタク文化擁護派(表現の自由戦士は蔑称っぽいので使いません)の戦いなわけですね。これだけなら、これまで何度も繰り返されてきた、わりとよくある光景ですよね。

けどひとつだけ、今回は事情が違っているなぁと感じるのは、キズナアイについて問題視したのが学者という肩書で大学にいらっしゃるような、いわゆるアカデミズム系の方たちで、ネット記事を書いて意見までしているという点です。Twitterでつぶやいたりってことはこれまでにもあったと思うんですけど、今回はすごいですね。いままではネットの一部でバトってた印象がありましたが、こうなってくるといよいよ本格的な闘争になるのか?というような雰囲気が出てきてしまっているわけです。これはマズいですね。

 

なんでこんな事態になったのかといえば、天下のNHKキズナアイを起用したことが大きいことは明らかなんですが、もっと大きな視点に立ったときに、オタク文化が日本文化に「昇格」してしまったことがそもそもの原因なんじゃないか?と私には思えます。

どういうことかというと、オタク文化が社会に浸透してきており、また政府のクールジャパン戦略などによって日本文化としても大きな存在感を持ち始めている。今回いよいよアカデミズム系のフェミニストのみなさんが出てきたのは、キズナアイをめぐって以上のような背景を強く意識せざるを得なかったためだろう、ということです。

 

また、中にはキズナアイの容姿が男性主体の性的な欲求に基づいて設計されているなどと主張をする人もいますが、私はまったく同意できないし、そのような議論は不毛なので、今回記事で取り上げる「フェミニスト」というのは、有意義な議論をしている人たちに限定されていることはあらかじめ言っておきます。

 

オタクとフェミニストのすれ違い

フェミニストたちが持つオタク文化=日本文化という認識で、わかりやすい例がこの記事です。筆者は、同志社大学佐伯順子教授です。

gendai.ismedia.jp

この記事の冒頭にこうあります。

日本のポピュラー・カルチャーが海外で人気を博し、それが海外の若者への日本文化や社会への関心に結びついている現象は、文化による国際交流としては喜ばしいことであり、日本の「ソフト・パワー」として高く評価されている。

ただし、かわいらしさや未熟な少女らしさを特徴にした姿が海外で主流化するのは、日本女性を性的対象とみなす古い「ゲイシャ」イメージの焼き直しになりかねないのではないか。

ようするに「萌えキャラ」が海外で人気になるのってマズいんじゃね?と、佐伯先生は思っているみたいですね。

それに続けて、次のようなことも言っています

現代日本においても、“かわいい”少女キャラクターの海外での人気に自信をつけたかのように、少女キャラクターをグローバルな文化、社会的できごとを報道する際に利用する動きがみられる。

日本政府観光局がバーチャル・ユーチューバ―である「キズナアイ」を訪日促進アンバサダーに就任させたのはその象徴的な例であり、「キズナアイ」の存在感は、ノーベル賞に関するNHKの特設サイトへの起用にまで及んでいる。

 日本が主体的に、しかも公的に「萌えキャラ」を使っていくのはさらにマズいよね、と言いたいようです。

そして、その象徴的な例として、キズナアイを持ち出して来ています。まぁ確かに、彼女の日本政府観光局(JNTO)による観光大使への任命や、今回のNHKによる起用が、彼女にさらなる公的なお墨付きを与えるものというのは、歴然たる事実だよね。

簡単に言えば、ポップカルチャー日本代表の一人がキズナアイだと見なされているわけです。サッカー日本代表みたいな立ち位置ですね。うーん、察しのいい人はここらへんで、「日本を背負う」っていうことのややこしさ、面倒くささが想像できるんじゃないでしょうか。

日本代表ってことになると途端に世間の厳しい目にされされるという例は、枚挙にいとまがありません。最近でいえば、テニスの大阪なおみ選手についても、本人からしてみれば迷惑でしかないような議論が続いてますよね。「日本」ってラベルがくっつくとあらゆる物事が途端に面倒くさいことになるのが、逆説的に「日本」の特徴ですらあると思います。

 

さて話を戻しますが、上の記事で佐伯先生は、オタク文化=日本文化という前提の上で、オリエンタリズムという用語を持ち出しています。オリエンタリズムとは、ざっくり言うと、世界の「中心」である西洋から、「周縁」のオリエント(非西洋)へ向けられる好奇や侮蔑、幻想の入り混じった偏見のことです。

今回の場合、「かわいらしさや未熟な少女らしさを特徴にした」女性キャラクターが、その扱い方によっては、成熟した強者たる西洋と未熟な弱者たる日本という構図を再生産することになってしまうのではないか、と問題視しています。過去にはゲイシャが、現代ではいわゆる「萌えキャラ」がそのような役回りを演じてしまうのではないか。さらに言えば、萌えキャラがメイド・イン・ジャパンとして海外に売り込まれていくとき、日本人女性に対する偏見も再生産してしまうのではないか、というわけです。

このように見ていくと、この記事はゲイシャや萌えキャラそれ自体を叩いているわけではなく、それらを「日本」というラベルで売り出していくことを問題視していることがわかります。

 

私の意見ですが、佐伯先生の批判には、単なるアニメ・漫画表現としての萌えキャラ批判はどうも無理筋だけど、公の場に出張ってきたキズナアイをめぐる今回の事例ならいけるだろう、というグラデーションが見られます。というのもあって、じつは記事中で論点が前半と後半では変わっていて、んんん…?となるのですが、その一方で、キズナアイをめぐる批判だけ見れば、それなりに痛いところをついているなぁ、と思う部分もあります。

それは例えば、キズナアイが日本の観光大使として海外にPRするとき、不本意であっても日本女性の表象を背負ってしまうかもしれない、という点です。確かに、そのように捉える人は出てくるかもしれません。正確には彼女はAIであって人間ではありませんとか、彼女が日本人女性を模しているとは必ずしも言えませんとか、中の人なんていません!とか言ってみたって、外国人の大多数が素直に了解してくれるでしょうか。日本語ネイティブの「中の人」という一つの人格を認めるとき、「日本人」という要素を完全に捨象するのは難しいと思います。

そして、そんな彼女の振る舞い方、扱われ方によっては、それは日本人女性をステレオタイプに押し込めてる!なんて言ってくる人が出てこないと言いきれるでしょうか。それに加えて、お前は日本代表なんだからこれくらい言わせろ!とか思っている人たちは、これからもきっと出てきますよ。

超めんどくさいですよね。でも、「日本」というラベルを張られるっていうのは、こういうことです。今回の騒動は、その前哨戦に過ぎないと私は思いますね。

 

以上のように、オタク文化が日本文化に「昇格」してしまったこと、その象徴としてキズナアイを捉えたからこそ、今回の出来事をフェミニストは危機感をもって批判しているのです。そして、オタク文化擁護派はそれをオタク文化の否定と捉えてフェミニストに反発している、という構図になっています。

でも、そもそもなんでこんな構図が出来上がってしまったのかといえば、政府がクールジャパン戦略と称してお金稼ぎを始めたからですよね。この点に意識があまり向いていないので、両者のすれ違いが起こっているように見えます。

 

オタク文化=日本文化と誰が決めたのか?

 一度疑ってみなければならないのは、オタク文化=日本文化という認識そのものです。

例えば、漫画家やアニメーター、コンテンツを消費するオタクたちに、われわれは日本を代表する文化の担い手なのだ、といったような意識がどれくらいあるでしょうか?

ぶっちゃけ、そんなにないですよね。

 

ではそもそも、オタク文化=日本文化って誰が決めたんでしょうか。それはクールジャパンという概念がどうやってできたのか、という問いと同義といっていいでしょう。

business.nikkeibp.co.jp

上の記事は、クールジャパンの成り立ちから概念の変容について順を追って論じており、非常にわかりやすいです。さらには政府の金策として官製標語になってから、いかに批判されてきたのかも解説しています。

この記事の指摘で重要なのは、クールジャパンには本来的な意味と官製的な意味の二つがあるという点です。前者は海外における日本のポップカルチャー熱といった現象そのものを指し、後者は政府の官製標語を指します。この二つは似て非なるものだというのです。

そして、官製クールジャパンに対しては、否定的な声がコンテンツ産業の当事者からも聞こえるといいます。

現状、クールジャパンと聞いて、「外国人が評価してくれている日本のポップカルチャー」とポジティブに捉える人も一部にはいる。ただ、ネガティブ派もけっこう増えてしまった。

「また政府の無意味なターゲット政策か」と思う人もいれば、「アニメ・マンガなんかに税金を使うな。ほかのことに使え」と憤る人もいる。「政府が介入すると失敗する」という悪しきジンクスを信じる人も多い。「自分でクールと言うな」という意見もある。そして、当のコンテンツ産業の中には「関わりたくない」という人もいる。

 音声合成ソフトで歌うバーチャルアイドル初音ミク」を生んだクリプトン・フューチャー・メディア伊藤博之社長は、ツイッターでこうつぶやいたことがある。

 「クールジャパンで引っ張ってきたこの数年間で、ビジネス的には何も起きなかったこの閉塞感を、新たなるコンテンツ(ボカロ)に求められても、そもそもの政策方針がプアなら、結果もプアになるわけで、それに巻き込まれるのは・・」

この記事を読む限りでは、批判は主にビジネスとして失敗しているという点においてであり、日本文化の代表選手としてオタク文化を含むポップカルチャーが神輿として担がれている点には無関心であるように見えます。もちろんこの記事だけで判断はできませんが、先立つものはお金であり、文化的意義は二の次というのが実態であるのは想像に難くないでしょう。つまり、「日本」というラベルのややこしさ、面倒くささはとりあえず置いておいて、まずはお金という意識が先行している。それがクールジャパンであり、オタク文化=日本文化という「公式」を成り立たせている意識なのです。現代アーティストの村上隆さんが官製クールジャパンを「原発村の起源発生を見るようで、虫酸が走る」と痛烈に批判したのも、こういった意識への拒否反応からだと思われます。

 

キズナアイ観光大使就任やNHKへの出演は、クールジャパン戦略やその延長線にあると言えます。もちろん、政府戦略に乗るというのは彼女自身の選択なので、それを頭から否定するべきではないとは思いますが、今回の騒動で「日本」というラベルを背負うことのリスクが浮き彫りになったというのもまた事実ではないでしょうか。そのほとんどは難癖が飛んでくるリスクかもしれませんが、中には日本人女性への偏見を作ってしまわないか、といったような軽々に無視できない批判も出てくるわけです。

ここでオタク文化擁護派は、批判してくるフェミニストをみんなで打ち倒せばいいと思っているかもしれません。しかし、私にはそれでパッヒーエンドを迎えられるとはあまり思えません。なぜなら、いまはフェミニストの声が目立っているけれど、その陰には日本代表ってことになると途端に厳しい目を向けてくる世間ってやつが隠れているからです。むしろ本当のラスボスはこっちではないかと思うのです。

 

おわりに

この記事を書こうと思ったのは、オタク文化擁護派はわりとオタク文化=日本文化という「公式」に乗っかることに対して手放しで歓迎している感じがあり、それってけっこう危ういなぁと思ったからでした。

 オタク文化が日本文化として公式のお墨付きをもらうことに、いったいどれだけの意味があるのでしょうか。先ほど述べた官製クールジャパンの根底にある意識や、そこで丸め込まれている「日本」というラベルの面倒くささを踏まえた上で考えてみると、果たしてそんなに喜ばしいことなのでしょうか。オタク文化に対して胸を張るために、日本文化という固有性の枠組みに押し込んてしまう必要は必ずしもないと私は考えます。

 

最後に言っておきますが、私は、キズナアイのやってることは体制迎合だ!とか批判したいわけじゃありません。観光大使NHK、それはそれでいいと思います。ただ、キズナアイが「日本」というラベルを背負ったのは彼女が自ら選んだことであって、彼女を応援するならそのことに自覚的であるべきだと思うんですよね。

そう、これが言いたかった。

 

ではこのへんで。