noumos blog

『チェンソーマン』のエ ロはアイロニー

 

 

藤本タツキといえば、Twitterで「妹の姉」という読み切り作品を無料公開したら叩かれていたのが印象に残っている。妹が無断で描いた姉のヌードが学年一位をとったので学校の玄関口に一年間飾られることになってしまい、姉は己のあられもない姿を晒されて公開処刑されてしまうという出だしの物語だったので、まぁたしかに批判できそうな点はあるものの、まずもってよくできた作品だなと思った。おそらくこの人は女性の裸体を漫画で描くことのマズさを十分理解していて、しかしそれでも女性の裸体が描きたいから描いているのだなと思った。いわゆるラッキースケベのような出来の悪い言い訳とは一味違って、何かべつの新しいレトリックが生み出そうとしていることにひたむきさがあり、それはそれで創作として正直であり、健全なのかもしれない。

 余談だが、執拗に女性の裸体を描きまくっている鶴田謙二の『ポム・プレゾニエール』という漫画がある。鶴田謙二の漫画には、セクハラがわりとそのまま描かれたりするのでなんとも読んでいて居心地が悪いが、この作品は、女性が自分以外誰もいない環境においてではあるが、とにかく一人でに裸になりたがり、読者はそれを覗いているのか、彼女の猫たちが読者に成り代わってその女体と戯れるという趣なので、セクハラよりはたいしたことないがこれは一義的には男性の目の保養のために描かれているという点では同じである。ただそうした点を踏まえたうえでこの作品の女性の身体をなお良いと思えるのは、わざとらしい性的な魅力の押し売りがなく、どこまでもその人のものでしかないところの身体を描いているからだ。

 

 

 「妹の姉」も、最終的にヌードが彼女たちにとっては己のための道具でしかないというふうに描かれているし、最後に提示されるヌードが性的魅力を強調するために描かれているわけでもない。ただし、作者としては女性の裸体を描きたいという欲求が根底にあり、女性が自分自身のものであると考えるところの身体こそ真に魅力的ではないかという主張なので、これも結局一義的には男性読者にむけたプレゼンなのだが、覗き趣味を打ち出す『ポム・プレゾニエール』よりはるかに真面目だ。

 現在連載中の『チェンソーマン』もやはり性的な描写が特徴的で、それはエロいことを実現させるために主人公が払う犠牲が過剰すぎるというアンバランスさにあると思う。それに加えて、性的描写自体はかなりあけすけであっても、それがまともな恋愛に発展する見込みがないことが最初から決まっていることにある種の悲哀と笑いがある。エロいことがいやらしく描かれているという感じがしないのはそうした理由で、女性側がそれをいやらしいことだとはっきり自覚したうえで堂々と割り切ってやっているから、さほどいやらしくならない。むしろいやらしさというノイズがなくなってはじめて見えてくる良さというものがあるのだと気づかされる。

 主人公のデンジはエロいことをしたいと本気で思っているので、そのためなら命がけで悪魔と戦うし、そのおかげで死にかけることもある。普通の人間の考えでは胸を揉むという行為にそれだけの価値はないが彼にとってはあるわけだ。そして、そうした彼の情熱とは裏腹に、女性にはそれぞれの思惑があってエロいことは結局彼を利用するための道具でしかないという意識のギャップがある。だが彼の視界においては、欲しかったものが目の前にあって、手が届くかもしれないという希望に満ち溢れていて、それが可笑しいやら悲しいやらで読む者は一喜一憂する。ようするにこの物語はエロい行為を最上の価値と見なす男の期待がことごとく裏切られ続けているがそれに気づかないという滑稽話とも見なせるのであって、この漫画の性的な描写は、女が自分の身体を己のものだと理解しているぶんだけ女のほうが利口だと感じさせることで成り立っている。そしてむしろだからこそ性的な欲求をどこまでも正直に描くことができるというレトリックなのだ。

 作者が女性の裸体を描くことのマズさを理解しているのと同様に、男性の欲求をそのまま描くことのマズさを理解しているからこうした描き方になっているのだろうと思う。そういう真面目さがあってなおかつ男の性的欲求に良く応えてみせる女を描くにはどうしたらいいかという知恵を出してくるところが『チェンソーマン』の独特さなので、つまり少年漫画がたびたび描いてきたエロの値打ちを男の側が勝手に過剰にインフレさせて、そのエロに対する情熱の空回りを描くアイロニーがそれなのだ。