キズナアイ騒動~おたくとフェミと、時々、日本~
はじめに
タイトルは東京タワーのもじりですが、深い意味はとくにないです。
さて、キズナアイ騒動、まだ余波が続いてるんだよね。
いろんな人がもうさんざん喋りまくってるから、もう私なんてなんも言わなくてもいいかなぁなんて思ってたんだけど、言いたいことが一つだけ見つかったので、記事を書くことにしました。
概略とかめんどくさいんで書きませんが、今回の騒動がどんな経過をたどっているのかは、こちらの記事から辿っていけば大体わかると思います。
まぁようするに、フェミニスト対オタク文化擁護派(表現の自由戦士は蔑称っぽいので使いません)の戦いなわけですね。これだけなら、これまで何度も繰り返されてきた、わりとよくある光景ですよね。
けどひとつだけ、今回は事情が違っているなぁと感じるのは、キズナアイについて問題視したのが学者という肩書で大学にいらっしゃるような、いわゆるアカデミズム系の方たちで、ネット記事を書いて意見までしているという点です。Twitterでつぶやいたりってことはこれまでにもあったと思うんですけど、今回はすごいですね。いままではネットの一部でバトってた印象がありましたが、こうなってくるといよいよ本格的な闘争になるのか?というような雰囲気が出てきてしまっているわけです。これはマズいですね。
なんでこんな事態になったのかといえば、天下のNHKがキズナアイを起用したことが大きいことは明らかなんですが、もっと大きな視点に立ったときに、オタク文化が日本文化に「昇格」してしまったことがそもそもの原因なんじゃないか?と私には思えます。
どういうことかというと、オタク文化が社会に浸透してきており、また政府のクールジャパン戦略などによって日本文化としても大きな存在感を持ち始めている。今回いよいよアカデミズム系のフェミニストのみなさんが出てきたのは、キズナアイをめぐって以上のような背景を強く意識せざるを得なかったためだろう、ということです。
また、中にはキズナアイの容姿が男性主体の性的な欲求に基づいて設計されているなどと主張をする人もいますが、私はまったく同意できないし、そのような議論は不毛なので、今回記事で取り上げる「フェミニスト」というのは、有意義な議論をしている人たちに限定されていることはあらかじめ言っておきます。
オタクとフェミニストのすれ違い
フェミニストたちが持つオタク文化=日本文化という認識で、わかりやすい例がこの記事です。筆者は、同志社大学の佐伯順子教授です。
この記事の冒頭にこうあります。
日本のポピュラー・カルチャーが海外で人気を博し、それが海外の若者への日本文化や社会への関心に結びついている現象は、文化による国際交流としては喜ばしいことであり、日本の「ソフト・パワー」として高く評価されている。
ただし、かわいらしさや未熟な少女らしさを特徴にした姿が海外で主流化するのは、日本女性を性的対象とみなす古い「ゲイシャ」イメージの焼き直しになりかねないのではないか。
ようするに「萌えキャラ」が海外で人気になるのってマズいんじゃね?と、佐伯先生は思っているみたいですね。
それに続けて、次のようなことも言っています
現代日本においても、“かわいい”少女キャラクターの海外での人気に自信をつけたかのように、少女キャラクターをグローバルな文化、社会的できごとを報道する際に利用する動きがみられる。
日本政府観光局がバーチャル・ユーチューバ―である「キズナアイ」を訪日促進アンバサダーに就任させたのはその象徴的な例であり、「キズナアイ」の存在感は、ノーベル賞に関するNHKの特設サイトへの起用にまで及んでいる。
日本が主体的に、しかも公的に「萌えキャラ」を使っていくのはさらにマズいよね、と言いたいようです。
そして、その象徴的な例として、キズナアイを持ち出して来ています。まぁ確かに、彼女の日本政府観光局(JNTO)による観光大使への任命や、今回のNHKによる起用が、彼女にさらなる公的なお墨付きを与えるものというのは、歴然たる事実だよね。
簡単に言えば、ポップカルチャー日本代表の一人がキズナアイだと見なされているわけです。サッカー日本代表みたいな立ち位置ですね。うーん、察しのいい人はここらへんで、「日本を背負う」っていうことのややこしさ、面倒くささが想像できるんじゃないでしょうか。
日本代表ってことになると途端に世間の厳しい目にされされるという例は、枚挙にいとまがありません。最近でいえば、テニスの大阪なおみ選手についても、本人からしてみれば迷惑でしかないような議論が続いてますよね。「日本」ってラベルがくっつくとあらゆる物事が途端に面倒くさいことになるのが、逆説的に「日本」の特徴ですらあると思います。
さて話を戻しますが、上の記事で佐伯先生は、オタク文化=日本文化という前提の上で、オリエンタリズムという用語を持ち出しています。オリエンタリズムとは、ざっくり言うと、世界の「中心」である西洋から、「周縁」のオリエント(非西洋)へ向けられる好奇や侮蔑、幻想の入り混じった偏見のことです。
今回の場合、「かわいらしさや未熟な少女らしさを特徴にした」女性キャラクターが、その扱い方によっては、成熟した強者たる西洋と未熟な弱者たる日本という構図を再生産することになってしまうのではないか、と問題視しています。過去にはゲイシャが、現代ではいわゆる「萌えキャラ」がそのような役回りを演じてしまうのではないか。さらに言えば、萌えキャラがメイド・イン・ジャパンとして海外に売り込まれていくとき、日本人女性に対する偏見も再生産してしまうのではないか、というわけです。
このように見ていくと、この記事はゲイシャや萌えキャラそれ自体を叩いているわけではなく、それらを「日本」というラベルで売り出していくことを問題視していることがわかります。
私の意見ですが、佐伯先生の批判には、単なるアニメ・漫画表現としての萌えキャラ批判はどうも無理筋だけど、公の場に出張ってきたキズナアイをめぐる今回の事例ならいけるだろう、というグラデーションが見られます。というのもあって、じつは記事中で論点が前半と後半では変わっていて、んんん…?となるのですが、その一方で、キズナアイをめぐる批判だけ見れば、それなりに痛いところをついているなぁと思う部分もあります。
それは例えば、キズナアイが日本の観光大使として海外にPRするとき、不本意であっても日本人女性の表象を背負ってしまうかもしれない、という点です。確かに、そのように捉える人は出てくるかもしれません。正確には彼女はAIであって人間ではありませんとか、彼女が日本人女性を模しているとは必ずしも言えませんとか、中の人なんていません!とか言ってみたって、外国人の大多数が素直に了解してくれるでしょうか。日本語ネイティブの「中の人」という一つの人格を認めるとき、「日本人女性」という要素をキズナアイから完全に捨象するのは難しいと思います。
そして、そんな彼女の振る舞い方、扱われ方によっては、それは日本人女性をステレオタイプに押し込めてる!なんて言ってくる人が出てこないと言いきれるでしょうか。それに加えて、お前は日本代表なんだからこれくらい言わせろ!とか思っている人たちは、これからもきっと出てきますよ。
超めんどくさいですよね。でも、「日本」というラベルを張られるっていうのは、こういうことです。今回の騒動は、その前哨戦に過ぎないと私は思いますね。
以上のように、オタク文化が日本文化に「昇格」してしまったこと、その象徴としてキズナアイを捉えたからこそ、今回の出来事をフェミニストは危機感をもって批判しているのです。そして、オタク文化擁護派はそれをオタク文化の否定と捉えてフェミニストに反発している、という構図になっています。
でも、そもそもなんでこんな構図が出来上がってしまったのかといえば、政府がクールジャパン戦略と称してお金稼ぎを始めたからですよね。この点に意識があまり向いていないので、両者のすれ違いが起こっているように見えます。
オタク文化=日本文化と誰が決めたのか?
一度疑ってみなければならないのは、オタク文化=日本文化という認識そのものです。
例えば、漫画家やアニメーター、コンテンツを消費するオタクたちに、われわれは日本を代表する文化の担い手なのだ、といったような意識がどれくらいあるでしょうか?
ぶっちゃけ、そんなにないですよね。
ではそもそも、オタク文化=日本文化って誰が決めたんでしょうか。それはクールジャパンという概念がどうやってできたのか、という問いと同義といっていいでしょう。
上の記事は、クールジャパンの成り立ちから概念の変容について順を追って論じており、非常にわかりやすいです。さらには政府の金策として官製標語になってから、いかに批判されてきたのかも解説しています。
この記事の指摘で重要なのは、クールジャパンには本来的な意味と官製的な意味の二つがあるという点です。前者は海外における日本のポップカルチャー熱といった現象そのものを指し、後者は政府の官製標語を指します。この二つは似て非なるものだというのです。
そして、官製クールジャパンに対しては、否定的な声がコンテンツ産業の当事者からも聞こえるといいます。
現状、クールジャパンと聞いて、「外国人が評価してくれている日本のポップカルチャー」とポジティブに捉える人も一部にはいる。ただ、ネガティブ派もけっこう増えてしまった。
「また政府の無意味なターゲット政策か」と思う人もいれば、「アニメ・マンガなんかに税金を使うな。ほかのことに使え」と憤る人もいる。「政府が介入すると失敗する」という悪しきジンクスを信じる人も多い。「自分でクールと言うな」という意見もある。そして、当のコンテンツ産業の中には「関わりたくない」という人もいる。
音声合成ソフトで歌うバーチャルアイドル「初音ミク」を生んだクリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長は、ツイッターでこうつぶやいたことがある。
「クールジャパンで引っ張ってきたこの数年間で、ビジネス的には何も起きなかったこの閉塞感を、新たなるコンテンツ(ボカロ)に求められても、そもそもの政策方針がプアなら、結果もプアになるわけで、それに巻き込まれるのは・・」
この記事を読む限りでは、批判は主にビジネスとして失敗しているという点においてであり、日本文化の代表選手としてオタク文化を含むポップカルチャーが神輿として担がれている点には無関心であるように見えます。もちろんこの記事だけで判断はできませんが、先立つものはお金であり、文化的意義は二の次というのが実態であるのは想像に難くないでしょう。つまり、「日本」というラベルのややこしさ、面倒くささはとりあえず置いておいて、まずはお金という意識が先行している。それがクールジャパンであり、オタク文化=日本文化という「公式」を成り立たせている意識なのです。
キズナアイの観光大使就任やNHKへの出演は、クールジャパン戦略やその延長線にあると言えます。もちろん、政府戦略に乗るというのは彼女自身の選択なので、それを頭から否定するべきではないとは思いますが、今回の騒動で「日本」というラベルを背負うことのリスクが浮き彫りになったというのもまた事実ではないでしょうか。そのほとんどは難癖が飛んでくるリスクかもしれませんが、中には日本人女性への偏見を作ってしまわないか、といったような軽々に無視できない批判も出てくるわけです。
ここでオタク文化擁護派は、批判してくるフェミニストをみんなで打ち倒せばいいと思っているかもしれません。しかし、私にはそれでパッヒーエンドを迎えられるとはあまり思えません。なぜなら、いまはフェミニストの声が目立っているけれど、その陰には日本代表ってことになると途端に厳しい目を向けてくる世間ってやつが隠れているからです。むしろ本当のラスボスはこっちではないかと思うのです。
おわりに
この記事を書こうと思ったのは、オタク文化擁護派はわりとオタク文化=日本文化という「公式」に乗っかることに対して手放しで歓迎している感じがあり、それってけっこう危ういなぁと思ったからでした。
オタク文化が日本文化として公式のお墨付きをもらうことに、いったいどれだけの意味があるのか、私には疑問です。先ほど述べた官製クールジャパンの根底にある意識や、そこで丸め込まれている「日本」というラベルの面倒くささを踏まえた上で考えてみると、果たしてそんなに喜ばしいことなのでしょうか。オタク文化に対して胸を張るために、日本文化という固有性の枠組みに押し込んてしまう必要は必ずしもないと私は考えます。
最後に言っておきますが、私は、キズナアイのやってることは体制迎合だ!とか批判したいわけじゃありません。観光大使、NHK、それはそれでいいと思います。ただ、キズナアイが「日本」というラベルを背負ったのは彼女が自ら選んだことであって、彼女を応援するならそのことに自覚的であるべきだと思うんですよね。
そう、これが言いたかった。
ではこのへんで。
「最善の相」の誕生 または、これを読めば、小宮-青識論争に最短で追いつける(完結)
青識亜論(ネット論客)vs小宮友根(社会学者)両氏による論争に最短で追いつくための記事でしたが、論争はすでに終結しました。
ぶっちゃけ、論争部分は、最後の「小宮氏の主張に関するやりとり」だけを読めば事足ります。
論争の発端となった発言
Aさん(Cさんが想定する外国人の友人)「日本女はなぜに簡単にやらせてくれるの?」
Cさん(瀬戸内快男児氏)「...と真顔で聞かれると答えに困るので、海外には貞操観念をしっかり持っていきましょう。ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ。」
Bさん(jiji氏)「それってあなた自身が馬鹿にされてるんだよ。『あなたの国の女性はなぜ簡単にやらしてくれるの』なんて聞くのは喧嘩売ってるのと同義なのに、そこで『貞操観念をしっかり持ちましょう~』とか自国の女性に言うこのピントのずれ方やばい。」
両者の主張
青識亜論氏の主張(問題提起)
jiji氏の発言は、次の二つの理由で問題である。
①jiji氏の発言は、男性に怒ることを要請しており、男性に強くあるよう求めているのと同義である。
これはHeForSheの理念と矛盾しているから、フェミニストがjiji氏を批判しないのはおかしい。
②jiji氏の発言は、「女性は貞淑であるべきだ」という価値観を前提にしており、女性の貞操観念が低いことを否定的に評価するよう求めている。
これはフェミニズムの思想と矛盾しているから、フェミニストがjiji氏を批判しないのはおかしい。
小宮友根氏の主張(反論)
jiji氏の発言の趣旨は、「差別的な価値観に乗るな」である。
だからフェミニストはjiji氏を批判する必要はない。
両者はjiji氏の発言について、どちらの解釈が「より妥当」と言えるのかで論争をしていました。
青識氏の主張①に関するやりとり
1 青識氏の主張①
・HeForSheの理念は「男は強くなくてもよい」である。
・「喧嘩を売っているのと同義」「あなたは馬鹿にされている」は「男は強くあるべきだ」と言っている。
・ゆえに両者は矛盾する。
2 小宮氏の質問①
「喧嘩を売っているのと同義」「あなたは馬鹿にされている」は、「男は強くあるべきだ」と言っていることになると考える理由は?
3 青識氏の応答①
「あなたの国の女性は...」という発言に直面した男性に対して、怒るよう要請しているように読めるから。
4 小宮氏の質問①
なぜ「怒るように要請すること」=「男は強くあるべき」になるのと考えるのか?
5 青識氏の応答①
・怒りへの要請は、必然的に戦い、闘争への動員を意味している。
・その要請にこたえるためには強さが必要である。
・ならば「怒るように要請すること」=「男は強くあるべき」となる。
6 小宮氏の反論①
「怒る」と「闘う」は同じ意味ではない
・ある言動を「怒るべき」ものだと示すことは、必ずしも「相手と闘争せよ」を意味しない。
・「怒りへの要請」は「必然的に」「闘争への動員」だと言う根拠は?
青識氏は、「怒りの要請」を「*男として*怒ることの要請」としてのみ理解しているように見える
・たとえば自国の女性への「悪口」に「怒るべき」というのが「自国民として怒るべき」という意味なら、仮に「怒るべき」が「強くあるべき」だとしても、「自国民は強くあるべき」という意味になって「男は強くあるべき」という意味にはならない
・もし青識氏が「自国民として怒ることの要請」のような理解を排除し「男として怒ることの要請」という理解のみを採用しているなら、その根拠は?
7 青識氏の反論①
「怒る」と「闘う」は同じ意味として理解可能な場合もある
・例えば「職場で女性に重要な地位が与えられないことに怒れ」という言説は、女性を抗議や戦いへと動員してきた歴史がある。
・つまり、フェミニズム的観点からくる怒りへの同調を呼びかけることは、「闘え」と同義である。
8 青識氏の新たな主張①
ナショナリズム的解釈が成り立つとしたら「青識氏の主張②」と同じ理由で問題だ
・jiji氏が「同じ日本人として喧嘩を売られているんだよ」というナショナリスティックな怒りへの同調をCさん呼び掛けているのだとしたら、jiji氏は「自国の女性の貞操観念も擁護できず、外国人に取られてしまう日本人男性も貶められているよ」と言っていると理解できる。
・その場合、jiji氏が「女性は貞節でなければならない」という価値観に捉われていることになり、フェミニズムの理論と矛盾する。だからフェミニストがjiji氏を批判しないのはおかしい。
やりとりはここで中断
青識氏の主張②に関するやりとり
1 青識氏の主張②
・「喧嘩を売っているのと同義」「あなたは馬鹿にされている」は女性の貞操観念が低いことを否定的に評価するよう求めている=「女性は貞淑であるべきだ」という価値感を前提にしている。
・フェミニズムの理念は女性の貞操観念が低いことを否定的に評価するよう求めない。
・ゆえに両者は矛盾する 。
2 小宮氏の質問②
「喧嘩を売っているのと同義」「あなたは馬鹿にされている」は、女性の貞操観念が低いことを否定的に評価するよう求めていることになる、と考える根拠は?
3 青識氏の応答②
一般的に、「あなたの国の女性(男性)は○○である」を「喧嘩を売っているのと同義」みなす場合、○○に入るのは相手に否定的評価を下す言葉であると理解できるから。
4 小宮氏の反論②
「あなたの国の女性(男性)は○○である」という発言を「喧嘩を売っている」と理解するために、聞き手自身が「女性(男性)は○○であるべきではない」という前提を持っている必要は必ずしもない。
例 「チビ」や「つり目」などの身体的特徴を揶揄された場合
5 青識氏の反論②
・小宮氏が言うような他の解釈がありうるとしても、「○○」について話者が否定的評価をしているのだろうと推論するほうが自然である。
・例えば、○○人が差別されている社会において、「あなたは○○人のようだ」という発言に対して、「あなたを○○人のようだというなんて、あなたは馬鹿にされているのだ」「喧嘩を売られているのだ」ということは、差別的規範を受容してしまっている。
6 小宮氏の質問②
Aさんが特定の価値観のもとでBさんを低評価して侮辱したとき、「Aさんが侮辱をした」ことをBさんが理解するためにBさん自身はその価値観を持っていなくてもよい(Aさんがその価値観に従って発言していることをBさんにわかっていればよい)、これに反論はあるか?
7 青識氏の応答②
単に「理解する」だけなら「持っていなくてもよい」だろう。
つまり、反論はないようです。
ここで二人が合意したのは、Aさんとjiji氏のうちjiji氏だけが差別的規範を前提にしていないパターンは成立しうる、という点です。
8 青識氏の新たな主張②
・Aさんは「あなたの国の女性は貞操観念が低い」という発言を、差別としてではなく賞賛や中立的な意見のつもりで言っている可能性もあるから、Aさんが差別的規範を前提にしているかは不明。
・BさんがAさんの発言を勝手に侮辱と理解するのは、Bさんが差別的規範を前提にしているからだ。
9 小宮氏の質問②
青識氏は次の二つのことを言っている。
・Aさんが「○○は悪い」という価値観を前提にしてるかは不明
・Bさんは「○○は悪い」という価値観を前提にしてる可能性が高い
AさんよりBさんがのほうが「○○は悪い」を前提にしてる可能性が高いと考えるのはなぜか?
たとえばAさんがつり目ジェスチャーをした。Bさんは「喧嘩を売ってる」と理解した。このとき
・Aさんが「目が細いこと」を否定的に評価してる可能性
・Bさんが「目が細いこと」を否定的に評価してる可能性
を比べて後者のほうが高いと考えるのはなぜか?
10 青識氏の応答②
そういう問いであるならば、どちらも「○○が悪い」という価値観を前提していると推論する蓋然性は高いと私は思う。
11 小宮氏の指摘②
ならば、Aさんが「○○は悪い」という価値観を前提にしてるかは不明、というのは不要な懐疑だ。
ここで二人が合意したのは、jiji氏が差別的規範を前提にしている可能性は、Aさんより高いとは言えない、という点です。
12 小宮氏の質問②
「jiji氏はAさんの発言を勝手に侮蔑と判断し、それを投げかけられた男性に怒るよう要請した」とどういう根拠で考え、それを「フェミニストが批判しないのはおかしい」とどういう根拠で考えているのか?
13 青識氏の質問②
Aさんの発言は侮蔑だ、とjiji氏が判断したことについて、小宮氏は疑義があるのか?
14 小宮氏の応答②
「jiji氏はAさんの発言を勝手に侮蔑と判断し、それを投げかけられた男性に怒るよう要請した」という解釈に同意できるかどうかに私が答えるには、「勝手に」の意味と、「侮蔑」がどういう侮蔑なのかを先に青識氏に説明してもらう必要がある。
以降、二人はひたすら「勝手に」と「侮蔑」という言葉について吟味していきます。
15 青識氏の応答②
・「勝手に」は、この文脈では「相手が侮蔑の意味でそれを言ったのか確認を取ったわけでもなく」といった程度の意味である。
・「貞操観念が低い」というのは一般に悪口であるから(フェミニズムがどうこうとは関係なく)、jiji氏は日本人女性全般への侮蔑と感じたのだと推論できる。
16 小宮氏の質問②
つまり青識氏は、jiji氏が「あなたの国の女性は…」という発言について、発言者が侮辱の意味で言ったのかどうか確認することもなく、日本人女性全般が侮辱されたと判断し、それを言われた男性にそのことに対して怒るよう要請している、と理解した。
・青識氏は上記の理解にもとづいて「フェミニストはこれを批判すべきだ」と主張したが、それはフェミニストもjiji氏について上記のように理解するだろうと考えたのか?
・青識氏自身が「『貞操観念が低い』というのは一般的に悪口である」と理解しているのに、jiji氏がそれを「侮蔑」と理解したことについては「勝手に」という否定的ととれる形容をしているのはなぜか?
17 青識氏の応答②
・フェミニストがどう理解するかはこの場合関係ない。一般的にそのように理解できるという点を重視した。
・「貞操観念が低い」を侮蔑の文脈で使うことは、「フェミニズムの論理」から言えば、否定的に扱われるべきものだと考えたから。
18 小宮氏の質問②
後者の回答「勝手に」についてもう少し詳しく。
「フェミニズムの論理から否定されるべきもの」だとして、なぜそう理解することを「勝手に」と形容する必要があるのか?
「批判するときにはちゃんと確かめるべし」というのような理屈か?
19 青識氏の応答②
jiji氏の理解が「フェミニズムの論理」から言えば「批判されるべきもの」であるから、否定的な修辞として「勝手に」を使っている。
気になるのなら「勝手に」はあってもなくてもいい。
20 小宮氏の質問②
jiji氏の理解が「フェミニズムの論理」から言えば「批判されるべきもの」であると考えたのは青識氏である。
したがって、「勝手に」という否定的評価も青識氏が下していることになるが、それはなぜ?
21 青識氏の応答②
「私から見て」ではなく、「フェミニズムの理論から見て」否定的な評価をしている。
22 小宮氏の質問②
「jiji氏は勝手な理解をした」という否定的評価は「誰」の考えか?青識氏か青識氏の想定する「フェミニスト」か?
21 青識氏の応答②
主語は私であるが、否定的評価のもとになっているのは私の価値観ではなく「フェミニズムの理論」である。
22 小宮氏の反応②
OK。意味がわからないということがわかった。
解説
上記の「勝手に」の意味についてのやりとりは、少しわかりにくいので解説します。
もとになっているのは、「jiji氏はAさんの発言を勝手に侮蔑と判断した」という青識氏の見解です。 さきほどから二人は、この一文について、とくに「侮蔑」と「勝手に」という言葉の意味を吟味しています。
青識氏は、一般的にAさんの発言は侮蔑と判断できるから、jiji氏もそのような一般的な判断をしたのだろうと言いました。
これは、青識氏がjiji氏の判断が妥当なものだと肯定的評価をしている、と捉えることができます。
しかし一方で、青識氏は「勝手に」という否定的な評価ととれる修辞をつけています。
つまり、青識氏は、「jiji氏は勝手に一般的な判断をした」という肯定的評価と否定的評価が同居したよくわからないこと言っていることになります。
それに対して、えっそれってどういうこと?と小宮氏が理解に苦しんでいるのが一連のやりとりだと思われます。
私の見解ですが、おそらく青識氏は「jiji氏がAさんの発言を侮蔑と判断したこと」は、「一般的な判断」である場合と「勝手な判断」である場合の2パターンに分かれる、と言わねばなりませんでした。
青識氏は、jiji氏が「Aさんの発言をただの悪口だと一般的な判断をした」(肯定的評価)、もしくは「Aさんの発言を性差別だと勝手な判断をした」(否定的評価)、この2つのパターンのどちらであるとしても、結局「男性に怒ることを要請している」ので発言には問題がある、と主張しているからです。
ここで青識氏は、この2つのパターンを混同するミスを犯してしまったため、意味不明なことを言ってしまっているのだと思います。
23 小宮氏の返答②
話を戻して、青識氏の「jiji氏はAさんの発言を勝手に侮蔑と判断し、それを投げかけられた男性に怒るよう要請した」という理解に私が同意するかどうか答える。
私は、jiji氏の発言の主旨が「セクシズムなりレイシズムなりに乗るな」であると理解できる、と主張している。
したがって、「フェミニズムと関係ない侮辱」とか、よく意味のわからない「勝手に」とかいう形容をともなう理解に同意するわけがない。
答えはNo。
24 小宮氏の質問②
青識氏は私が同意していると思っていたのか。それとも同意していないと思っていたのか。それともどちらかわからないと思っていたから尋ねたのか。どれ。
25 青識氏の応答②
わからないから聞いている。
26 小宮氏の反応②
青識氏は、相手が同意するかどうか「わからない」と考える命題に対して「これはフェミニズムと整合するんですか」と尋ねていた。
つまり、その質問に回答するために必要な、命題の前提となる理解の共有を無視していた。
これは多重質問の誤謬である。
やりとりはここで中断
コラム 「多重質問の誤謬」とは?
(wikipedaより引用)
多重質問の誤謬(たじゅうしつもんのごびゅう、英: loaded question, complex question fallacy)は、誤謬の一つである。
多重質問は、議論に関わる人々が受け入れていない、あるいは証明されていない前提に基づく質問。それに起因する誤謬を多重質問の誤謬という[1]。たとえば「あなたはまだ妻を虐待しているのか?」といった質問がある。この質問に対しては「はい」と答えようが「いいえ」と答えようが、「あなた」には妻がいて過去に虐待したことがあるということを認めたことになる。つまりこれらの事実が質問の「前提」とされたため、相手は多重質問の誤謬の罠にかけられ、一つの答えしかできない状況に追い込まれる[1]。質問者は修辞的にこのような質問を行い、特に返答を期待していないことが多い[1]。
この場合、小宮氏が「受け入れていない前提」だと言っているのは、「jiji氏はAさんの発言を勝手に侮蔑と判断し、それを投げかけられた男性に怒るよう要請した」という部分です。
青識氏は、「jiji氏は...した」という解釈の中身について小宮氏がちゃんと理解していると判断し、「これはフェミニズムと整合するのか?」という質問をかなり粘り強く何度もしていました(この記事では割愛しましたが)。
そして、後になってから「『jiji氏は...した』について、小宮氏は疑義があるのか?」と質問しなおし、「わからないから聞いている」と言いました。
これに対して小宮氏は、最初の質問は多重質問の誤謬だと批判しました。
小宮氏の主張に関するやりとり
1 小宮氏の主張
・「あなたの国の女性は…」という発言には、差別的要素が含まれている。
「簡単にやらせてくれる」かどうかだけで女性を評価することにはセクシズムが、
また「日本人の」女性に対してことさらそうした評価が向けられるのであれば
そこにはレイシズムやオリエンタリズムが含まれていると理解できる。
・jiji氏のツイートの趣旨は、男性に対して「そうした差別的要素の乗っかるな」である。
・青識氏は、「あなたの国の女性は…」という発言をただの「悪口」と捉え、「日本人男性は思いやりがない」といった「悪口」と同等に扱っているが、これは誤りである。
2 青識氏の質問
・「あなたの国の女性は…」という発言が、「簡単にやらせてくれるかどうか『だけ』で女性を評価」しているかどうかは不明ではないか?
・セクシュアルな傾向性に言及することが即座にセクシズムなのか?
・日本人に対して評価的な判断をすることがオリエンタリズムでレイシズムなのか?
3 小宮氏の応答
「あなたの国の女性はなぜ簡単にやらせるの?」発言がセクシズムである理由
・「あなたの国の女性は...」発言は、セクシュアルな傾向について否定的な評価をおこなって卑下をしていると理解するほうが自然だと私は思う。
・その理由は、「女性は貞節でなければならない」という価値観のもとで女性が性的にアクティブであることを否定的に評価し、そうした女性を卑下してきた歴史があり、「あなたの国の女性は…」発言は、その価値観を表現にしていると理解できるからだ。
実際、Cさん(瀬戸内快男児氏)もそのような価値感に乗っかっている
・Cさんが「自国の女性」に対して「貞操観念を持ちましょう」と注意したのは、「簡単にやらせる」発言を「あなたの国の女性は貞操観念がない」と否定的に評価されたと理解したからだろう。
・この「貞操観念」からの評価というのは、女性にだけ貞節であることを要求する点で、女性の性的自己決定権を軽んじ男性と対等に扱わない性差別的なもの。(性の二重規準)
・したがって、Cさんは「あなたの国の女性は…」という発言に含まれるセクシズムに乗っかっている、という理解をすることができる。
・オリエンタリズムないしレイシズムかどうかは、単に「日本人に対して評価をする」かではなく、文化的ないし人種的に自分たちとは異なるとみなすことによって、対象を自分たちと対等ではない、異質で劣った存在として扱っているかどうかによる。
4 小宮氏の批判
・青識氏が性差別の歴史を知っていれば、「あなたの国の女性は...」発言が差別的だとわかるはず。わかっていないとしたら無知すぎる。
・青識氏が「あなたの国の女性は...」発言が差別的だとわかっていたなら、 jiji氏の発言を最善の相で理解しようとしたとき、jiji氏の発言の趣旨が「差別的価値観に乗るな」である可能性に思い至るはず。思い至っていて、あえて他の可能性を指摘しているなら、批判相手の趣旨を最善の相で理解する努力を放棄しており不誠実である。
時系列的には、ここから「青識氏の主張①、②」に分岐し、小宮氏が青識氏に対して突っ込みを入れても埒が明かないので、また↓に戻ってきた、という感じです。
5 小宮氏による主張の再説明
小宮主張再説
TwitLonger — When you talk too much for Twitter
まぁ、これは読みたい人が読めばいいと思います。(読まなくても議論の流れは追えます)
6 青識氏の質問
解釈の妥当性を述べていない
・なぜ「貞操観念が低いの?」というAさんの問いが、「女性は貞節でなければならない」ということを表しているのだ、と言えるのか?
・jiji氏が「フェミニズム的ではない解釈をした」可能性はありうる。(例えば、「青識氏の主張①に関するやりとり」の中で出てきたナショナリズム的解釈)
・にも関わらず、なぜ小宮氏はjiji氏の発言を「フェミニズム的解釈をすべきだ」と主張するのか?
・小宮氏は、jiji氏が「Aさんが差別的価値観から発話している」とフェミニズム的な解釈をしたことの妥当性が述べられていない。
7 青識氏の疑念
私の疑念は、フェミニズム的に正しい・ポリティカルコレクトである解釈と、そうでない解釈が並び立った時に、小宮氏は、フェミニスト(jiji氏)の発言に対してだけ「最善の相」に立って解釈するよう要求しているのではないか?ということである。
つまり、小宮氏は、Aさんの発言に対しては「最善の相」に立って解釈するよう要求していないのではないか?だとしたら、小宮氏は不誠実である。
8 小宮氏の撤回と再主張
「最善の相」について
TwitLonger — When you talk too much for Twitter
「最善の相」について撤回
・「最善の相」という書き方は適切ではなかった。
・「二つの合理的な解釈があるとき、相手の主張に有利な解釈を採用せよ」と要請しているように読める。
・これは自分が意図していた「相手の発言をもっとも合理的に解釈せよ」という要請とは別ものであり、混乱を招くものだったので撤回し、以下のように訂正する。
訂正後の主張
・Bさんの発言について、それがフェミニズムの考えに抵触するという解釈と、しないという解釈のいずれもが合理的であるのなら、フェミニストが前者を採用すべきであるということが示されない限り、『フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき』とは言えない。
青識氏に求める反論
青識氏が「フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき」という主張を維持するためには
・「jiji氏の発言はフェミニズムの考えに抵触しない」という解釈(私がこれまで示してきた解釈)が合理的ではないこと
・いずれの解釈も合理的であるがフェミニストは青識解釈を採用すべきであること
これのどちらかを示す必要がある。
コラム 「最善の相」とは?
小宮氏は、批判相手の趣旨を「最善の相」で理解する努力をするべきであり、それをあえてしない人間は不誠実である、と言いました。
これに対して青識氏は、それは相手の趣旨を忖度して考えろと言っているようなものだ。しかし、いままでフェミニストは批判相手の趣旨を忖度してきたか?してこなかっただろう?自分たちにだけ都合の良いことを言うな、と反発しました。
これを受けて小宮氏は、「最善の相」とは、「二つの合理的な解釈があるとき、相手の主張に有利な解釈を採用せよ」ではなく、「相手の発言をもっとも合理的に解釈せよ」という意味で使った。しかし、確かに誤解を招きかねない表現だった、として発言を取下げました。
以下から、最後のやりとりになります。
青識氏
要するに小宮氏の主張は、ある表現に対する合理的な二つの解釈があったときに、フェミニストは自分たちに都合のよいときは差別的だ(フェミニズムに抵触する)という理解をしてもよいし、それが自分たちに向けられたときは拒否できるというということだろう?
小宮氏
違う。
自分たちの解釈の方が合理的だと言えれば、「相手も自分たちの解釈を採用するべきだ」と主張できる。
青識氏
フェミニストがいくら「これは差別だ」と批判しても、批判の対象に「それを採用せよ(=差別と認めるべき)」とは主張できない、ということだろう?
これではフェミニズムの規範的な効力が失効しそうだが。
小宮氏
フェミニストが「自分たちの解釈のほうが合理的」であることを示す努力をすれば失効はしない。
青識氏
ここでいう「合理的」とはなんだ?
多くの人が差別的でないと合意している表象でも、フェミニストの批判の対象になることはありうるわけだろう?
「合理」とは何を根拠として、どう判断されるものなのか。
小宮氏
脇道に逸れたくないので、その質問が今の議論とどう関係していて、その答えがないと反論ができないのか、だとしたらなぜか教えてくれ。
青識氏
脇道と言うか、ここが本質のように思う。
解釈の合理性とは、誰にとっての合理性なのか?
あるいは、誰かの主観ではなく、別の外部的な規範から調達されるものなのか?
小宮氏
・「合理的」の意味がわからないから「フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき」という自分の主張の合理性を示せと言われても具体的に何をしてよいかわからない
ということか?
青識氏
私はすでになすべき反論している。
小宮氏
私の求めた反論はまだしていない。
青識氏
私は小宮氏の解釈が誤りであるとは主張していない。
それは私の解釈とは異なるが、一つの解釈としては成立するかもしれない。
しかし、問題は、その解釈が成立するとして、だからなんなんだ、と聞いている?
それが私の反論だ、と言いたいのでしょう。
小宮氏
青識氏は「フェミニストはjiji氏を批判すべきだ」と主張したのだから、そこには「フェミニストも自分と同じ解釈を採用するはず(or)すべきだ」という前提があるはず。
なぜそのように考えるのかを明らかにしてくれ、とずっとお願いしている。
青識氏
私は、フェミニストの倫理では、差別性を見出しうる、ある任意の解釈があれば、批判可能なのだと思っていた。
なので、「性の二重規範に基づくマッチョイズムに基づく発言」と解釈可能なjiji氏の発言を差別性を見出しうると判断し、批判した。
しかし、フェミニストが「最善の相」に基づく批判しかできない、とするなら別の話だ。
小宮氏
・フェミニストは他者の発言を批判するときに、他の合理的な解釈があってもフェミニスト解釈に従うことを他者に要求してきた。従って青識氏もjiji氏の発言に対して、他の合理的な解釈があっても青識解釈に従うようフェミニストに要求した
ということか?
青識氏
そうだ。私はそのように思っている。
ある表象の差別性を告発するときに、その表象が「差別的でないほかの解釈があるか」ということを、フェミニストが十分に検証してきたとは思えない。
しかし、一方でフェミニストは、他の合理的な解釈があってもフェミニスト的解釈に従うことを他者に要求してきた。
小宮氏
では、「フェミニストがおかしな議論の仕方してるように見えたから同じようにやり返したった」ということなのか?
青識氏
それを「おかしな議論の仕方」と小宮氏が評価するのであれば、そういうことだ。
小宮氏
私の評価は関係ない。
青識氏が「フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき」と主張した、その根拠を尋ねている。
青識氏
私の主張を、小宮氏がどう評価するのかを明言してくれ。
なぜ私だけが根拠を尋ねられる必要があるのか?
小宮氏
青識氏の主張の根拠を尋ねてるところだからだ。
青識氏
では、私も小宮氏の価値判断を聞きたいのだが、「おかしな議論の仕方」と私の主張を捉えるのか?
小宮氏
その前に、私の質問への答えは「Yes」ということでよいか。
小宮氏
では、「フェミニストがおかしな議論の仕方してるように見えたから同じようにやり返したった」ということなのか。
青識氏の
「おかしな議論」という評価が正しいかどうかは、小宮氏の答え次第だ。
小宮氏
別に表現は「おかしな」でも「悪い」でも「筋が通らない」でも何でもいいのだが、青識氏はフェミニストの議論の仕方を否定的に評価していて、今回はその同じ議論の仕方を自分でフェミニストに対してやってみせた、ということでいいのか?と聞いている。
青識氏の
さあ、どうなんだろう。
ただ、私はフェミニストたちの議論の仕方をトレースしただけで、特に今のところ明確な価値判断をしたつもりはない。
小宮氏
「明確な価値判断をしていない」なら、どういう根拠で「フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき」と主張したのか。
・フェミニストはこういう議論の仕方で他者の発言を批判しているようだ。この議論の仕方が良いか悪いかはわからないが、自分も使ってみよう。
ということでよいか。
青識氏
というより、実際にフェミニストの発言が同じ方法で批判されたときにどのように理解するのか、ということが私の疑問だったのだ。
一線級のフェミニストであられる小宮氏が議論に参加してもらったことは、その点で全く僥倖であると私は考えている。
小宮氏
・フェミニストはこういう議論の仕方で他者の発言を批判しているようだ。この議論の仕方が良いか悪いかはわからないが、自分も使ってみよう。それに対してフェミニストがどう反応するか見てみよう。
ということか。
青識氏
あえて言い換える意図がよくわからないが、私がすでに言ったような意味だ。
小宮氏
「青識氏がすでに言った意味」がわからないから確認している。
・フェミニストはこういう議論の仕方で他者の発言を批判しているようだ。この議論の仕方が良いか悪いかはわからないが、自分も使ってみよう。それに対してフェミニストがどう反応するか見てみよう。
ということでいいのか?
青識氏
すでに言った通りだ。
小宮氏
・フェミニストはこういう議論の仕方で他者の発言を批判しているようだ。この議論の仕方が良いか悪いかはわからないが、自分も使ってみよう。それに対してフェミニストがどう反応するか見てみよう。
ということだったと理解してよいのか、と確認させてほしいだけだ。
青識氏
同じ批判の方法で批判をし、その正当性を問うているという意味ではそうだ。
小宮氏
OK。ということは青識氏の今回の「フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき」というご主張は、青識氏自身も「正当性」があるかどうかわからない(「明確な価値判断をしていない」)議論の仕方によって主張していた、ということだ。
青識氏
「その前に」と言ったのだから、そろそろ小宮氏の価値判断を聞かせてもらえないか?
小宮氏
いや、もう議論は終りだ。なぜ終りかは以下で説明する。
終わり
TwitLonger — When you talk too much for Twitter
もはや争点がないので言うことはないのですが、私の感想は「『反応を見るための釣りでした』のような指し手をは、いついかなる状況でも議論から離脱するために使えますよね」です。後の評価は第三者にゆだねます。
ようするに、青識氏、議論から逃げたね、みなさんどう思いますか?と言っていますね。
観戦?してくださった方々へ
TwitLonger — When you talk too much for Twitter
ただ、(終り方は予想していなかったので結果論ですが)私自身がこの何の得にもならない、時間を浪費し実名で恥をさらしおそらく研究者フォロワーからは顰蹙を買うだけだったやりとりから「伝わったらいいな」と思うのは、双方が「議論するという営為」にコミットしなかったら「議論」は成立しないよ、ということです。
これは、つまり、今回の論争は、そもそも議論として成り立っていなかった、と言いたいのでしょう。
解説 「合理的」とは?
以上のやり取りで二人は、お互いにある質問をし、それに回答するよう要求し合っています。
しかしなんのことはありません。これは二人の決定的な認識の相違から来ているだけのことです。
それは「合理的」という言葉についての理解の違いに表れています。
青識氏は、「フェミニズム(フェミニスト)の主張は、ある表現に対する合理的な二つの解釈があったときに、フェミニストたちに都合のよいときは差別的だと理解してもよいし、それが自分たちに向けられたときは拒否できる。」と言いました。
青識氏は、二つの解釈がどちらも「合理的」であった場合、優劣はつけられない。つまり、本来は判断を保留するしかないのに、フェミニストは自分たちに都合よく判断している、と理解しているわけです。その「都合のいい判断」を「最善の相」という言葉をあえて使って茶化しています(撤回を無視)。「フェミニスト特有の都合のいい論理」だと最後まで批判したいのでしょう。
そして、青識氏は質問で、「フェミニストの論理」をトレースした自らの主張(それが成功しているかは置いておいて)を小宮氏に「おかしな議論」だと否定的に評価させようとしているのですが、これはただの揚げ足取りが目的だろうと思います。
一方で小宮氏は、「自分たちの解釈の方が合理的だと言えれば、『相手も自分たちの解釈を採用するべきだ』と主張できる。」、そして「フェミニストが『自分たちの解釈のほうが合理的』であることを示す努力をすれば(フェミニズムの論理は)失効はしない。」と言いました。
小宮氏は、二つの解釈がどちらも「合理的」であった場合、どちらがより「合理的」かによって優劣がつけられる。そして、優位であることを示す努力をすれば、「相手も自分たちの解釈を採用するべきだ」と主張できる、と理解しているわけです。
そして、小宮氏は質問の結果、青識氏が反論を放棄している、つまり「自分の解釈のほうが合理的」であることを示す努力を放棄していると判断し、論争終結を宣言した、というのが一連のやり取りです。
私は、このやり取りを見て、青識氏があがりを決め込んだのは時期尚早だなぁ、と感じました。なぜなら、二人の「合理的」という言葉の解釈に相違がある以上、青識氏が「フェミニストの論理」を忠実にトレースできているかはまだわからないからです。これでは青識氏が必要なあがり札を確保できておらず、議論の放棄と見なされても仕方ないと思います。
小宮氏が論争を打ち切りにしたのは、青識氏のとんだ茶番劇につき合わされた、もしくはフェミニストに対する印象操作の道具にされたと捉え、これ以上の歩み寄りはせずに損切りに回ったということだと思います。
以上です。
みなさんお疲れさまでした。
その後のやり取り
青識氏
結局、小宮氏は価値判断を最後まで避けた。
いちおう言っておくが、他者の思想を検証するにおいて、そのものが利用している論理の構造を逆に当てはめてみるというのは、「釣り」ではない。
正当な議論の方法論だと思う。
小宮氏
海法 紀光@nk12 9月13日
青識さんの考える「フェミニズムの論理」を相手が認めたなら、「それを認めるなら、これも認めるだろう」といった話ができますが、認めたわけでもなく、認めざるを得ない筋道も出してないので、単に脳内論理を勝手に当てはめてるだけで、それは反転可能性でもなんでもないですよ。
↑をRTしたうえで
そもそも「相手が自分に向けてやってる(と自分が思う)ことを相手に向けてやる」ことを「検証する」とは言わない。
小宮氏
いまだに「最善の相」という私が使った表現に関するtwが流れてくるので、落ち穂拾い的な話をひとつ。
「最善の相」について(2)
TwitLonger — When you talk too much for Twitter
青識氏
とりあえず、小宮先生は最後まで本当に根気強く付き合ってくれたとは思う。誠実さについても疑っていない。もちろん、かみ合わない部分も数多くあったが。
いわゆるフェミニズムによる性表現批判は、多くの場合、一見するとなんでもないように見える表現について、「性差別」を読み取る構造になっており、必然的に複数の合理的な解釈から「最悪のもの」を読み取ることが「可能である」という議論に立ってきた。
「私達は差別となる『可能性』のある表象を批判するべきだ」ということがフェミニストの批判には内在していた。「差別的意図のないただの観光PR」という解釈と、「この絵は性的消費だから差別だ」という解釈を比べて、どちらが合理的か、という検証は果たしてこれまでなされてきたのか。
もちろん、私たちは、意識的にせよ無意識的にせよそのような論証をいつでもフェミニストに強いる戦術をとってきたかもしれない。しかし、その戦術の正しさを、小宮先生がお手ずから裏書してくれたというわけだ。それは素晴らしいことだ。
青識氏
せっかくなので、noteで今回の小宮先生との論争について、論点と私の見解をまとめた。これからのTwitterフェミニズムと戦うに際して、一つのパッケージができたのかなと思っている。
論点整理:小宮・青識論争――または「最善の相」について|青識亜論|note
小宮氏
特に言うべきことはないので、比べて読んでいただければと思う。
小宮主張再説
TwitLonger — When you talk too much for Twitter
「最善の相」について
TwitLonger — When you talk too much for Twitter
終わり
TwitLonger — When you talk too much for Twitter
「最善の相」について(2)
TwitLonger — When you talk too much for Twitter
「最善の相」と表象の問題についても、これなら上の(2)に急いで何か付け加える必要はないかな。
なお考えていたのは、表象の差別性が争われる場合、ある表象が差別的と解釈できるかという問いに加えて、差別的と解釈しうる表象が用いられる表現をどう扱うべきかという別の問いがあって、そのぶん議論は複雑になるよね、ということ。
こちらはずっと「その主張がどう正当化できるのか」を問うていたのに対し、相手は「どう正当化できるのか」どころか「自分がどんな主張をしているか」にもあまり関心がなかったのではという印象を確認させてもらえる「論点整理」だった。
後から見て最大限好意的に解釈すると、「フェミニストはダブスタだ」という類いのことが言いたくて、(1)HeForSheとJ発言、(2)フェミニストの議論の仕方と自分の議論の仕方、(3)小宮発言とフェミニストによる表象批判、などを並べて見せているという感じ。
私が今回議論をしてたのは(1)のJ発言の理解について。議論の最後に突然出てきたのが(2)。「論点整理」の後半に書かれているのが(3)。
けれど並べられた個々の要素をどう理解しどう比較すべきかについて自分の主張を正当化するという作業がないので、根拠が示されないままただ並べて「みなさんわかりますよねー」という以上のことになっておらず、(1)から(2)(3)へとぽんぽん飛ぶことにも疑問を感じていない。
繰り返しだけど、「自分がどんな主張をしてて、どうしたらそれを正当化できるか」ということへの関心がとても低いと思う。
関心もってやりとりを振り返ってくださっている方は、ぜひ「互いがどのような主張を提示していて、それをどのように正当化しようとしているか」という筋を再構成しようとしてみていただければと思います。
【短い感想】『ラブ・アクチュアリー』(2003)
はい、25日にクリスマス映画を見ました。『素晴しき哉、人生!』と迷いましたがまだ見てないやつにしようということで、こちらにすることに。
原題は、『Love Actually』。「愛は、実際には」という感じだろうか。この映画では、恋愛にまつわるいくつかのエピソードを通じて、「愛は、実際には」どんなものなのかを描いている。
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【短い感想】『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016)
岩井俊二監督の去年の作品。
岩井監督の存在は今年知りました。夏にアニメ版『打ち上げ花火』をやるので予習としてドラマ版をみて、それから『リリィシュシュの全て』『市川崑物語』を観ていったという流れ。ハマりそうでハマらないそんな距離感がある作品が多い印象。とはいえ、みるたびに心がえぐられることも多く、しんどい。
すこし映画と関係ない話をすると、夏に真夜中に2ちゃんねるを見ていまして、そこで明日彼氏とセックスするんだけど・・・などというスレを立てている自称女子高生とチャットみたいなことをしていました。話を聞いてると彼氏から告白されて、そんなに好きとかじゃないけどお試しで付き合って、今度セックスするんだとかなんとか言っていました。好きじゃないのにセックスはするとかしょうもないですねとわたしは言いましたが、彼女はそれでかまわないそうです。それと、彼氏とはそのうち別れるだろうとかなんとかいってて、こちらとしてはなんだこいつと思うだけでした。そのときはちょうど『リリィシュシュ』を観た直後だったのでその話を振ってみたところ、自傷彼女は岩井俊二のファンで、逆にお気に入りの作品をおすすめされました。ちなみにおすすめされたのは『花とアリス』でした。
それから岩井の映画を見るたびに、あの自称彼女はいったいどんなセックスをしたんだろうかなどと思い出すはめになってしまい我ながらかなりキモイなと思っています。岩井映画は、セックスのイメージが強くあるのでなおさらそう思ってしまうのです。『リリィ』も『リップヴァンウィンクル』もセックスもしくはレイプシーンはとくに心えぐられる場面でした。
『リップヴァンウィンクル』の話自体は正直なんだこれ…よくわからんって感じでした。
人はいろいろな仮面を複数持っていて、それがこの映画ではSNSのアカウントだったり、親族代行だったりします。そして、なにか一つの本当の自分なんてものはなく、どれも自分であるからには、自分とはその集合でしかないということになるという話だったような気がします。知らんけど。
誰かに必要とされる自分をいくつも作りたい、持っておきたい。いらなくなった自分はアカウントを削除する、それでいいのかもしれないし、真白が死んだとき、七海は真白に必要とされていた自分を失って、それはある意味で死なんだろうということなのかな、難しくてよくわかりませんが。
その思い出を生きる糧にしてさらに強く生きていくのが人生というもので、つらい思い出とは人生の肥料なのかな、とか思っておけばこの映画を鑑賞したことに一応なっていると思います。きっとそうに違いない。
【短い感想】『ティファニーで朝食を』(1961)
名作と言われている見てみました。きらびやかなイメージがあったけど、実際見てみて全然印象が違っていました。
オードリー・ヘップバーンが演じたホリーは、男をたぶらかしながらお金を貢がせてその日ぐらし、しかも玉の輿を狙いという、まあこの時点でかなりアレな話だなってなります。で、お相手の男ポールも売れない作家で金持ちのおばさんと不倫&援助交際をしているという、これまたアレ。
二人とも一見精神的な余裕も教養もありそうな雰囲気だけど、ポールは普通にいい男を最後まで演じる一方で、ホリーは破綻していく。なんだろうね、この違いは。ポールも少しは小説の筆が進まないことに焦りとかないの?という疑問が…。こいつ最後まで余裕ありすぎじゃないですか?正論ばっか吐きやがって、そういうお前はどうなんだ?って思いました。ムカつきました。
オードリー・ヘップバーンの体型がかなりガリガリに痩せ細ってたのが印象的だった。劇中で田舎からホリーを迎えに来たおっさんが彼女のことを「骨と皮だ」って言ってたけど、あれはどういう意味なんでしょうね。細くてかわいい女性像を押し出そうとしているのか、批判しているのかよくわからなかった。斬新なファッションできらびやかにホリーを演出しつつ、世間一般的な評価は「骨と皮」ってことなんでしょうか。個人的には、「かわいい」って言葉自体が僕はそもそも好きじゃないし、今回みたいに媚びてるパターンは特にそうで、だからオードリーの出す独特な雰囲気は別に痩せ細った体型だからあるのではないと思いつつ、「骨と皮だ」という意見にはそんな風に言わなくてもいいだろ、と思いつつ。
おまけみたいな日本人描写は最悪だった。これは差別以外の何物でもないので、正直いって冒頭からかなり不愉快な気分になった。日本人含むアジア差別ってずっと根強く残ってるんだなあっていうのがわかっただけでした。
ここまで文句を言っておいて難だけど、内容自体はそこまで悪くなかった気もします。お金が全てだと思ってる女と、愛のために生きたい男とのせめぎ合いという、いまとなってはよくあるパターンになってしまっているくらいの王道の展開ではあると思いました。
ホリーが飼ってる猫は彼女の立場を象徴する役目を負ってるっぽいのですが、この使い方はよいと思いました。最後にホリーが自分を受け入れる描写を、猫を抱擁することで視覚的に表してるのが、わかりやすくていい。
ティファニーはティファニーはホリーの儚い夢であり、破滅の原因なのですが、ここが観る前のイメージと全く逆でした。もっときらびやかで楽しーって感じのお気楽な映画なのかと思ってたので。しかも、パッケージになってるホリーがティファニーで朝食とってるシーンは劇中になかったのが驚きだった。冒頭のショーウィンドウの前でパンかなんかを食ってるやつがティファニーでの朝食なのだろうか?だとしたら拍子抜けにもほどがある。
ムーンリバーも一度は聞いてみたかったのでそれが果たせました。これは『ハチクロ』でも出てくるからいつか聞いてみたかったのです。これだけでも十分満足。
Moon River - Breakfast at Tiffanys
【短い感想】『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』
久しぶりに、TSUTAYAへ行って、ずっと財布にあったタダ券があったので、新作のこの作品を借りてきました。たまにはヒューマンドラマでも観ようかと思いまして。
で、なんかわかるようなわからないようなお話だったので、気になってググって見て、
こちらのブログを読んでスッキリしました。
雨の日は会えない、晴れた日は君を想う - secret boots
邦題のタイトルは、死んだ主人公の妻が残したメモ「If it's rainy, You won't see me, If it'ssunny, You'll Think of me」がもとになっており、「you」は主人公のことで、「me」はメモを書いた妻のことなんだけど、邦題だと主語が主人公になってるから意味が全然違ってしまっているそうです。で、このメモが出てきた時の字幕も邦題のまんまなので、かなり意味不明になってしまっていた、と。
冒頭で主人公と妻が交通事故にあって死に、主人公はほぼ無傷で生き残ってしまったのに、主人公は妻が死んでも泣くことが出来ず、彼女にたいして愛がなかったのだと思い始めます。主人公が鏡に向かって無理に泣こうとするしぐさが悲痛で印象的でした。
主人公は葬儀が終わった次の日も普通に出社して仕事を淡々とこなせちゃうんだけど、そんな自分がおかしいことにもだんだん気づいていきます。そこでいままで気にしてなかったものが気になり始めます。例えばトイレのドアの軋む音とか。だから、いろいろ気になったものを壊し始める。これは、行動自体は物理的だけど、彼の心を解体していく作業ということになっております。なんだか抽象的というかパフォーマンスアートみたいだと思った。
それがぶっ壊してからまた組み立て直すようになります。最後には、妻への愛に気づいて心から泣くことが出来たし、彼女のために行動できるようになった、めでたしめでたしということだそうです。その行動が全体的におしゃれすぎるし、やっぱアート系だなと思いました。
曲がよかったので張っておきます。
『ドリーム』:「私たちのアポロ計画」でなぜ悪い??【邦題批判への反論】
Hidden Figures | Teaser Trailer [HD] | 20th Century FOX
『Hidden Figures』こと『ドリーム』
今回取り上げるのは、アメリカで2016年12月に公開、日本では今年9月に公開予定の『Hidden Figures』こと『ドリーム』です。まだ日本で見ることは出来ませんが、私は幸いにも少し前に鑑賞することが出来ました。アメリカでは『ララランド』を越える興行収入だったそうで、かなりの注目作でありながら社会派ノンフィクションという日本では地味に受け止められがちなジャンルの映画です。映画の内容は、アメリカとソ連による冷戦の真っただ中、二国間で宇宙開発競争を繰り広げていた時期のNASAを舞台に、職員として働く黒人女性たちが差別と闘って自らの夢を叶え、出世していくサクセスストーリーとなっています。
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