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【短い感想】『ラブ・アクチュアリー』(2003)

はい、25日にクリスマス映画を見ました。『素晴しき哉、人生!』と迷いましたがまだ見てないやつにしようということで、こちらにすることに。

 

原題は、『Love Actually』。「愛は、実際には」という感じだろうか。この映画では、恋愛にまつわるいくつかのエピソードを通じて、「愛は、実際には」どんなものなのかを描いている。

 

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【短い感想】『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016)

岩井俊二監督の去年の作品。

 岩井監督の存在は今年知りました。夏にアニメ版『打ち上げ花火』をやるので予習としてドラマ版をみて、それから『リリィシュシュの全て』『市川崑物語』を観ていったという流れ。ハマりそうでハマらないそんな距離感がある作品が多い印象。とはいえ、みるたびに心がえぐられることも多く、しんどい。

  すこし映画と関係ない話をすると、夏に真夜中に2ちゃんねるを見ていまして、そこで明日彼氏とセックスするんだけど・・・などというスレを立てている自称女子高生とチャットみたいなことをしていました。話を聞いてると彼氏から告白されて、そんなに好きとかじゃないけどお試しで付き合って、今度セックスするんだとかなんとか言っていました。好きじゃないのにセックスはするとかしょうもないですねとわたしは言いましたが、彼女はそれでかまわないそうです。それと、彼氏とはそのうち別れるだろうとかなんとかいってて、こちらとしてはなんだこいつと思うだけでした。そのときはちょうど『リリィシュシュ』を観た直後だったのでその話を振ってみたところ、自傷彼女は岩井俊二のファンで、逆にお気に入りの作品をおすすめされました。ちなみにおすすめされたのは『花とアリス』でした。

 それから岩井の映画を見るたびに、あの自称彼女はいったいどんなセックスをしたんだろうかなどと思い出すはめになってしまい我ながらかなりキモイなと思っています。岩井映画は、セックスのイメージが強くあるのでなおさらそう思ってしまうのです。『リリィ』も『リップヴァンウィンクル』もセックスもしくはレイプシーンはとくに心えぐられる場面でした。

 『リップヴァンウィンクル』の話自体は正直なんだこれ…よくわからんって感じでした。

  人はいろいろな仮面を複数持っていて、それがこの映画ではSNSのアカウントだったり、親族代行だったりします。そして、なにか一つの本当の自分なんてものはなく、どれも自分であるからには、自分とはその集合でしかないということになるという話だったような気がします。知らんけど。

 誰かに必要とされる自分をいくつも作りたい、持っておきたい。いらなくなった自分はアカウントを削除する、それでいいのかもしれないし、真白が死んだとき、七海は真白に必要とされていた自分を失って、それはある意味で死なんだろうということなのかな、難しくてよくわかりませんが。

 その思い出を生きる糧にしてさらに強く生きていくのが人生というもので、つらい思い出とは人生の肥料なのかな、とか思っておけばこの映画を鑑賞したことに一応なっていると思います。きっとそうに違いない。

【短い感想】『ティファニーで朝食を』(1961)

名作と言われている見てみました。きらびやかなイメージがあったけど、実際見てみて全然印象が違っていました。

 オードリー・ヘップバーンが演じたホリーは、男をたぶらかしながらお金を貢がせてその日ぐらし、しかも玉の輿を狙いという、まあこの時点でかなりアレな話だなってなります。で、お相手の男ポールも売れない作家で金持ちのおばさんと不倫&援助交際をしているという、これまたアレ。

 二人とも一見精神的な余裕も教養もありそうな雰囲気だけど、ポールは普通にいい男を最後まで演じる一方で、ホリーは破綻していく。なんだろうね、この違いは。ポールも少しは小説の筆が進まないことに焦りとかないの?という疑問が…。こいつ最後まで余裕ありすぎじゃないですか?正論ばっか吐きやがって、そういうお前はどうなんだ?って思いました。ムカつきました。

 オードリー・ヘップバーンの体型がかなりガリガリに痩せ細ってたのが印象的だった。劇中で田舎からホリーを迎えに来たおっさんが彼女のことを「骨と皮だ」って言ってたけど、あれはどういう意味なんでしょうね。細くてかわいい女性像を押し出そうとしているのか、批判しているのかよくわからなかった。斬新なファッションできらびやかにホリーを演出しつつ、世間一般的な評価は「骨と皮」ってことなんでしょうか。個人的には、「かわいい」って言葉自体が僕はそもそも好きじゃないし、今回みたいに媚びてるパターンは特にそうで、だからオードリーの出す独特な雰囲気は別に痩せ細った体型だからあるのではないと思いつつ、「骨と皮だ」という意見にはそんな風に言わなくてもいいだろ、と思いつつ。

 おまけみたいな日本人描写は最悪だった。これは差別以外の何物でもないので、正直いって冒頭からかなり不愉快な気分になった。日本人含むアジア差別ってずっと根強く残ってるんだなあっていうのがわかっただけでした。

 ここまで文句を言っておいて難だけど、内容自体はそこまで悪くなかった気もします。お金が全てだと思ってる女と、愛のために生きたい男とのせめぎ合いという、いまとなってはよくあるパターンになってしまっているくらいの王道の展開ではあると思いました。

 ホリーが飼ってる猫は彼女の立場を象徴する役目を負ってるっぽいのですが、この使い方はよいと思いました。最後にホリーが自分を受け入れる描写を、猫を抱擁することで視覚的に表してるのが、わかりやすくていい。

 ティファニーティファニーはホリーの儚い夢であり、破滅の原因なのですが、ここが観る前のイメージと全く逆でした。もっときらびやかで楽しーって感じのお気楽な映画なのかと思ってたので。しかも、パッケージになってるホリーがティファニーで朝食とってるシーンは劇中になかったのが驚きだった。冒頭のショーウィンドウの前でパンかなんかを食ってるやつがティファニーでの朝食なのだろうか?だとしたら拍子抜けにもほどがある。

 ムーンリバーも一度は聞いてみたかったのでそれが果たせました。これは『ハチクロ』でも出てくるからいつか聞いてみたかったのです。これだけでも十分満足。


Moon River - Breakfast at Tiffanys

 

【短い感想】『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』

久しぶりに、TSUTAYAへ行って、ずっと財布にあったタダ券があったので、新作のこの作品を借りてきました。たまにはヒューマンドラマでも観ようかと思いまして。

 

で、なんかわかるようなわからないようなお話だったので、気になってググって見て、

こちらのブログを読んでスッキリしました。

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う - secret boots

 

 邦題のタイトルは、死んだ主人公の妻が残したメモ「If it's rainy, You won't see me, If it'ssunny, You'll Think of me」がもとになっており、「you」は主人公のことで、「me」はメモを書いた妻のことなんだけど、邦題だと主語が主人公になってるから意味が全然違ってしまっているそうです。で、このメモが出てきた時の字幕も邦題のまんまなので、かなり意味不明になってしまっていた、と。

 冒頭で主人公と妻が交通事故にあって死に、主人公はほぼ無傷で生き残ってしまったのに、主人公は妻が死んでも泣くことが出来ず、彼女にたいして愛がなかったのだと思い始めます。主人公が鏡に向かって無理に泣こうとするしぐさが悲痛で印象的でした。

  主人公は葬儀が終わった次の日も普通に出社して仕事を淡々とこなせちゃうんだけど、そんな自分がおかしいことにもだんだん気づいていきます。そこでいままで気にしてなかったものが気になり始めます。例えばトイレのドアの軋む音とか。だから、いろいろ気になったものを壊し始める。これは、行動自体は物理的だけど、彼の心を解体していく作業ということになっております。なんだか抽象的というかパフォーマンスアートみたいだと思った。

それがぶっ壊してからまた組み立て直すようになります。最後には、妻への愛に気づいて心から泣くことが出来たし、彼女のために行動できるようになった、めでたしめでたしということだそうです。その行動が全体的におしゃれすぎるし、やっぱアート系だなと思いました。

 

曲がよかったので張っておきます。


Warmest Regards (Official Version)

『ドリーム』:「私たちのアポロ計画」でなぜ悪い??【邦題批判への反論】

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Hidden Figures | Teaser Trailer [HD] | 20th Century FOX

 

『Hidden Figures』こと『ドリーム』

 今回取り上げるのは、アメリカで2016年12月に公開、日本では今年9月に公開予定の『Hidden Figures』こと『ドリーム』です。まだ日本で見ることは出来ませんが、私は幸いにも少し前に鑑賞することが出来ました。アメリカでは『ララランド』を越える興行収入だったそうで、かなりの注目作でありながら社会派ノンフィクションという日本では地味に受け止められがちなジャンルの映画です。映画の内容は、アメリカとソ連による冷戦の真っただ中、二国間で宇宙開発競争を繰り広げていた時期のNASAを舞台に、職員として働く黒人女性たちが差別と闘って自らの夢を叶え、出世していくサクセスストーリーとなっています。

 

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『時をかける少女』 ≪白梅ニ椿菊図≫について

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はじめに―まず読み方から

 細田守監督の『時をかける少女』が地上波ということで、今回はずっと疑問に思っていた作中に出てくる架空の絵≪白梅ニ椿菊図≫について書いてみよう。

 ≪白梅ニ椿菊図≫は、劇中で未来人の千昭がこれを見るためにやってきたという設定で登場するのだから特に重要なアイテムのはずだ。しかし、この作品に関する言及は、ほとんど成されず、登場する機会もほとんどない。

 それにそもそも、この作品のタイトルはなんと読めばいいのだろうか。

 「白梅」は、「しらうめ」もしくは「はくばい」と読む。尾形光琳の≪紅白梅図屏風≫(こうはくばいずびょうぶ)や、呉春の≪白梅図屏風≫(はくばいずびょうぶ)などがあるから「はくばい」と読むほうが一般的だろう。次に「ニ」は、これ漢数字ではなく、カタカナで表記されている。そして「椿」は、「つばき」「ちん」。「菊」は音読みの「きく」しかない。

 以上からこの絵のタイトルは、白梅、椿、菊と植物の名称を並列した「はくばいにつばききくず」と読むと思われる。(追記:映画公開当時の読売新聞記事でもそうルビが振られているのが確認できた。*1

 

この絵の設定、制作秘話

 ≪白梅ニ椿菊図≫の設定について簡単に解説すると次のようになる。この絵は、東京・上野の東京国立博物館に収蔵され、そこで長年の間、当館の学芸員である「魔女おばさん」こと主人公の真琴の叔母・芳山和子が修復していた。そして、とうとう修復が完了し、当館の「アノニマス―逸名の名画―」という架空の展覧会で展示されているところが劇中のシーンである。

 唯一、この絵の素性について劇中で触れられるのは、芳山和子の以下の台詞である。

作者もわからない。美術的な価値があるかどうかも今のところはわからない。〔中略〕この絵が描かれたのは何百年も前の歴史的な大戦争と飢饉の時代。世界が終わろうとしてた時、どうしてこんな絵が描けたのかしらね。

この台詞からわかるのは、作者不詳、制作年代は推定数百年前、当時は大戦争と飢饉の時代であった、ということだけ。日本で該当する時代は、室町から戦国時代にかけてといったところだろうか。情報量が少なすぎるのでよくわからない。

 「アノニマス―逸名の名画―」には、この絵の他に実在する作品も展示されている。この展覧会のために架空の出品リストも作られたらしい。なぜこんなにディティールが凝っているかというと、東京国立博物館の研究員で、日本の近世、近代絵画史が専門の松嶋雅人氏がこの展覧会を監修しているからだ。細田守監督とは金沢工芸美大の同級生で、長年交友を続いているという。

 

二つの作品

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 本編ではちらっとしか映らないが、≪白梅ニ椿菊図≫の両脇に展示されているのは、≪隠岐配流図屏風≫と≪玄奘三蔵像≫という実在する絵だ。ふたつの絵についてそれぞれ見てみよう。

 

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 ≪玄奘三蔵像≫は鎌倉時代の作で、『西遊記』でおなじみの三蔵法師が描かれている。なぜこの絵が映画に登場するのだろうか。未来から過去へ絵を見にやってきた千秋と、中国からはるばる砂漠を越えてインド(ガンダーラ)に渡り、多数の経典を持ち帰った三蔵法師の行いには近いものがあるとほのめかすためだろうか。

 

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 つぎに、≪隠岐配流図屏風≫(アメリカ、キンベル美術館所蔵)。作者は不詳で、制作年代は室町時代後期。うっすらとかかった金色の雲と打ち寄せる荒波の描写が画面の大部分を占め、右端にポツンと寂しく座っている男性が描かれている。

 細田監督は当初≪隠岐配流図屏風≫を千昭が見にくる絵として構想していたそうだ*2

 この作品については、東京国立博物館研究員の鷲頭桂氏が興味深い指摘をしている。鷲頭氏によると、この絵は「先行研究では『増鏡』の後鳥羽院もしくは後醍醐天皇隠岐配流を描いたものとされてきた」が、本当は「『源氏物語』「須磨」「明石」帖が典拠となっている」という*3。つまり、画面右端で佇んでいる男性は、従来の解釈では島流しにあった上皇、もしくは天皇と考えられてきたが、実際は都を離れてひっそりと過ごしている光源氏だというのだ。

 この指摘は映画公開後のものなので、劇中でこの絵は従来の解釈と同様に「島流しにあった高貴な人が描かれた絵」として登場すると考えていいだろう。その場合、未来人の千昭が過去の世界から未来に戻れなくなってしまう状況が、この「島流しの絵」の情景と重ねられているといった解釈ができそうだ。しかし、『源氏物語』の絵であるという前提で考えてみると、この解釈には齟齬が生じてしまう。それどころか、光源氏が都を離れた理由が色恋沙汰が原因での自主謹慎というのだから、それを千秋の姿と重ねるとなるとなかなか反応に困る解釈が導き出せてしまうのである。(「須磨」「明石」はそういうエピソード*4)。もし細田監督の当初の構想通りに千昭がこの絵を見にきていたら、映画の解釈が全然変わってしまうなんてことになりかねなかったのかもしれない。

 

そろそろ本題

 では、≪白梅ニ椿菊図≫に注目していこう。細田監督は、トークイベントでこの絵についてかなり詳細に語っているので、絵に描かれた内容を知りたいならその文字起しを読むのが近道だ。

Q. 「あの天女の絵は元ネタがあるんですか?」

細田 「あれですね、国立博物館にある「白梅ニ椿菊図」。お答えしますと、元になった絵は特に無いんですよ。最初は絵を見るってことだけを決めてて、どんな絵か探してたんですけど、実在する絵に適当なものは無かったんです。
描いたのはマッドハウス平田敏夫さんで、実はこの方は演出家なんです。『ボビーに首ったけ』とか『はだしのゲン2』とか、最近だと『花田少年史』のオープニングや『茶の味』の最後のアニメの部分とかもされてる。尊敬できる、素晴らしい演出家なんですね。
普通なら日本画家にお願いするんでしょうけど、そこを敢えて演出家の平田さんにお願いした。平田さんの絵って、何かとっても暖かいていうのかな。色んな物を含んでいて暖かさがある。この作中の絵も、描かれた経緯が分からなくても何かが伝わってくるものがあるような絵なんだろうなと思っていたので、平田さんしかいないなと。
ちなみに、この絵は女性の顔らしきものの下に、その下に4つの物が浮いているんですが、これは平田さんによれば「宇宙」だそうです。それをぐるっと龍のようなものが渦巻き状にとり囲んでます。その周囲に実は花があるんですが、それがある種の吉祥性を表しています。周囲の花の方は絵が傷ついていたりして判然としないものになってます。
あとは、絵のタイトルなんですけど、和子があの絵に名前を付けたんです。お寺さんかどこかから持ってきてね。こういう絵の名前は研究者がつけることが多いんです。」*5

 

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 インタビューを踏まえつつ画面に注目してみよう。監督が言うように、中心には女性が、胸のあたりに四つの球体を抱擁するように描かれている。その球体は青色で、地球を連想させる(制作者の平田敏夫氏によれば宇宙だそうだが)。女性の周りには、雲(龍?)のようなものが辺りを一周して囲んでいる。よく見るとそれと一緒に花や鳥のような生き物も描かれているが、殆んど同じ色をしているため判別しにくい。タイトルにある白梅や椿、菊がどこにあるのかもよくわからない。全体的に曖昧模糊としているという印象が否めない。

 

本当に「何百年も前」の絵なのか?

 次に、この絵の描き方に注目していくことにしたい。叔母・芳山和子によるとこの絵は、何百年も前に描かれたとのことだが、実際に作品を見てみると、どう見てもここ最近に描かれた作品にしか見えない。数百年前に描かれたというのはどうもリアリティーに欠ける。

 実際の歴史に残る絵と比較してみよう。下に示したのは、今から120年ほど前に描かれた作品。日本画家の狩野芳崖(1828-1888)が死の直前に描き上げた≪悲母観音≫という絵だ。芳崖は、伝統的な日本絵画の技法と西洋絵画の技法を折衷させたやり方で描いている。

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 ≪悲母観音≫の幼児を包む球体の描写がわかりやすいと思うが、いくら西洋の画法を取り入れていると言ってもモノの輪郭線がはっきりした描き方をしている。それに対して≪白梅二椿菊図≫は、中央の女性や彼女を囲む雲のようなものは輪郭線がはっきりと描かれているものの、4つの青い球体は輪郭線があいまいであり、≪悲母観音≫の球体よりもはるかに立体感がある。

 ≪白梅二椿菊図≫の制作者の平田氏は、武蔵野美術大学油絵科出身である。球体の立体感は、油彩画的な技法に由来しているのだろう。

 4つの球体は、意味ありげなモチーフとしても際立っている。先ほどのインタビューによれば、これらの球体は宇宙のようなものとして描かれたらしいが、宇宙はまだ科学が発展していない時代においては宗教的な世界観をもとにして描かれるべきモチーフである。しかし、この4つの球体の描写にそういった宗教的世界観を感じ取ることは難しそうだ。むしろ、宗教的な意味というよりも、主人公がタイムリープする際に幻視するSFっぽいガジェットのようなイメージと近しいものになっているように思える。宇宙が複数存在するという点も、まるで主人公がさまざまな可能性の世界を駆け巡るこの映画のギミックを絵で図示しているかのようである。

 

おわりに

 以上、『時をかける少女』に登場する絵について見てきた。それらの絵は、キャラの設定や物語のギミックを象徴的にイメージさせる小道具として使われていると言えそうだ。絵画をオマージュした絵作りをするという形でアニメの中で引用するといったことはわりとよくあると思うが、直接絵画を登場させてそれぞれ物語と関連させるというのはなかなか大胆な試みだったのではないだろうか。

 しかし、同時に、実在する絵画はその解釈がのちに変更が加えられることもままあることなので、それがリスクになってしまうという問題もあるとわかった。まぁむしろ光源氏の下りはこの映画を下世話な話としても読めるという、それはそれで筋が通ってしまいそうな奇跡的な着地をしていて個人的には笑えたが。ともかく、物語上重要な意味を担わせるには、実在の絵よりも架空の絵のほうが安牌なのはたしかだろう。

 

*1:前田恭二「記者ノート・“時をかける絵”見ましたか」(読売新聞2006年8月31日)

*2:このあたりのことは『日本の美術』2月号(No.489)至文堂 (2007)の、二人の対談で語っているようだけど、私は確認してません。

*3:鷲頭桂「大画面形式の源氏物語図屏風の成立に関する一考察―いわゆる「隠岐配流図」(キンベル美術館蔵)を手かがりに―」http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~artist/gakkai2008/presentation/presentation10.pdf

*4:参考サイト 須磨観光協会 - 源氏物語と須磨 http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=9

*5:渋谷オールナイトのレポート(『時をかける少女』公式ブログ)(魚拓)https://web.archive.org/web/20080119210130/http://www.kadokawa.co.jp/blog/tokikake/2006/09/post_95.php

【考察】アニメ艦これ 敗戦のトラウマとの戦い

 

 艦これのテーマとは

 アニメ版艦これは、2015年1月から3月の間に全13話が放映された。ストーリーは、新たな艦娘として鎮守府に着任した主人公特型駆逐艦一番艦の吹雪が、深海棲艦とよばれる謎の生命体によって奪われた制海権を奪還するために、仲間とともにさまざまな試練を乗り越えていくというもので、最終話では史実で負けてしまったミッドウェー海戦に勝利を収めて終わりとなる。

 回を重ねていく毎に数々の要因が積み重なり、ファンから厳しい批判を受けたことは記憶に新しいが、それはひとまず置いておき、今回は原作であるブラウザーゲームとアニメ版艦これに共通するテーマについて考えてみたい。

 

敗戦のアイコンとしての原爆

 アニメ版は、敗戦という史実を回避する歴史改変ものとしての側面がゲームに比べてより強く感じられるものとなっている。艦これに限らず、太平洋戦争敗戦の記憶を色濃く反映した作品は、数多く存在している。

 現代美術家村上隆がキュレーションし、2005年にニューヨークで開催した「リトルボーイ」展では、日本のオタク文化を「父親たる戦勝国アメリカに去勢され温室でぬくぬくと肥えつづけた怠慢な子供としての日本と、そうした環境ゆえに派生した奇形文化」として紹介した*1 。オタク文化は、敗戦によって健全さを失った日本の特殊な環境から生まれた文化だというわけである。同展では、敗戦のトラウマの象徴として原爆という図像に着目し、アニメや漫画、特撮、またそれらに影響を受けたアート作品が展示された。

 『ゴジラ』(1954)、『ウルトラマン』(1966)、『宇宙戦艦ヤマト』(1974)、『タイムボカン』(1975)、『機動戦士ガンダム』(1979)、『AKIRA』(1982)、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)といった作品が敗戦を色濃く反映した作品として紹介されている。これらの作品には、核爆発を想起させる描写があるという共通点がある。

 アニメ版艦これにも核爆発を想起させるシーンが存在する。それはアニメ一話の冒頭、海に突如暗闇が広がり、爆発が起こった後、その中から深海棲艦が姿を現すといった一連のシーンだ。この爆発は、戦後にアメリカが行ったクロスロード作戦を彷彿とさせる。 第二次世界大戦後、初めて実行されたアメリカの核実験であり、敗戦によって接収された日本海軍の艦艇が標的となった。つまり、旧帝国海軍の艦艇が参加した最後の作戦であり、敗戦を象徴するこの作戦をアニメの始まりに位置付けていることになる。

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  爆発のシーンの後で登場するキャラクターは、ゲーム版の2013年春イベントで登場した「泊地棲姫」というボスキャラだ。 このイベントは、艦これ初のイベントであり、太平洋戦争の始まりである真珠湾攻撃をモチーフにしている。

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  この一連のシーンでは、戦争の終わりを告げるはずの爆発があらたな戦争の始まりにすり替えられている。この新たな戦争は、史実をフィクションの中で都合よく捻じ曲げるために用意された舞台というよりも、敗戦というトラウマを克服するための舞台と読み取るべきだろう。

 ところで、水爆によって未知の怪物が登場するというシチュエーションは、初代ゴジラに似ている。言うまでもないかもしれないが、ゴジラとは、海底深くで生き残っていた恐竜がアメリカによる水爆実験によって突然変異し、巨大な怪物となったモンスターであり、それが戦後復興し繁栄した東京を破壊する。ゴジラは戦没した人々の亡霊でもあり、復興の中で人々が忘れかけていた戦争の記憶をよみがえらせる怪談話なのだ。

 一方、深海棲艦は、必ずしも史実で日本の敵国であったアメリカの艦艇ではなく、設定が曖昧な存在として描かれる。その曖昧さゆえに、敵がアメリカの艦艇ではないとしたらなんなのか、といった想像の余地が残る。原作のゲームでは、深海棲艦が史実で沈んだ艦艇の怨念ではないかという解釈がある。明かにそのように解釈可能な敵キャラも存在しており、2014年の秋イベントに登場した駆逐棲鬼や2015年の冬イベントで登場した軽巡棲鬼などがそれにあたる*2 。深海棲艦もゴジラと同じように、敗戦の記憶を体現したオバケなのだ。

 

敗戦のトラウマとの戦い方

 先に述べたように、アニメでは最終的に、史実で負けるはずのミッドウェー海戦で勝利を収める。では、なぜアニメの最終話で艦娘たちは、勝利できたのだろうか。それは、艦娘たちを指揮する提督と主人公吹雪という二人の存在がカギになっているようだ。アニメに登場する提督は、監督インタビューによれば、原作ゲームと同様にプレイヤー自身であるという。

・提督の存在について。 
原作ゲームのプレイヤーであり、視聴者自身がアニメに登場する提督である、という捉え方をしている 。作品を見ている人が自身を投影できるように描いたつもりです*3

 これはつまり、提督は敗戦の事実を知る現代人(プレイヤー)の立場でアニメに登場しているということだろう。

 ここで一つ動画を紹介したい。

この動画では、提督の行動原理を考察している。劇中で描かれる提督の不可解な行動は、太平洋戦争の敗戦という史実を回避するためのものであり、提督が史実を知っていたと仮定すれば説明可能だという。そして、史実を回避する条件として、1.史実で起きた出来事の時間を意図的にずらすこと、2.史実を凌駕する圧倒的な物量を投入すること、があると考察している。これらの条件を合理的にクリアしていけば、史実は回避できるということだろう。しかし、この物語では一点だけイレギュラーな要素が存在する。それが主人公の吹雪だ。

  10話では、提督が吹雪を鎮守府に呼んだ理由が明かされた。提督はある夢を見て、それ実現させるために吹雪を呼んだというのだ。その際、提督が夢で見た光景としてウェディングドレス姿の吹雪が現代の東京にいる光景が写された。

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 原作ゲームには、プレイヤーが上限のレベル100になった任意の艦娘と結婚できる「ケッコンカッコカリ」というシステムがある。10話の夢のシーンは、提督が吹雪と「ケッコンカッコカリ」した後の光景だと想像できる。

 そしてこの光景は、戦後復興の象徴である東京タワーが遠目に見えることからもわかるように、現在の日本の姿と変わらない。東京タワーは、あくまで敗戦の事実は変わっていないことを示す役割を果たしているといえるだろう。やはり艦これは、敗戦という史実を改変する類のフィクションというよりも、敗戦というトラウマを克服することをテーマにした作品なのだ。そして、トラウマの克服に必要なのは愛する艦娘という精神的な支えであると示すことで、合理的に説明がつかない吹雪の存在が正当化されているのである。

 

 おわりに

 プレイヤーの艦娘への愛によって敗戦のトラウマを乗り越えようというのが艦これの根幹にあるテーマであるようだ。言い換えれば、艦娘の無償の愛によるプレイヤーの救済の物語なのだ。しかし、これはあまりにポルノ的な発想のように思える。それが艦これの限界であり、魅力なのかもしれない。という意味では、やはりオタク文化がいびつな文化であるという村上の指摘は、艦これにおいてもそのまま当てはまるのではないか。

  さて、これで物語全体を貫くテーマについての考察は終わったが、やはり最後にアニメに対していくつか批判をしてきたい。まず、アニメの一番の敗因は、敗戦という負の歴史と向き合おうなどというのがそもそも説教臭いものなのであり、そうしたコンセプトが先行しすぎていて、視聴者がついて来れていなかったことだろうと思う。

 また、劇中で姿が執拗なまでに映されない提督は、ある種の不気味さをまとってしまっている。まるで偶像崇拝を禁止しているどこぞの宗教のようだ。いるかどうかもよくわからない提督をひたすら信じる艦娘たちにも不気味さを抱いてしまい、視聴者はいったい誰に感情移入すればいいのかわからなくなっている。そんな彼女たちにボコボコにされる敵が可哀想ですらある。ようするにノイズが多すぎて物語に入っていけない。

  唯一艦娘たちだけで完結したカレー回が好評だったのは、艦娘たちの日常を描いたサービス回であったのと同時に、提督という存在が不要な回だったからだろう。多くのファンにとってはトラウマの克服なんてものはどうでもよく、そんなことよりかわいい艦娘たちが戯れているところを見て癒されたがっていたのである。

 オタク文化の文脈に作品が位置づけられることと、オタクに作品が支持されるかどうかはまったく別問題である。アニメ艦これは、前者だけを優先し後者をおろそかにしてしまったために失敗してしまった例ということになるだろう。

*1:リトルボーイ:爆発する日本のサブカルチャー・アート』

*2:艦これwiki敵艦船

*3:アニメージュ5月号