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語ることって大事

【漫画】『恋は雨上がりのように』 青色の雨ってほんとにあるのかな。【最終回】

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あなたは雨にぬれるのが好きですか?

 よく登場人物の心情を表すのに天候が利用されることがある。気持ちがモヤモヤしていれば曇りだったり、怒りが爆発すれば雷が落ちたりする、といった具合だ。『恋は雨上がりのように』(以下、『恋雨』)は、タイトルにもある「雨」を最大限に活用して、人物の心理的な変化や場面の出来事を象徴的に描いている。

 

告白は夕立ちのように

 あらすじ紹介にかえて、コミックス1巻の内容をざっと見ていこう。1巻が物語のプロローグとしてよくまとまっており、この作品のエッセンスが凝縮されている。なにより、緩急のつけ方、情報のだし方が絶妙なのだ。

 読者は、1話の冒頭から、高校2年生の少女 橘あきらの日常に、急に投げ出されたかのような感覚を覚える。あきらは、一見クールであまり感情を表に出さない。だが、そんな彼女がバイト先のファミレス店長 近藤正巳に恋をしていることが唐突にカミングアウトされる。それから、あきらが陸上部であったこと、右足を怪我してしまい部活に出れていないこと、今はバイトに打ち込んでいることなどがテンポよく描かれていく。

 つづく2話では、近藤の人物像が浮かび上がってくる。45歳、店長6年目、昇進の話はまだない。子持ちのバツイチ。円形脱毛症。そして、二言目には、ごめんね~とあっさり謝ってしまう情けない姿が示される。ここで誰もが思うだろう。あきらはこんなオッサンのどこがよいのだろうか、と。そんな疑問を抱きながら読み進めていくと、あきらが次々と大胆な行動を繰り出し、ついには近藤に告白までしてしまう。突然のことに当惑する近藤の心境を表すかのように、この場面は夕立ちである。

 なぜあきらは近藤に恋をしているのか。1巻の最後で、ようやくその答えが回想を通して明かされる。あきらにとって近藤は、怪我のせいで陸上を失い、落ち込んでいた自分を励ましてくれた存在であった(もちろん近藤に自覚はない)。ここでやっと、いままで謎の生き物にしか見えなかったあきらが、一途な思いを抱く17歳の少女であることがわかってくる。

 

ファミレスは羅生門のように

 この物語で重要な役割を果たすのが、芥川龍之介の『羅生門』だ。近藤は、盗人になろうと決心した下人を勇気ある人間だと評す。そして、店長が下人だったら盗人になるか、とあきらに問われ、自分にその勇気はないと答える。

 近藤は、あきらの告白を受け止められない。女子高生に手を出したなんて周りに知られたら、自分の立場が危うい。だがつきつめていけば、近藤自身にも原因がある。彼は自分を見下しているからだ。彼にも若い頃、文学という夢中になれるものがあった。だが、小説を書くことも、家族を幸せにすることもできず、今では周りにヘコヘコしながらファミレスの店長をしている。

  盗人になることができないまま、雨宿りをつづけていた近藤のもとに、忽然と現れたのがあきらであった。かくして、一見ふつうのファミレスが、二人の下人が雨宿りをする羅生門へと変貌する。

 

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物語の舞台となるファミレス「ガーデン」(アニメより)

 

恋は手品のように

  二人の出会いは、ファミレスであきらが雨宿りをしていたところ、近藤がサービスとしてコーヒーを出したとき。そして、このとき近藤が見せた手品をきっかけに、あきらは近藤に恋するようになった。

 この手品の場面は、最終回直前の81話で、近藤視点から再び描写された。近藤は、手品を練習してもなかなか成功できないでいたところに、あきらと出会い、そのときたまたま手品が成功したのであった。近藤は、手品におどろくあきらを見て、ほほ笑ましく思う。

 あきらに告白された近藤は、初めのうちは自分が一人の少女の心を動かしたことに戸惑いを隠せなかった。しかし、それは自分が文学を通して成し遂げたかったことだったと気づき始めていく。あきらの恋心が、夢を一度諦めた近藤を励ますことになったのである。

 たった一回の手品が、二人をまた夢に向かわせる勇気を生み出した。 この手品のシーンに、『恋雨』のコンセプトが集約されているように見える。『恋雨』は、手品によって二人の心が揺れ動いた瞬間を恋愛にスケールを広げることで、二人の情緒の微妙な変化を鮮やかに描き上げている。この作品自体が、17歳の少女と45歳の男の恋愛劇という手品なのだ。

  ところで、『恋雨』はそもそも少女漫画ではなく、青年漫画ということらしい。見た目は少女漫画なのでてっきりそうとばかり思っていたが、読むうちに近藤へ感情移入していったので、なるほど、と思った。これもある意味で手品だろう。コミックス1巻と物語の終盤では、物語の主役が見事に反転しているとすら思えるほど、いつの間にか近藤の描写に比重がよっていることに気づく。

 

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手品で出したのは苦みを和らげるミルクだった(コミックス8話より)

 

青さはグラデーションのように

 サカナクションの「Aoi」という曲がある。若さを抱き続けながら生きていこうと歌った曲だ。歌詞の中には、次のような一節がある。

  君はその若さを抱えては

  いつか通り過ぎて変わるだろう

  変わるだろう

  探すだろう

  その色は

  深い青

 

 時が過ぎて自分が変わったとしても、若さを探し続けるだろうと言っている。つまり、もう年歴的には若くない人間が、心の若さを追い求めているのである。

 この曲には「深い青」というキーワードが何度も登場する。一方、『恋は雨上がりのように』のイメージカラーは、「透き通った青色」だ。もちろん、どちらの青色も若さを表しているが、ニュアンスは大きく違っている。

 近藤とあきらには、年齢差というどうしても縮められない距離がある。それゆえに、二人の恋に対する意識は、明らかに異なっている。そして、ある作品を読んだときに感じるものや解釈の仕方も、大人の視点と若者の視点ではズレが生じてしまう。近藤にとって『羅生門』の下人は、夢を諦めて仕事や家族のために生きる勇気のある人間だが、あきらにとっては夢のために生きる勇気のある人間なのだ。

 あきらは、近藤の解釈に異を唱えてくれる存在として描かれる。近藤は、あきらの解釈を教えてもらったことで若さを取り戻し、また夢を追いかけ始めていく。あきらの青さが透き通っていて軽やかだとすれば、近藤の青さはおそらく重く深みのある色をしているのだろう。芥川の作品には、紺色の服を着た男がよく登場するのでそんなイメージかもしれない。

 

 

 

恋の行方は藪の中に

 黒澤明が監督した映画『羅生門』(1950)は、内容がタイトルとは打って変わり、芥川の別の作品『藪の中』を下敷きにしたものになっている。『藪の中』の筋書きは、藪の中で起きたある事件をめぐって、当事者たちがそれぞれ自分がこうあるべきだと思う「真実」を証言するため、事件の真相がわからなくなってしまった、というものだ。

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黒澤明羅生門』(1950)で使われたセット

 『恋雨』は、最終回直前の81話にて、二人がそれぞれの夢に向かっていくために距離を置くことが示唆され、二人の恋が成就しないことが、ほぼ確定した。そして、最終回の82話では、あきらが陸上に復帰して、大会で過去の自分に打ち勝つ姿が描かれて、物語は完結となった。しかしなんと、二人が恋心をどのように消化したのかまでは描かれず、しかも、二人のその後が示唆されることもなかった。考えようによっては、どうとでも言えてしまう結末になっていたのである。つまり、二人の恋の行方は、読者それぞれが解釈するしかなくなってしまった。

 では、私たちは、二人の恋の行方をどのように解釈したらよいのだろうか。それには、次の4つが可能性として挙げられる。

 

 1.二人ともまだ恋心を捨てていない

 2.近藤はもう恋を思い出にしたが、あきらはまだ恋心を捨てていない

 3.あきらはもう恋を思い出にしたが、近藤はまだ恋心を捨てていない

 4.二人とも恋を思い出にした

 

 この中から読者は、『藪の中』の登場人物たちのように、自分がこうあるべきだと思う選択肢を選ぶことができるだろう。こうして書き出してみると、二人の恋が成就する可能性があるのは1だけだ。どの選択肢にも可能性が同じだけあるとすれば、成就しない結末のほうが確率的に高いことになる。だからというわけではないが、私も将来的に二人の恋が成就するべきだとは思わない。そして、2,3,4の内、私がこうあってほしいと思う結末は3である。これが一番美しい結末だと思うからだ。

 

芸術は毒のように

 近藤の友人で小説家のちひろが、文学には毒が必要だと近藤に力説する場面がある。『恋雨』がちひろの言うような毒のある文学的な作品を目指しているならば、やはりあきらと近藤の恋は成就しないのだろう。

 最終回であきらは、過去の自分に向き合った末に勝利をつかんだ。その一方で、ファミレスの店長を続けながら、あきらのことを思い出す近藤の姿が対比的に描かれている。そして、陸上と文学という二人の夢も、ある意味で正反対なのだ。陸上においては、選手が精神的に安定していることが重要である一方で、文学においては、読む者の心を揺さぶることが作品の力となるからだ。

 近藤にとってあきらとの恋は、彼の人生の中でも衝撃的な出来事であった。それは、81話の「…今日のこと、俺きっと一生忘れないんだろうな。」という台詞によく表れている。そして、最終話では、あきらから貰った手紙をまだ読めていないと独白する。手紙に何が書いてあるのか、それを読んだ後に自分がどうなってしまうのかがわからず怖いのだろう。これは、近藤がまだあきらへの好意を捨てきれていない証拠でもある。

 リハビリを乗り越え、過去の自分とも対峙したあきらに比べて、最終回の近藤の姿はどこか感傷的な雰囲気を帯びている。しかし、近藤が恋を引きずっていたとしても、小説家を目指すぶんには、むしろプラスであるとさえ言えるのだ。最近、画家を目指している人のこんなブログを見つけた。


 このブログ主は、大学時代に鬱状態だったときのほうがいい絵が描けてしまっていたと言うのだ。

私がうつ病だった時、とある教授が私に言いました。

「棚村は病んでる方がいい絵描くよなぁ」と。

そこで私は自分で自分の首を締めてどんどん良い絵を描きました。

教授の言う通り、病んでいる時ほど良い絵が描けていたのです。

 近藤は、あきらとの恋によって心に負担を抱えてしまったと言える。そんな彼が向かうべき道は、自分の作品の中でこの体験を昇華させることだけだろう。

 

青色の雨ってほんとにあるのかな。

 『羅生門』の下人は、「洗いざらした紺の襖」を着ている。何度も洗濯して色が抜けた紺色の服という意味だ。雨に濡れれば、また元の色くらいには重い紺色に戻るはずだ。そして、その服が乾いたとき、紺色はもっと色が抜けて綺麗な青色になっているはずだと想像する。だとしたら、透明であるはずの雨が『恋雨』のイメージカラーの様な軽やかな青色だったと錯覚してもよいのではないか。これまで『羅生門』の雨と言えば、私の中では真黒な雲からそそざれる泥のような汚い色を想定していた。『恋雨』を読んだことで、そんな『羅生門』の薄暗い色を払拭して、鮮やかな印象で捉えなおすことができるようになった気がする。

 最終回の描写は、正直に言えばかなり淡泊な印象を受けた。これまで二人の内面的な変化を丹念に描いておきながら、最後は妙にさっぱりとしている。読者の多くは戸惑いを覚えたのではないだろうか。しかし、コミックス1巻を読み返せば、この物語の始めからそうであったことを思い出す。急に『恋雨』の世界に放り入れられたと思えば、突然その世界から投げ出され、まさしく通り雨のような作品だったように思える。

 

 

あとがきはすこしユル(イ)めに

 『恋雨』終っちゃったなぁ~。最終回、こざっぱりとしてるなぁ~。しかし、なにより驚いたのは、西田ユイが最終回に出てこないことだ・・・。私にとっては、本作のヒロインなんですけど!!!!そういうひともいるんですけど!!??

 と、つらい思いに耐えながらこの記事を書いたのですが、なんと最終巻のおまけで西田ユイについて描かれるかもしれないということで、大変楽しみにしております。

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本作の実質的なヒロイン かわいい

 アニメでは、まいんちゃんこと福原遥さんの声がベストマッチしており、西田ユイ役は地球上のどこを探してもこの人以外あり得ないであろうとすら思うレベル。控えめに言って最高です。

 

追記:最終巻読みました。最終話で店長の台詞に変更が入っていたのと、予告にあったおまけマンガを確認。ユイちゃんもしっかり登場していて満足です。

 

 あと、コメントありがとうございます。あまりもらう機会はないのでうれしいです。

 そうですね、私は『恋雨』で連想したのは、ブルーハーツの「月の爆撃機」です。やっぱりこの作品のカラーは青色だし、あきらと近藤が月に願い事をする場面と重なります。そして、なによりそれぞれの道を歩むことを決めた二人にぴったりかなと思いました。


月の爆撃機/THE BLUE HEARTS

 

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