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語ることって大事

【考察】社会派ドラマとして読む『ダンケルク』

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ネタバレあります。

 

はじめに

 つい最近、北野武監督がテレビに出て『アウトレイジ最終章』について語っていた。北野監督は、この映画で現代の企業で起こっていることとを比喩的に描いたという。つまり、ヤクザたちを企業の上役やその末端にいる人々に置き換えれば、そのまま社会派ドラマになるというわけだ。「あの野郎ぶち殺してやりたいですよ」「俺だって同じだ!!(パンパンッ)」というのは、少々過激な末端社員の愚痴なのだ。

 戦争映画も、往々にして社会風刺として読むことができる。たとえばアメリカによるナチス・ドイツへの戦略爆撃を描いた『頭上の敵機』が示すのは、上官がいかに部下をマネジメントし、最大の成果をあげるのかという中間管理職の至上命題だ。その中で上官は、部下を厳しく訓練し、成果をあげようとするが、死んでゆく部下への同情との間で葛藤してゆく。私たちの社会にありふれた見えない暴力を、戦争という舞台装置によって可視化しているのである。では、このような視点から『ダンケルク』を読んでいくとどうなるだろうか。

 

 戦争映画としての『ダンケルク』の特徴

 まずは、オーソドックスな読みをしていこう。この映画の舞台は、第2次大戦初期の1940年、ナチス・ドイツの進撃によってイギリスとフランスの両軍が追い詰められた、フランス沿岸部のダンケルク。その両軍をイギリス本土へ救出するために、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが指令し、実施された「ダイナモ作戦」を描いている。では戦争映画として『ダンケルク』をみたとき、どのような特徴があるのか。以下の4つをこれまでの戦争映画にない表現として挙げたい。

 

(1)人生賛歌

 この映画最大の特徴は、兵士たちが本国へ無事に帰るというただ一つの目的が達成されるさまを描いていることである。兵士たちが本国へ逃げ帰ってくるラストなど、これまでの戦争映画史にあっただろうか。なぜこのようなラストを描けたのか。それは、最後に盲目の老人が言った「生きてるだけで十分だ」というセリフに象徴的な、無条件の生への肯定にある。

(2)見えない敵

 次に印象的なのは、戦闘がまったくないという点だ。海岸で救助を待つ兵士たちは、敵機の爆撃や茂みの向こう側からの銃撃、どこからともなく発射される魚雷になすすべがない。敵の顔が一度もあらわにならないまま、一方的に攻撃され、逃げ惑うというこれまでにない戦争描写となっている。これらの攻撃がドイツ軍によるものであるということよりも、見えない敵であることが重要だったのではないだろうか。

(3)分断された視点

 物語の構造上の特徴は、この映画を語るときにまず説明される。『ダンケルク』は、時系列の異なる陸・海・空の3つの視点から描いており、それぞれの視点がラストへと収束してゆく構造となっている。そのため、今回の救出作戦が、異なった時系列から登場人物たちの視点を借りることで立体的に描かれることになる。しかし、当たり前であるが、登場人物たちの誰もが作戦の一面を見ているにすぎない。確かにこれまでの戦争映画が描いてきた兵士たちも、戦争の全体像など知り得ない。だが『ダンケルク』では、登場人物たちの戦争体験を分断することで、戦争の知りえなさを描き切っている。

(4)没個性的なキャラクターたち

 この映画に主人公と呼べるような人物は存在しない。どの登場人物も、言ってしまえばどこにでもいるような個人である。先に挙げた3点より地味な特徴だが、これが一番重要に思える。登場人物たちが没個性的であるほど、その延長線上に私たち自身を感じられるからである。これは次に詳しく述べていく。

 

社会派ドラマとして読む『ダンケルク

 そろそろ本題に入ろう。これらの特徴を現代社会の比喩としてみるとどうなるのか。

 

(4)

 まず、主人公の不在とキャラクターの没個性について考えてみよう。この映画の登場人物たちは、ただの「兵士」であり「民間人」という以上のなにものでもない、というような冷めた視線で描かれている。戦争映画にありがちな彼らの生い立ちなどの人間描写が極限までされていない。しかし、にもかかわらずリアリティーを感じられるのは、そのような視線が、人を数に還元する資本主義社会ではごく当たり前のものでもあるからではないだろうか。社会を構成する私たちをだだの「社会人」としか捉えられない冷めた現実が、この映画の冷めた視線によって暴露されているのだ。

(3)

 分断された視点は、誰も本当の意味で戦争を知り得ないことを表現していると先に述べた。「戦争の知りえなさ」、この「戦争」を「社会」に置き換えてもまったく差し支えない。誰もが社会の中で暮らし、社会を構成しているにもかかわらず、誰もそれを本当の意味では知り得ない。戦争や社会について、それがなんなのか一言で言いきる術を私たちは持っていない。

 しかし、ひとつの側面から語ることはできる。つい最近では、桂歌丸氏の「戦争を知らない政治家は戦争に触れるな」という発言が話題になった。氏の言う「戦争」とは戦争の悲惨さのことであり、「戦争を知る」とはその悲惨さを経験するということだと思われる。戦争に投げ込まれた人々が、なぜこのようなことになったのか知ることのないまま、その悲惨さと闘った経験。この映画で描かれているのも、同じだと思うのだ。では、社会の悲惨さとはなんだろうか。これは誰もが何かしら答えられるのではないだろうか。事故、犯罪、貧困、過労死、自殺etc…。テレビをつければいつもニュースでアナウンサーが読み上げている。最低限の共有可能な経験は、ネガティブなのか。

(2)

 見えない敵は、恐怖という概念そのものだ。劇中に起こる仲間割れは、恐怖への矛先を目の前の人間に向けざるを得なかった結果である。同様に、自己責任という言葉が平気で使われるようになってから、ただの「社会人」たちも見えない敵に恐怖し、お互いを非難し合っている。少し前に、NHKの番組が発端で議論になった相対的貧困問題も、現状を誰のせいにしていいのかわからない、そんな混乱から来るものではなかったか。

 映画では、軍の救助船が次々と沈没していく。なぜ劇中で救助に成功したのが軍艦ではなく民間船なのか。現代社会の比喩として考えてみようと思ったのもこの点が示唆的に思われたからだ。政治家や上司なんて結局なにもやってくれない、そんな諦めに対するメッセージがあるのでは、と。

(1)

 この映画では、人々を冷めた視線で突き放して描きながら、それでも彼らの人生を肯定している。冷めた現実からの逃走による、個人の自己の回復がこの映画のテーマなのだ。ブラック企業に勤めるのが嫌でたまらないのに、逃げる決心がつかない、なんてことをよく聞く。だが、この映画の民間船のように、助け船を出してあげようとする人たちもきっとどこかにいるのだ。そんな希望を『ダンケルク』は描いているように思える。

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おわりに

 生きているだけで十分だ、そうみんなが無条件に生を肯定した歴史的瞬間を、『ダンケルク』は現代に蘇らせた。なぜいまそうする必要があったのか。それは、現代を生きる我々の生を無条件に肯定してくれるような機会がないからだろう。

 また、これは製作者の意図からまったく外れるのだが、劇中で命を落とし、最後に英雄として語られた少年は、電通での過酷な労働で命を落とし、労働改革の機運の中でメディアに祀り上げられた女性を想起せずにはいられない。これもこの映画が現代の普遍的なテーマたり得ているからだと思う。

 自分のことを社畜だと思ってしまっているような人は、涙なしにはこの映画を観れないかもしれない。そして、逃げることを恥だと思っているそこのあなた、一緒に『ダンケルク』を見ましょう。

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