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語ることって大事

【考察】『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』死のメタファーを読むPart2【感想】

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 この記事は、後編になります。まだ前編を読んでない人は下からどうぞ。前編でも言いましたが、この記事は、ドラマ版、岩井版の小説、大根版の小説、アニメ映画版のネタバレがあります。

noumos.hatenablog.com

 

はじめに 

 いちおう、原作のドラマ版、岩井版の小説、大根版の小説、アニメ映画版の4つを、この一週間で見たり読んだりしまして、もう何がどんな話だったのかこんがらがってます。まるで典道みたいに、もしもの世界を繰り返して混乱しているような感覚が味わえるのでおすすめです。疲れますけど笑。

 

ドラマ版のメタファーPart2

 さて、前回の続きです。そもそも、ドラマ版の中にはメタファーじゃなくても死という言葉を直接含んだ台詞があります。それはなずなと典道が駅で電車を待っている場面で、典道が「かけおち」を二人で死ぬ行為だと勘違いする。そこでなずなが「それは心中でしょ」と突っ込むんですけど。典道はその突っ込みを聞いても「かけおち」の意味がわかってない。で、なんで典道がこんな勘違いをしたかというと、「かけおち」っていう言葉からなんとなく恐怖を感じ取ったからっていうのが、岩井版の小説では描写されてます。

 前回、「なずな」って名前の語源について触れたんで、じゃあ「かけおち」って言葉にも語源になんかあるんじゃないかと思って調べてみると、

相愛の男女が逃亡する意味で用いられるようになったのは江戸時代中期からで、もとは「欠落」と書いた。これは所属する組織から欠けて落ちることから、または失踪すると戸籍台帳から欠け落ちることからともいわれている。*1

「かけおち」は、江戸時代の行方不明者全般に使われてた言葉で、男女の逃亡という意味は後付けだったようです。その言葉の意味が分からなかったら、語感から読み取るしかないわけですけど、「かけおち」って語感はどう考えてもポジティブではないじゃないですか。なので、もともと社会からの脱落を意味した言葉に、典道が死を連想するほどの恐怖を覚えたっていうのはなんとなくわかるような気がする。けど、なずなにとってこれはごっこ遊びなので、見る側としては、ああーなんだ遊びか、っていうなんともいえぬ安堵感を覚える。緊張からの弛緩っていう流れの演出がうまいなーと思いますね。

 次に触れたいのは、終盤の夜のプールの場面。なずなは、夜のプールの水を墨汁みたいだと形容します。そのあと「なんか怖いよ」と台詞をつなげるんですが、怖いと言いながらも入水する。なずなの心理としては、スリルを求めての行動なんですが、それ以上に恐怖の先に自分の居場所を求めてるんだろうと思います。かけおちごっこもここじゃないどこかへ行きたいって願望から来てるわけで、墨汁みたいなプールの中にもどこか別の場所を見ようとしたんだろうと思うわけです。典道がなずなの姿を見失って動揺するのも、ほんとに彼女がどっかへ行っちゃったんじゃないかっていう不安からだろうと読める。その後のシーンでは、なずなが無事だとわかった典道もプールに飛び込んで一緒に水遊びを始めるんですが、岩井版の小説ではすこし違ってて、追いかけっこを始めるんですよ。典道は、もうなずなを失いたくないと思って本気で彼女を捕まえようとする。

 これまでドラマ版と岩井版の小説の内容を同列に語ってきましたけど、本来ならそれはできないかもしれない。なぜかっていうと、小説の方が彼らの不安だったり、どこかへ行ってしまう恐怖だったりをより強調して描いてるから。一番違ってるのは、小説では銀河鉄道の夜から引用しているところ。銀河鉄道の夜は、主人公のジョバンニがカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗って旅をするお話ですが、本当は死んでしまったカムパネルラとのお別れの物語です。これを引用するということが、ドラマ版よりも別れだったり死のイメージだったりを描く意図を明確に表してる。

 追記:ドラマ版の6年後に制作された『少年たちは花火を横から見たかった』という、当時の撮影を振り返るドキュメンタリーがあるんですが、そこで岩井監督がドラマ版の制作の際に、銀河鉄道の夜を参考にしたことを語っているみたいです。だとしたら、夜のプールのシーンは、お祭りの日にカムパネルラが川に溺れた友だちを助けて死んでしまう場面を意識してるって考えていいんだろうと思います。

 いろいろ書いてみて、あらめてこの映画を日本版スタンドバイミーだって言った理由を考えてみると、そういえばスタンドバイミーにもいろいろな形で死の恐怖が描かれてる。まあかなり物理的なものばかりですが、汽車に轢かれそうになったり、チ○コ噛みちぎる犬が出てきたり笑。そもそも旅の目的が死体を探すことだしね。

  

 アニメ映画版、総括

 やっと本題に入ろうと思います。いやーぶっ飛んでました。まずね、冒頭からわけがわからない。もう花火があがっちゃうんですよ。え?ドラマ版ではラストシーンでやっと見れたのに?すごくキレイだけどさあ!じゃあこれからこれ以上のことが起こるのかよ!って感じで勝手に盛り上がってました。しかも、普通の花火があがるのはほんとにこれっきりっていうね。

 ドラマ版のストーリーとの大きな違いは、もしもの世界を何度も繰り返すことと、ほんとに典道がなずなと電車に乗っちゃうところです。ふたりの逃避行を真っ正面から描いている。でもドラマ版では、ここじゃない別の場所っていうのが、死に近い恐怖だというふうに描かれていた。じゃあその先に行ってしまうこのアニメ映画版で、彼らは最後どうなっちゃうの!?そんなこと考えてたらハラハラドキドキが止まらない。それだけじゃなく、なずながとても色っぽいので、もうダブルパンチ。登場人物たちが中学一年生に変更されたり、シャフトらしい無機質な舞台空間だったりっていうのに関しては、はっきり言って好みの問題なので、何も言う事はないです。

 もしもの世界は、必ず何かの形が普通じゃなくなってて、それが繰り返されるからここはいったいどんな世界なんだっけと考えてるうちに、どんどん話が進んでいく。キーワードは「まる」と「平べったい」。でも、まさか先生の胸までいじるって、なんて微妙なセクハラギャグなんだって話だよ笑。

 いいなあと思ったのは、ドラマ版では不思議さばかりが目立ってたナズナが等身大の夢見る少女として描いたのと、あからさまに典道に向かって悪態をつく祐介をちゃんと描いてるところ。短めのドラマ版で描かれてなかった人間描写に満足。それと水の表現、反射が美しいし、しぶきのひとつひとつがいろんな可能性を写す多元宇宙みたいで、何度も見てると感覚が麻痺したトリップ状態。あまりにも執拗に水を写すもんだから、まるでタルコフスキーみたいだなあって思いながら見とれてた。

 

アニメ映画版のメタファー

 この記事を書くきっかけになったのは、この映画の至るところに死の臭いが漂っているように感じたからなんですが、まずこの映画の舞台は現代に設定されていて、3・11以後の話になってます。大根版だとそのことが言及されるんですが、アニメ映画版だとはっきりとはされません。けど、なんとなくそれを連想できるのがなずなの父親が溺死した姿が映されるところ。実は大根版とアニメ映画版って全然内容が違ってて、小説ではなずなが親父の死を知っていて、もしも玉が親父の贈り物として描かれるけど、映画では必ずしもそうじゃない。なずなは父親の死を知らないし、もしも玉は死体の横で一緒に浮かんでるものとしか説明されないんですよね。だから、もしも玉はある種の不穏なもののように見える。

 ラストシーンの解釈には、いろいろ議論があるみたいだけど、そのなかには典道があのとき海で溺れて死んでしまったんじゃないかっていうのがありますよね。僕も最初はそう思いました。ああ、典道はなずなの親父みたいにもしも玉を使って死んじまったんだって。要するに、典道がゲーテファウスト的な契約をして、自分の願いをもしもの世界で実現させてやるから、そのかわりお前の魂いただくよ!っていう感じ。

 ファウストは、悪魔メフィストフェレスとのそんな契約の話なんですが、悪魔の案内によっていろいろな享楽に耽ったあと、でも最後は自分以外の未来に希望を見いだして「時よ止まれ、おまえは美しい!」と言って死んでしまうっていう、悲劇でもあるけど壮大な人生讃歌でもあるいい話です。結局主人公のファウスト博士の魂は、愛人ゲレートヒェンの祈りに寄って天国へ迎えられます。このプロットのもとになったダンテの神曲にもベアトリーチェっていう女性が出てきて主人公のダンテを天国につれてってくれる。グレートヒェンとベアトリーチェはどっちも「永遠の女性」として描かれてるんですが、まさにこの映画では典道にとってのなずながそうですよね。

 まあ、こんな話をしたのは、クライマックスのもしも玉のかけらが飛び散るシーンが、神曲の最後で描かれる至高天に似てるなあって思ったからっていう、それだけなんですけどね。

f:id:noumos:20170827155737j:plainギュスターヴ・ドレ作

下のふたりは、ベアトリーチェとダンテ、上の円光は神様のいる至高天として描かれています。

 話は変わりますが、最後のシーンにふたりの影が写ってたそうです。全然見てなかった…。そんなのあった?まあともかく、このことが根拠になって、典道となずなが生きてて一緒にいるんだーとか、いやむしろ影なんだから死んでるんでしょとか、いろいろ言われてると思います(想像)。僕は物語や絵の中で影が出てくる場合、暗いニュアンスでとらえられるのが一般的かなーって思います。死はもちろん、不安や恐怖のための小道具として。けど影といえば、冒頭の花火と逆光になって真っ黒な電柱とか、黒文字でタイトルが写されるシーンとかすごく綺麗でしたよね。っていうふうにね、どう描かれてるかを見ないと意味はわからないので、見落としちゃった僕には何も言えないです、残念。もう一回見ようかな。

 

おわりに

 結局ふたりがどうなったのかって、いろいろ考えられるし、僕もこうして死のイメージっぽいものをいろいろ探して書いてみたけど、だからって典道は死にましたっていう結論にするつもりはないです。この記事書いてる途中ずっと考えてたけど、どっちでもいいっていうか、どちらでもないというか、今はそんなふうに思ってます。ほら、クラムボンだって結局何かわからないじゃないですか。あんな感じですよ。

 もう少し言うと、この映画で典道は、成長も挫折もしたっていうのは確かなので、最後どうなったのかを見せないってことは、観客に「あなたならどうしますか?」って投げられてるんだろうと。なので、自分はこう思うっていう解釈がその人の望む未来なんだろうなと思うわけです。だったら僕は、典道は死んでないよ!って言いたいですね。

 最後にね、ふたりのかげかーと思っていろいろ考えてたら、そういえばスガシカオの曲にそんなのなかったっけ?と思ってたらやっぱりありましたよ。聞いてみたらすごくいい曲だし、この映画にもなんとなく合ってるかなと思ったんで、ここで紹介しておきます。曲の始まりは1分13秒から。ハチクロのアニメで流れてた曲でしたね。


二人の影/スガシカオ

 

 ひさしぶりにこんな長い記事書いたんで結構疲れました。でも、楽しかったです。もう一回映画館に行って、ふたりのかげを見れたら、また更新するかもしれません。ではまた

*1:『由来・語源辞典』〈http://yain.jp/i/駆け落ち〉

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