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『時をかける少女』 ≪白梅ニ椿菊図≫について

 細田守監督の『時をかける少女』が地上波ということで、まぁ私は見ないんだけどずっと疑問に思っていた作中に出てくる作品≪白梅ニ椿菊図≫について記事に書いてみよう。

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 そもそも作品の題名≪白梅ニ椿菊図≫は、なんと読めばいいのだろうか。

 「白梅」は、「しらうめ」「はくばい」と読む。尾形光琳の≪紅白梅図屏風≫(こうはくばいずびょうぶ)や、呉春の≪白梅図屏風≫(はくばいずびょうぶ)などがあるから、「はくばい」と読むほうが一般的と言えるだろう。次に「ニ」は、これ漢数字ではなく、カタカナで表記されている。そして「椿」は、「つばき」「ちん」。「菊」は音読みの「きく」しかない。

 白梅、椿、菊と植物の名称が並列した題名なら「はくばいにつばききくず」、もしくは「はくばいにつばききくのず」と呼ぶのが順当であると思われる。ただ、どこに白梅や椿、菊が描かれているのかはあまり判別できないし、それらがメインモチーフであるとも思えないため、題名から作品の意図を読み取るどころか解釈に混乱を招いている。作者不詳ということであるから、この題名は後の人が付けたことが想像できるが、どこからこんな題名が出てきたのかは謎だ。

 画面に注目してみると、中心には女性が、その胸のあたりに四つの球体を抱擁するように描かれている。その球体は青色で、地球を連想させる点でどこかSF的に見える。女性の周りには、雲のようなものが辺りを一周して囲んでいる。よく見るとそれと一緒に花や鳥のような生き物もいるが、殆んど同じ色をしているため判別しにくい。

 ≪白梅ニ椿菊図≫は、劇中で未来人の千昭がこれを見るためにやってきたという設定で登場するのだから特に重要なもののはずだ。しかし、この作品に関する言及は、ほとんど成されず、登場する機会もほとんどない。唯一、素性が明かされるのは、この絵の修復を担当した主人公の叔母の以下の台詞である。

作者もわからない。美術的な価値があるかどうかも今のところはわからない。〔中略〕この絵が描かれたのは何百年も前の歴史的な大戦争と飢饉の時代。世界が終わろうとしてた時、どうしてこんな絵が描けたのかしらね。

ところが、実際に作品を見てみると、どう見てもここ最近に描かれた作品にしか考えられない。数百年前に描かれたというのはどうもリアリティーに欠けるのである。

 

 

 ≪白梅ニ椿菊図≫の表現に時代考証が伴っていないことを確認するために、実際に歴史に残る作品と比較してみたい。もちろん、時代考証が正確ではないことをもって批判する意図は、まったくない。狙いは、この作品の特殊性を浮き彫りにすること、と言えば仰々しいが、異質感を読み取っていくことにある。

 下に示したのは、今から120年ほど前に描かれた作品。日本画家の狩野芳崖(1828-1888)が死の直前に描き上げた≪悲母観音≫である。芳崖は、近代日本画家の先駆けとして歴史に位置付けられている。この作品は西洋絵画の技術を取り入れた、当時の最先端な表現で描かれている。

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 ≪悲母観音≫の幼児を包む球体を見てもらえればわかりやすいと思うのだが、いくら西洋の遠近法を取り入れたと言っても、モノの輪郭は線的で境界線がはっきりしていることがわかる。それに比べて、≪白梅二椿菊図≫の球体は、境界線があいまいであり、≪悲母観音≫での遠近法をさらに推し進めたもの、徹底したもののように見える。意地悪な言い方をするが、この作品は約百年前すらも遡ることが出来ないのである。先ほども言ったが、『時をかける少女』という映画において、この絵の時代的な正確さはどうでもよいのであって、重要なのはそこに込められた意味である。

 ≪白梅二椿菊図≫に描かれた女性の周囲を囲む雲のようなものを見てみると、こちらは球体とは異なって輪郭線がはっきりしているため描写に統一感がないように見える。時代考証云々というよりもビジュアルとして古めかしい雰囲気がこの作品にとって重要だったのではないかと思えてくる。

 

 

 以上、≪白梅二椿菊図≫の描写についてみてきた。これらのことから、この作品は、様々な時代の表現を混在させているという時代横断的な特徴があると言えそうだ。『時をかける少女』という作品が時間を横断するように、この絵も画面の中で時代を横断しているのだ。

 といったところで、この絵のSF的な要素が見えてきたように思うので、結論にしておく。

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