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マーニーとは誰だったのか? 『思い出のマーニー』の考察

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はじめに

 スタジオジブリ『仮ぐらしのアリエッティ』で初監督を務めた米林宏昌監督の最新作『思い出のマーニー』が公開された。この記事ではこの映画の内容を主にビジュアル面から読み解いたあと、それを踏まえつつマーニーの存在について考えていくことにする。

 『思い出のマーニー』の特徴は何と言ってもメインキャラクターの二人が女の子という点にある。彼女たちの人間模様はどことなく物憂げな雰囲気をまとっており、主人公杏奈の成長はヒロインのマーニーとの間で取り交わされる物静かなやりとりを通して描かれる。これまでのジブリのような壮大なスペクタクルはなく、それはたとえるなら少年漫画と少女漫画くらいの差があるように思える。

 

ジブリっぽいけどなんかちがう

 とはいえ、『思い出のマーニー』にはこれまでのジブリを意識したであろうシーンが随所にちりばめられているようにも見える。杏奈が体験する出来事は、なんとなくジブリっぽいところもあるけどなんだか違っている、そんな微妙な感覚が常につきまとう。さらに言えば、いくつか印象的なシーンを取り上げて比較してみると、そのビジュアルの類似に反して正反対なメッセージが含まれているようなのだ。

  たとえば、主人公が新しい地へとやってくるというのは、『千と千尋』の冒頭によく似ている。だが友達との別れを惜しみながら引っ越し先へ向かう千尋と、理解者の居ない鬱屈した現実から逃げ出すように田舎へ赴く杏奈とでは、新しい場所へ向かう動機がまったく異なっている。

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 杏奈が神社の階段を泣きながら駆け下るシーンは、『耳をすませば』のシーンと比較できそうだ。見比べてみると両者の差が残酷に思えるほどだ。夢らしい夢を抱けないことが原因で喧嘩をしてしまった杏奈と小説を書くという夢に胸を躍らせる月島雫では、まったく正反対な二人だし、それを象徴するかのように画面の明暗やアニメーションの躍動感も違っている。

 キャンバスに向き合うおばあさんというのは、『風立ちぬ』のポスターなどのメインビジュアルを想起した人も多いかもしれない。『風立ちぬ』のヒロイン・里見菜穂子は余命いくばくもない身でありながら人生の絶頂期を駆け抜けていくが、おばあさんは隠居生活を送っているようだ。やはりこのシーンでも画面は暗い。

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 『思い出のマーニー』 には男性がほとんど出てこないが、その中の数少ない一人がマーニーの父親だ。この湿っ地(しめっち)屋敷のパーティーのシーンは、『風立ちぬ』のシーンを意識しているように見える。『風立ちぬ』のカストルプは気さくで気立てのいい人物だが、マーニーの父親には冷徹さを感じる。顔に落ちた影、やや下に傾けた顔、控えめなほほ笑み、青みがかったスーツや背景の色味、ワイングラスの持ち方までが、この父親の人間模様を際立たせている。

 他にもボートで海を行ったり来たりというシーンや、気付いたら海が出来ているという場面は、『崖の上のポニョ』のようでも『千と千尋』のようでもある。近道の雑木林に入っていくシーンは、『となりのトトロ』を思わせる。しかし、この映画では雑木林の先に不思議な世界など広がっていないし、いつのまにか海が出来ていてもおもちゃの船を大きくしてくれる金魚の妖精も登場しない。人々が胸を躍らせたくなるようなファンタジーの世界をこの映画はあえて拒否しているかのようだ。

 それに各シーンでは、過去のジブリ映画よりも色の彩度がかなり落とされており、なるべく強調的なアングルを使わないように配慮がなされていることがわかる。このようにダイナミックさを抑える米林監督の演出も宮崎駿の世界に対する意識的な差別化と言えるだろう。そうした意識は、米林監督の次のような発言にも垣間見えている。

僕は宮崎さんのように、この映画1本で世界を変えようなんて思ってはいません。ただ、『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』の両巨匠の後に、もう一度、子どものためのスタジオジブリ作品をつくりたい。この映画を見に来てくれる『杏奈』や『マーニー』の横に座り、そっと寄りそうような映画を、僕は作りたいと思っています*1

 

マーニーとは誰だったのか

 しかし、壮大な世界観を拒否するこの映画の中にもたったひとつだけマーニーというファンタジー要素が存在する。では、マーニーとはいったいどのような人物なのだろうか。

 マーニーは、杏奈の実の祖母であったことが映画の終盤に明かされ、それが表向きの結論となっている。しかし、杏奈が何度も劇中で出合ったマーニーは、実在する祖母本人ではない。杏奈が幼少期に祖母から聞かされていた思い出話の登場人物である(すこしややこしいが)。

 終盤では、祖母が決して幸せな人生を送ってはいなかったことも明かされる。物語の前半では、マーニーは明るくて杏奈をやさしく包み込んでくれる存在として描かれていた。しかし実際は、屋敷でいじめられ両親からも愛されずに育った可哀想な子であり、しかもそれに追い打ちをかけるように娘(杏奈の母)とうまく関係を築けないまま死なれてしまう。祖母の人生は、杏奈が出会ったマーニーの姿と比べるとかなりギャップを感じる。

 このギャップが生まれた原因は、祖母が杏奈に語った思い出が楽しく幸せに満ち溢れたものだったからだろう。それを示唆するかのように、終盤の回想シーンには祖母が楽しそうに幼少の杏奈に思い出を語って聞かせる場面がある。杏奈の記憶の中ではマーニーはたしかに明るく魅力的な女の子だったのだ。

 この祖母の思い出話のもう一人の登場人物は、杏奈の祖父となる和彦である。彼がマーニーと結ばれるというのがこの物語の筋書きである。つまり、『思い出のマーニー』は、祖母が語って聞かせてくれた物語に杏奈がのめり込んでいくさまを描いた映画なのだ。

 杏奈が体験する没入感は、彼女自身が物語の舞台となった湿っ地(しめっち)屋敷に実際に居合わせることがトリガーとなっている。これは小説や映画、アニメのファンたちが作品の舞台となった聖地を巡礼し、現地で体験する臨場感に近い。

 ただ、杏奈の没入はかなり病的で命の危険すら感じられる。夢遊病者のようにさまよった末に茂みに倒れていたとでもいうような描写はいささか唐突で不可思議な印象が否めなかった(そこまで深刻ならそれなりの対処というものがあるのではないか)。一応の解釈として、杏奈にとってこの物語は追い詰められた先にあった駆け込み寺のようなものであり、そこに没入できるかできないかはより深刻で差し迫った問題なのだというように描かれているようだ。

 米林監督に『思い出のマーニー』の映画化を持ち掛けた鈴木敏夫は、この映画のテーマを「孤独」と総括している。

「今回、僕らが作っている『思い出のマーニー』もそれ〔孤独〕がテーマになっている」 “孤独”というテーマについて、「いろいろやってきているうちにそうなっちゃった。世の中が変わって、映画やテレビは大勢や家族で見るものだったけれど、今ネットは個人でするものになっている。技術革新によって人々の暮らしが変わって、そんな時代に彼の映画は意味を持つと思う」*2

 現代の子どもたちに寄り添っているもの、それは家族でも友達でもなく物語であるという点にこの映画のテーマがあると鈴木は考えていることがわかる。

 この映画では、子どもが大人になる過程においてその物語から卒業を果たさなければならないという現実が、杏奈の葛藤として描かれている。たとえいくら物語に没入できたとしても、サイロにマーニーと一緒に行くのは自分ではなく和彦なのだということが杏奈には受け入れ難い。必ずしも物語が自分に寄り添い続けてくれるとは限らないことに気づいたとき、杏奈はマーニーに裏切られた気持ちになるのだ。しかし、それでも最後には、マーニーを許し、この物語を愛し続けるという結論を導き出す。それがこの映画で描かれる杏奈の成長である。つまりマーニーとは擬人化された物語なのだ。

 

夢ではなくて思い出として

 『思い出のマーニー』は、子どもたちが夢を見ていずれ卒業する、その成長の過程に焦点を当てている。これと似たような構造の物語に『オズの魔法使い』がある。『オズの魔法使い』は、ドロシーという少女が竜巻に飛ばされてオズの国へ行き、大冒険を繰り広げて最後にまた家に戻ってくるというストーリーである。ドロシーははじめ、家を出ていきたいと思っていたが、オズの国へ行くとだんだん家へ戻りたいと思いを募らせるようになり、家に戻ってくるとやっぱり家が一番だと安堵する。これを少女がオズの国という夢から卒業し、家という現実を直視するようになる成長のお話と見ることができる。

 

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 『思い出のマーニー』と『オズの魔法使い』は、基本的なストーリーの構造が同じである。しかし、杏奈がドロシーと違うのは、マーニーの物語に留まりたいと願いながらも追いやられてしまう点だ。夢を手放しがたいもの、手放すには苦痛が伴うものとして描かれている。

 では、現実から逃げたいと願った杏奈にとってマーニーの物語とはただの夢だったのだろうか。そうではないだろう。『思い出のマーニー』は、その題名の通りマーニーとの間に起きた出来事を思い出として捉えている。マーニーをオズの国のように過ぎ去ってしまう夢として捉えるのでなく、自分を形作っている思い出として受け止めることで成長する姿が描かれているのだ。

 この映画は、アニメや漫画に熱中する今時の若者たちが、マーニーという物語にのめり込む杏奈の姿に自分を重ね、自分にとってかけがえのない作品たちとの関係を改めて認識するように促しているように思える。

 

ポスターの意味

 

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 米林監督は、杏奈というキャラクターを作るきっかけを以下のように述べている。

でも、鈴木さんからぜひやってくれないかと言われて、何点か絵を描きながら思いついたのが、杏奈を"絵を描く女の子"にすればどうかということ。そうすれば、杏奈が物を見ている目で、杏奈の心の中を描けるんじゃないかと思い、映画を作ろうと決意しました*3

杏奈がマーニーの絵を描くこと、つまり自分の好きな作品のキャラクターを描くことは、最近のアニメや漫画の二次創作に見られるように現実でも行われていることだ。

 そこで上に示したポスターの意味を考えてみよう。この手書きのポスターは、マーニーしか画面に配置されていない。だが、マーニーの視線の先には杏奈がいることが示唆されている。さらに踏み込んで、これを杏奈が描いた絵として解釈するなら、「あなたのことが大すき」という言葉は一見してこちらを見つめるマーニーから発せられたように見えるが、杏奈がこの絵を描く際に込めた思いと考えたほうがしっくりくる。 

 

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 もうひとつのアニメ調のポスターに書かれている「あの入江で、わたしはあなたを待っている。永久に——。」というフレーズは、マーニーの言葉と捉えるのが自然だろう。ふたりの気持ちが通っているようでもあるし、お互いの流れている時間が異なっているような不思議な感じもする。

 マーニーを物語の寓意として捉えるならば、「永久に」という言葉の意味もおのずとみえてくる。人から人へと受け継がれていく物語は、時間を超越している。だから、マーニーに会おうと思えばいつでも会いに行くことができるのだ。

 誰しも杏奈にとってのマーニーのような、思い出深いお気に入りの作品があるのではないだろうか。ひょっとしてそれは、引っ越しや大掃除のときについついめくってしまうマンガであったり、実家に帰省した時に懐かしくなりながら手に取る小説だったりするのかもしれない。

 

*1:映画.com速報「米林宏昌監督「思い出のマーニー」にかける並々ならぬ思い」2014/4/16〈http://eiga.com/news/20140416/2/

*2:ORICON STYLEジブリ思い出のマーニー』、テーマは「孤独」鈴木P明かす」2014/5/29〈http://www.oricon.co.jp/news/2037982/full/

*3:マイナビニュース「(米林監督) ジブリ最新作『思い出のマーニー』宮崎・高畑両氏も絶賛、新生ジブリ作品の魅力」2014/7/3〈 http://news.mynavi.jp/articles/2014/07/03/marnie/