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語ることって大事

【考察・解説】『思い出のマーニー』マーニーとは誰だったのか【批評】

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思い出のマーニー」を考える

思い出のマーニー」を見てきた。同時期に公開している「アナと雪の女王」とかぶってるなんてことも言われているが、私はアナ雪は見てないので何とも言えない(追記:見たけど全然似てなかったね)。しかしまあこの映画は地味だね。しようがないくらい地味で宮崎映画のようなカタルシスはない。そして、米林宏昌監督に次があるのかは正直微妙だ。ジブリ解散説も浮上しているし、おそらくないんじゃないかな…。まあそんなことは置いておいて、この映画体験はなんだったのか、その答えを求めて「思い出のマーニー」について考えていこうと思う。

 

 劇中では、これまでのジブリ映画を意識していることが伺えるシーンが随所にちりばめられている。ところどころにそれらを彷彿とさせるシーンが含まれているのだ。

 

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 「風立ちぬ」を見た方はすでに気づいているかもしれないが、「風立ちぬ」のポスターにもなった里見菜穂子がキャンバスに向かっているシーン。それと劇中に登場する絵を描くおばあさんのシーン。このシーンは気にかかった人も多いだろう。 人生の絶頂期とも呼べる時期を過ごす里見菜穂子と、年を取り隠居生活を送っているかのようなおばあさん。両者の対比が際立っている。

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  そして、田舎に休暇を過ごしに来るというのは、「おもいでぽろぽろ」の設定にも似ているし、冒頭の車が荷物でごった返すのは「千と千尋」の冒頭のシーンによく似ている。友達との別れを惜しみながら新しい引っ越し先にやってきた千尋と、理解者の居ない鬱屈した現実から逃げ出すように田舎へやってきた杏奈。この両者の新しい場所へやってくる動機が対比されている。 

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 階段を駆け下るシーンは「耳をすませば」のシーンと似ていることがわかると思う。 見比べてみると両者の差がとても残酷に見える。 夢を抱く少女と、夢らしい夢を抱けない少女との対比となっている。

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 湿っ地(しめっち)屋敷のパーティーのシーンは、明らかに風立ちぬのシーンを意識していることがわかるだろう。風立ちぬカストルプは気さくな人間であるが、マーニーの父親には冷徹さを感じる。

 他にもボートで海を行ったり来たりというシーンや、気付いたら海が出来ているという場面は、「崖の上のポニョ」のようでも「千と千尋」のようでもある。近道の雑木林に入っていくシーンは、「となりのトトロ」を思わせる。しかし、この先に何かがありそうな近道を行くとなんにもないし、いつのまにか海が出来ていてもおもちゃの船を大きくしてくれる金魚もいない。杏奈は、これまでのジブリ映画のような壮大なスペクタクルに巻き込まれることもないのだ。

 注目すべきなのは、「思い出のマーニー」では、これまでのジブリ作品を意識したと思われるシーンと、位置も方向も、そして意味合いも全く逆になっていることだ。これには、理想とは正反対の現実を描く意図が見て取れる。この映画では、今までのジブリ映画を現代の子どもの経験に当てはめようとしている。それも、リアリティーを逸脱しない微妙なラインでこの追体験が行われている。空も飛ばなければ、動物も登場しないのは、それが現代の子どもにとってのリアリティーではないからだ。 米林監督は、映画一本で世界を変えようなんて思っていないと述べている。

僕は宮崎さんのように、この映画1本で世界を変えようなんて思ってはいません。ただ、『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』の両巨匠の後に、もう一度、子どものためのスタジオジブリ作品をつくりたい。この映画を見に来てくれる『杏奈』や『マーニー』の横に座り、そっと寄りそうような映画を、僕は作りたいと思っています*1

これまでのジブリ映画のような壮大な世界観を構築しようとはそもそも考えておらず、むしろ残酷ですらある現実を意図的に描いている。この映画では、見に来てくれる子どもたちにとっての現実を描こうとしているのだと考えられる。本作の美術監督をいままで実写映画の美術をやってきた種田陽平に任せ、ある意味異常なまでのリアリティーを追及しているのはこのような意図があったからだろう。なるべく強調的なアングルを使わないように配慮がなされているのが上の画像からもわかるし、色彩の明度をかなり落としていることもおそらく意識的にやっているものと思われる。これまでのジブリ映画を現代の子どもの象徴としての杏奈に追体験させることは、ファンタジーと現代の子どもの現実との対比として機能している。

 

マーニーと宮崎駿の二面性 マーニー=宮崎駿

 ここで宮崎駿をやり玉に挙げるのは、強引かと思われるだろうが、米林監督にとって宮崎駿は「アリエッティ」の監督に自身を抜擢した人物であり、アニメ業界へ入るきっかけを与えた偉大な存在である。また、先に指摘したように、この映画自体がこれまでのジブリ映画を意識していることからすれば、ジブリを作り上げた宮崎駿への意識も当然あるだろう。

 マーニーという人物像は、二つの側面を持っている。 というのは、主人公が出会う理想的なマーニーと、物語の終盤におばあさんから語られる、実際は家族とうまくいっていなかったマーニー、二つの側面に分けることが出来るということだ。 実際のマーニーは家族とうまくいっていない。その描写には、マーニーが特に娘とうまくいっていない描写が強調されている。そして、その理由は、マーニーが娘を自分の手で育てなかったからだと説明されている。

 同じように宮崎駿にも、一般の人が宮崎映画を見て抱いている理想的な人物像と、実際の人物像という二面性がある。実際、宮崎駿も家族、特に息子の宮崎吾郎とはうまくいっていない。宮崎駿宮崎吾郎より仕事を優先して、あまり関わりを持たなかった。これは宮崎吾郎自身が語っている*2*3

 理想的なマーニーは、主人公に夢の中でその名の通り夢のような体験をさせてくれる。これを宮崎映画だと考えてみよう。私達が宮崎駿の映画を見ることは、杏奈がマーニーと夢の中で出会うことと同じ作用をもたらしていると言えなくはないだろうか。見ているうちは夢のような思いをできるが、現実に戻るとそれこそ杏奈が直面していたような現実に戻るわけだ。そして、次回作はいつやるのかと、期待を寄せるのである。

 

杏奈=米林監督の図式

 主人公の杏奈は、劇中の中盤にマーニー、そして湿っ地(しめっち)屋敷をスケッチブックに描く。 そのとき登場するおばあさんに、あの家は好きか、と聞かれて杏奈は好きだと答える。しかし、おばあさんから屋敷はまもなく建て替わると明かされる。おばあさんはだからこの絵を早く描き終えなければ、と言う。この場面は、なんだか思わせぶりだ。

 ここからさらに、マーニー=宮崎駿という図式更に展開させて、この映画と米林監督の周辺事情と対応させてみよう。湿っ地(しめっち)屋敷をスタジオジブリに置き換え、杏奈を米林監督に、このマーニーの素顔を知る事情通のおばあさんをプロデューサーである鈴木敏夫に置き換えてみるのも面白い。杏奈がマーニーの家を訪れると、さやかに「あなたがマーニーなのか?」と聞かれて杏奈は驚く。このセリフを「あなたが宮崎駿なのか?」というセリフ言い換えてみてもいいだろう。つまり、宮崎駿の後継者問題として捉えてみてもいい。さやかにこれを問われたとき、なぜか杏奈は回答を保留する。杏奈はマーニーの日記を読んだ後でこれを否定することになるが、その過程がまた思わせぶりだ。米林監督(杏奈)がジブリにとっての宮崎駿のような存在ではないと確認する過程、という個人的な問題を物語に対応させたと受け取ることもできる。監督自身の思いを登場人物に投影するのは映画の常套手段である。(千と千尋の窯じいや紅のポルコを思い浮かべてみよう(笑))

 そう考えると、屋敷でのパーティーで花売りをするシーンはとても意味深に見えてくる。あの花はムシャリンドウだそうだが、それをマーニーから手渡され、杏奈は花売りをさせられた。そうしたら、大人たちがにこやかに、しかし恐ろしく、札を差し出しながら杏奈の周りを取り囲むのだ。これは、米林監督が宮崎駿に「借りぐらしのアリエッティ」を任されたときのことを言っている、というのは考えすぎだろうか。

 監督は、この映画を作るに当たって、脱宮崎を宣言している。

宮崎さんがどう思うか。スタジオジブリがこれからどうあらねばならないか。 そういうところは意識せずにつくりました*4

これは、ジブリがこれからどうあらねばならないのかではなく、いままでジブリとは、そして宮崎駿とは米林監督自身にとってどんなものだったのか、それを踏まえてこれからいかに生きていくのか、という非常に個人的なテーマがあったということだろう。

  

思い出のマーニー」のテーマ マーニーとは誰なのか

 では、この映画で鑑賞者に向けられたメッセージとはなんだったのか。 米林監督の目指した「子どものためのスタジオジブリ作品」とはどのようなものなのだろうか。

 この映画では先に述べたこれまでのジブリ映画と若者の子どもとの対比によって、鑑賞者が直面する現実を描いている。その中にひとつだけマーニーというファンタジー要素を挿入している。それによってマーニーという存在の異質感を際立っている。マーニーという存在に、米林監督は個人的に思い入れのある宮崎駿という存在を当てはめるように、鑑賞者は自分にとってのなかけがえのない作品たちを当てはめることができる。そして、マーニーに見られる二面性は、その作品がかけがえのないものであると同時に、架空の物語であるという残酷さを表している。サイロにマーニーと一緒に行くのは、杏奈ではなく和彦なのだ。

 このことから見えてくるのは、現代の子どもにそっと寄り添ってくれるもの、それは、自分にとってかけがえのない作品たちであるという主張であり、それらは大人になる過程においてだんだんと卒業を果たさなければいけないものたちであるという主張である。

 これが鈴木敏夫の言う「思い出のマーニ―」のテーマ「孤独」に繋がっている。

「今回、僕らが作っている『思い出のマーニー』もそれ〔孤独:筆者注〕がテーマになっている」 “孤独”というテーマについて、「いろいろやってきているうちにそうなっちゃった。世の中が変わって、映画やテレビは大勢や家族で見るものだったけれど、今ネットは個人でするものになっている。技術革新によって人々の暮らしが変わって、そんな時代に彼の映画は意味を持つと思う」*5

 現代に蔓延する「孤独」に癒してくれるもの、それは家族でも友達でもなく、物語である。しかし、それは必ずしも寄り添い続けてくれるものとは限らない。それに気づいたとき、杏奈は裏切られた気持ちになるが、最後にはそれでもマーニーを、この物語を愛し続ける、という結論を導き出す。それが終盤のボートの上で、無口なおじさんとさやかと杏奈の三人で語り合い、今度の夏休みもここに戻ってくると約束するシーンへと繋がっていく。杏奈は、マーニ-という体験を通して、現実を再認識することができたのである。

 

ポスターに込められた意味

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 杏奈がマーニーの絵を描くこと、つまり自分の好きな作品を描くことは、最近のアニメーションや漫画の二次創作に見られるように、身近で行われていることだ。そこで、上に示したポスターの意味を考えてみよう。 このポスターは、マーニーしか画面に配置されていない。そして、下に示したもう一つのポスターは、セル画であるのに対して、このポスターが手書きである。このポスターのマーニーは杏奈が描いたものなのだとしたら、という仮定は、杏奈が絵を描くことが好きなキャラクターとして描かれていることからいえば不自然ではないだろう。米林監督は、杏奈というキャラクターを作るきっかけを以下のように述べている。

でも、鈴木さんからぜひやってくれないかと言われて、何点か絵を描きながら思いついたのが、杏奈を"絵を描く女の子"にすればどうかということ。そうすれば、杏奈が物を見ている目で、杏奈の心の中を描けるんじゃないかと思い、映画を作ろうと決意しました*6

「あなたのことが大すき」という言葉は、一見マーニーから発せられた言葉のようにも見えるが、この絵を描いた杏奈の言葉と考えたほうがしっくりくる。 

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 このことを踏まえれば、セル画のポスターに書かれている言葉、「あの入江で、わたしはあなたを待っている。永久に――。」は、マーニーの言葉として受け取ることができる。マーニーを物語として捉えるなら、「永久に」という言葉の意味もおのずと見えてくる。物語は人々によって引き継がれていく。おそらく、杏奈が死んだ後もそうだろう。本を開けばいつでも会える。「永久に」というフレーズは、そんな安心感を与えてくれる。

 劇中で繰り返される、入江を船で往復する行為は、向こう側、つまり黄泉の世界を暗示している。この暗示は、死を超越した存在である「物語=マーニー」に触れる、その体験を可視化しているように思える。この世とあの世との越境は、ある意味で不気味さを伴うにしても、その描写は私たちを優しく包み込むような童話的な美しさにあふれている。

 

おわりに

 「思い出のマーニー」は、子どもたちが夢を見て、いずれ卒業する、その成長の過程に焦点を当てている。これと似たような構造の物語に「オズの魔法使い」がある。「オズの魔法使い」は、ドロシーという少女が竜巻に飛ばされてオズの国へ行き、大冒険を繰り広げて、最後にまた家に戻ってくるというストーリーである。ドロシーははじめ、家を出ていきたいと思っていたが、オズの国へ行くと、だんだん家へ戻りたいと思いを募らせるようになり、家に戻ってくると、やっぱり家が一番だと安堵する。これを少女がオズの国という「夢」から卒業し、家という「現実」を直視するようになる成長のお話と見ることができる。

 「思い出のマーニー」と「オズの魔法使い」は、ストーリーにおいて基本的に同じ構造である。しかし、杏奈がドロシーと違うのは、オズの国(夢)に留まりたいと願いながらも追いやられてしまう点だ。この映画では、「夢」が手放しがたいもの、手放すには苦痛が伴うものとして描かれている。そこにこの映画の時代性が見出される。

 では、マーニーとは、現実から逃げたいと願い、自分の居場所を物語に求めた現代の若者のただの「夢」だったのか、といえばそうではない。「思い出のマーニー」は、その題名の通り、マーニーを「思い出」として捉えている。マーニーをオズの国のように過ぎ去ってしまう「夢」として捉えるのでなく、自分を形作っている「思い出」として受け止めることで成長する姿が描かれているのである。

 劇中で語られるマーニーと杏奈が祖母と孫の関係だったという事実は、時として不可解なものとして受け止められてしまうが、肯定的に見るならこれは精神的なものとして捉えるべきだろう。私達の一部を、この「思い出」たちが形作ってくれているのだと。

 

*1:映画.com速報、2014年4月16日、米林宏昌監督「思い出のマーニー」にかける並々ならぬ思い、http://eiga.com/news/20140416/2/

*2:ゲド戦記監督日誌、 2006年2月22日、第三十九回 父としては0点、監督としては満点、http://www.ghibli.jp/ged_02/20director/000314.html

*3:ゲド戦記監督日誌、2006年2月24日、第四十一回 作品だけが父を知る手段だった、http://www.ghibli.jp/ged_02/20director/000318.html

*4:デイリースポーツ、7月15日(火)、ジブリ最新作は“脱宮崎” 宮崎駿監督の意向を“無視”!?、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140715-00000059-dal-ent

*5:ORICON STYLE、05月29日、ジブリ思い出のマーニー』、テーマは「孤独」鈴木P明かす、http://www.oricon.co.jp/news/2037982/full/

*6:マイナビニュース、2014/07/03、(米林監督) ジブリ最新作『思い出のマーニー』宮崎・高畑両氏も絶賛、新生ジブリ作品の魅力、 http://news.mynavi.jp/articles/2014/07/03/marnie/

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