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【考察】アニメ艦これ 敗戦のトラウマとの戦い

 

 艦これのテーマとは

 アニメ版艦これは、2015年1月から3月の間に全13話が放映された。ストーリーは、新たな艦娘として鎮守府に着任した主人公特型駆逐艦一番艦の吹雪が、深海棲艦とよばれる謎の生命体によって奪われた制海権を奪還するために、仲間とともにさまざまな試練を乗り越えていくというもので、最終話では史実で負けてしまったミッドウェー海戦に勝利を収めて終わりとなる。

 回を重ねていく毎に数々の要因が積み重なり、ファンから厳しい批判を受けたことは記憶に新しいが、それはひとまず置いておき、今回は原作であるブラウザーゲームとアニメ版艦これに共通するテーマについて考えてみたい。

 

敗戦のアイコンとしての原爆

 アニメ版は、敗戦という史実を回避する歴史改変ものとしての側面がゲームに比べてより強く感じられるものとなっている。艦これに限らず、太平洋戦争敗戦の記憶を色濃く反映した作品は、数多く存在している。

 現代美術家村上隆がキュレーションし、2005年にニューヨークで開催した「リトルボーイ」展では、日本のオタク文化を「父親たる戦勝国アメリカに去勢され温室でぬくぬくと肥えつづけた怠慢な子供としての日本と、そうした環境ゆえに派生した奇形文化」として紹介した*1 。オタク文化は、敗戦によって健全さを失った日本の特殊な環境から生まれた文化だというわけである。同展では、敗戦のトラウマの象徴として原爆という図像に着目し、アニメや漫画、特撮、またそれらに影響を受けたアート作品が展示された。

 『ゴジラ』(1954)、『ウルトラマン』(1966)、『宇宙戦艦ヤマト』(1974)、『タイムボカン』(1975)、『機動戦士ガンダム』(1979)、『AKIRA』(1982)、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)といった作品が敗戦を色濃く反映した作品として紹介されている。これらの作品には、核爆発を想起させる描写があるという共通点がある。

 アニメ版艦これにも核爆発を想起させるシーンが存在する。それはアニメ一話の冒頭、海に突如暗闇が広がり、爆発が起こった後、その中から深海棲艦が姿を現すといった一連のシーンだ。この爆発は、戦後にアメリカが行ったクロスロード作戦を彷彿とさせる。 第二次世界大戦後、初めて実行されたアメリカの核実験であり、敗戦によって接収された日本海軍の艦艇が標的となった。つまり、旧帝国海軍の艦艇が参加した最後の作戦であり、敗戦を象徴するこの作戦をアニメの始まりに位置付けていることになる。

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  爆発のシーンの後で登場するキャラクターは、ゲーム版の2013年春イベントで登場した「泊地棲姫」というボスキャラだ。 このイベントは、艦これ初のイベントであり、太平洋戦争の始まりである真珠湾攻撃をモチーフにしている。

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  この一連のシーンでは、戦争の終わりを告げるはずの爆発があらたな戦争の始まりにすり替えられている。この新たな戦争は、史実をフィクションの中で都合よく捻じ曲げるために用意された舞台というよりも、敗戦というトラウマを克服するための舞台と読み取るべきだろう。

 ところで、水爆によって未知の怪物が登場するというシチュエーションは、初代ゴジラに似ている。言うまでもないかもしれないが、ゴジラとは、海底深くで生き残っていた恐竜がアメリカによる水爆実験によって突然変異し、巨大な怪物となったモンスターであり、それが戦後復興し繁栄した東京を破壊する。ゴジラは戦没した人々の亡霊でもあり、復興の中で人々が忘れかけていた戦争の記憶をよみがえらせる怪談話なのだ。

 一方、深海棲艦は、必ずしも史実で日本の敵国であったアメリカの艦艇ではなく、設定が曖昧な存在として描かれる。その曖昧さゆえに、敵がアメリカの艦艇ではないとしたらなんなのか、といった想像の余地が残る。原作のゲームでは、深海棲艦が史実で沈んだ艦艇の怨念ではないかという解釈がある。明かにそのように解釈可能な敵キャラも存在しており、2014年の秋イベントに登場した駆逐棲鬼や2015年の冬イベントで登場した軽巡棲鬼などがそれにあたる*2 。深海棲艦もゴジラと同じように、敗戦の記憶を体現したオバケなのだ。

 

敗戦のトラウマとの戦い方

 先に述べたように、アニメでは最終的に、史実で負けるはずのミッドウェー海戦で勝利を収める。では、なぜアニメの最終話で艦娘たちは、勝利できたのだろうか。それは、艦娘たちを指揮する提督と主人公吹雪という二人の存在がカギになっているようだ。アニメに登場する提督は、監督インタビューによれば、原作ゲームと同様にプレイヤー自身であるという。

・提督の存在について。 
原作ゲームのプレイヤーであり、視聴者自身がアニメに登場する提督である、という捉え方をしている 。作品を見ている人が自身を投影できるように描いたつもりです*3

 これはつまり、提督は敗戦の事実を知る現代人(プレイヤー)の立場でアニメに登場しているということだろう。

 ここで一つ動画を紹介したい。

この動画では、提督の行動原理を考察している。劇中で描かれる提督の不可解な行動は、太平洋戦争の敗戦という史実を回避するためのものであり、提督が史実を知っていたと仮定すれば説明可能だという。そして、史実を回避する条件として、1.史実で起きた出来事の時間を意図的にずらすこと、2.史実を凌駕する圧倒的な物量を投入すること、があると考察している。これらの条件を合理的にクリアしていけば、史実は回避できるということだろう。しかし、この物語では一点だけイレギュラーな要素が存在する。それが主人公の吹雪だ。

  10話では、提督が吹雪を鎮守府に呼んだ理由が明かされた。提督はある夢を見て、それ実現させるために吹雪を呼んだというのだ。その際、提督が夢で見た光景としてウェディングドレス姿の吹雪が現代の東京にいる光景が写された。

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 原作ゲームには、プレイヤーが上限のレベル100になった任意の艦娘と結婚できる「ケッコンカッコカリ」というシステムがある。10話の夢のシーンは、提督が吹雪と「ケッコンカッコカリ」した後の光景だと想像できる。

 そしてこの光景は、戦後復興の象徴である東京タワーが遠目に見えることからもわかるように、現在の日本の姿と変わらない。東京タワーは、あくまで敗戦の事実は変わっていないことを示す役割を果たしているといえるだろう。やはり艦これは、敗戦という史実を改変する類のフィクションというよりも、敗戦というトラウマを克服することをテーマにした作品なのだ。そして、トラウマの克服に必要なのは愛する艦娘という精神的な支えであると示すことで、合理的に説明がつかない吹雪の存在が正当化されているのである。

 

 おわりに

 プレイヤーの艦娘への愛によって敗戦のトラウマを乗り越えようというのが艦これの根幹にあるテーマであるようだ。言い換えれば、艦娘の無償の愛によるプレイヤーの救済の物語なのだ。しかし、これはあまりにポルノ的な発想のように思える。それが艦これの限界であり、魅力なのかもしれない。という意味では、やはりオタク文化がいびつな文化であるという村上の指摘は、艦これにおいてもそのまま当てはまるのではないか。

  さて、これで物語全体を貫くテーマについての考察は終わったが、やはり最後にアニメに対していくつか批判をしてきたい。まず、アニメの一番の敗因は、敗戦という負の歴史と向き合おうなどというのがそもそも説教臭いものなのであり、そうしたコンセプトが先行しすぎていて、視聴者がついて来れていなかったことだろうと思う。

 また、劇中で姿が執拗なまでに映されない提督は、ある種の不気味さをまとってしまっている。まるで偶像崇拝を禁止しているどこぞの宗教のようだ。いるかどうかもよくわからない提督をひたすら信じる艦娘たちにも不気味さを抱いてしまい、視聴者はいったい誰に感情移入すればいいのかわからなくなっている。そんな彼女たちにボコボコにされる敵が可哀想ですらある。ようするにノイズが多すぎて物語に入っていけない。

  唯一艦娘たちだけで完結したカレー回が好評だったのは、艦娘たちの日常を描いたサービス回であったのと同時に、提督という存在が不要な回だったからだろう。多くのファンにとってはトラウマの克服なんてものはどうでもよく、そんなことよりかわいい艦娘たちが戯れているところを見て癒されたがっていたのである。

 オタク文化の文脈に作品が位置づけられることと、オタクに作品が支持されるかどうかはまったく別問題である。アニメ艦これは、前者だけを優先し後者をおろそかにしてしまったために失敗してしまった例ということになるだろう。

*1:リトルボーイ:爆発する日本のサブカルチャー・アート』

*2:艦これwiki敵艦船

*3:アニメージュ5月号

マーニーとは誰だったのか? 『思い出のマーニー』の考察

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はじめに

 スタジオジブリ『仮ぐらしのアリエッティ』で初監督を務めた米林宏昌監督の最新作『思い出のマーニー』が公開された。この記事ではこの映画の内容を主にビジュアル面から読み解いたあと、それを踏まえつつマーニーの存在について考えていくことにする。

 『思い出のマーニー』の特徴は何と言ってもメインキャラクターの二人が女の子という点にある。彼女たちの人間模様はどことなく物憂げな雰囲気をまとっており、主人公杏奈の成長はヒロインのマーニーとの間で取り交わされる物静かなやりとりを通して描かれる。これまでのジブリのような壮大なスペクタクルはなく、それはたとえるなら少年漫画と少女漫画くらいの差があるように思える。

 

ジブリっぽいけどなんかちがう

 とはいえ、『思い出のマーニー』にはこれまでのジブリを意識したであろうシーンが随所にちりばめられているようにも見える。杏奈が体験する出来事は、なんとなくジブリっぽいところもあるけどなんだか違っている、そんな微妙な感覚が常につきまとう。さらに言えば、いくつか印象的なシーンを取り上げて比較してみると、そのビジュアルの類似に反して正反対なメッセージが含まれているようなのだ。

  たとえば、主人公が新しい地へとやってくるというのは、『千と千尋』の冒頭によく似ている。だが友達との別れを惜しみながら引っ越し先へ向かう千尋と、理解者の居ない鬱屈した現実から逃げ出すように田舎へ赴く杏奈とでは、新しい場所へ向かう動機がまったく異なっている。

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 杏奈が神社の階段を泣きながら駆け下るシーンは、『耳をすませば』のシーンと比較できそうだ。見比べてみると両者の差が残酷に思えるほどだ。夢らしい夢を抱けないことが原因で喧嘩をしてしまった杏奈と小説を書くという夢に胸を躍らせる月島雫では、まったく正反対な二人だし、それを象徴するかのように画面の明暗やアニメーションの躍動感も違っている。

 キャンバスに向き合うおばあさんというのは、『風立ちぬ』のポスターなどのメインビジュアルを想起した人も多いかもしれない。『風立ちぬ』のヒロイン・里見菜穂子は余命いくばくもない身でありながら人生の絶頂期を駆け抜けていくが、おばあさんは隠居生活を送っているようだ。やはりこのシーンでも画面は暗い。

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 『思い出のマーニー』 には男性がほとんど出てこないが、その中の数少ない一人がマーニーの父親だ。この湿っ地(しめっち)屋敷のパーティーのシーンは、『風立ちぬ』のシーンを意識しているように見える。『風立ちぬ』のカストルプは気さくで気立てのいい人物だが、マーニーの父親には冷徹さを感じる。顔に落ちた影、やや下に傾けた顔、控えめなほほ笑み、青みがかったスーツや背景の色味、ワイングラスの持ち方までが、この父親の人間模様を際立たせている。

 他にもボートで海を行ったり来たりというシーンや、気付いたら海が出来ているという場面は、『崖の上のポニョ』のようでも『千と千尋』のようでもある。近道の雑木林に入っていくシーンは、『となりのトトロ』を思わせる。しかし、この映画では雑木林の先に不思議な世界など広がっていないし、いつのまにか海が出来ていてもおもちゃの船を大きくしてくれる金魚の妖精も登場しない。人々が胸を躍らせたくなるようなファンタジーの世界をこの映画はあえて拒否しているかのようだ。

 それに各シーンでは、過去のジブリ映画よりも色の彩度がかなり落とされており、なるべく強調的なアングルを使わないように配慮がなされていることがわかる。このようにダイナミックさを抑える米林監督の演出も宮崎駿の世界に対する意識的な差別化と言えるだろう。そうした意識は、米林監督の次のような発言にも垣間見えている。

僕は宮崎さんのように、この映画1本で世界を変えようなんて思ってはいません。ただ、『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』の両巨匠の後に、もう一度、子どものためのスタジオジブリ作品をつくりたい。この映画を見に来てくれる『杏奈』や『マーニー』の横に座り、そっと寄りそうような映画を、僕は作りたいと思っています*1

 

マーニーとは誰だったのか

 しかし、壮大な世界観を拒否するこの映画の中にもたったひとつだけマーニーというファンタジー要素が存在する。では、マーニーとはいったいどのような人物なのだろうか。

 マーニーは、杏奈の実の祖母であったことが映画の終盤に明かされ、それが表向きの結論となっている。しかし、杏奈が何度も劇中で出合ったマーニーは、実在する祖母本人ではない。杏奈が幼少期に祖母から聞かされていた思い出話の登場人物である(すこしややこしいが)。

 終盤では、祖母が決して幸せな人生を送ってはいなかったことも明かされる。物語の前半では、マーニーは明るくて杏奈をやさしく包み込んでくれる存在として描かれていた。しかし実際は、屋敷でいじめられ両親からも愛されずに育った可哀想な子であり、しかもそれに追い打ちをかけるように娘(杏奈の母)とうまく関係を築けないまま死なれてしまう。祖母の人生は、杏奈が出会ったマーニーの姿と比べるとかなりギャップを感じる。

 このギャップが生まれた原因は、祖母が杏奈に語った思い出が楽しく幸せに満ち溢れたものだったからだろう。それを示唆するかのように、終盤の回想シーンには祖母が楽しそうに幼少の杏奈に思い出を語って聞かせる場面がある。杏奈の記憶の中ではマーニーはたしかに明るく魅力的な女の子だったのだ。

 この祖母の思い出話のもう一人の登場人物は、杏奈の祖父となる和彦である。彼がマーニーと結ばれるというのがこの物語の筋書きである。つまり、『思い出のマーニー』は、祖母が語って聞かせてくれた物語に杏奈がのめり込んでいくさまを描いた映画なのだ。

 杏奈が体験する没入感は、彼女自身が物語の舞台となった湿っ地(しめっち)屋敷に実際に居合わせることがトリガーとなっている。これは小説や映画、アニメのファンたちが作品の舞台となった聖地を巡礼し、現地で体験する臨場感に近い。

 ただ、杏奈の没入はかなり病的で命の危険すら感じられる。夢遊病者のようにさまよった末に茂みに倒れていたとでもいうような描写はいささか唐突で不可思議な印象が否めなかった(そこまで深刻ならそれなりの対処というものがあるのではないか)。一応の解釈として、杏奈にとってこの物語は追い詰められた先にあった駆け込み寺のようなものであり、そこに没入できるかできないかはより深刻で差し迫った問題なのだというように描かれているようだ。

 米林監督に『思い出のマーニー』の映画化を持ち掛けた鈴木敏夫は、この映画のテーマを「孤独」と総括している。

「今回、僕らが作っている『思い出のマーニー』もそれ〔孤独〕がテーマになっている」 “孤独”というテーマについて、「いろいろやってきているうちにそうなっちゃった。世の中が変わって、映画やテレビは大勢や家族で見るものだったけれど、今ネットは個人でするものになっている。技術革新によって人々の暮らしが変わって、そんな時代に彼の映画は意味を持つと思う」*2

 現代の子どもたちに寄り添っているもの、それは家族でも友達でもなく物語であるという点にこの映画のテーマがあると鈴木は考えていることがわかる。

 この映画では、子どもが大人になる過程においてその物語から卒業を果たさなければならないという現実が、杏奈の葛藤として描かれている。たとえいくら物語に没入できたとしても、サイロにマーニーと一緒に行くのは自分ではなく和彦なのだということが杏奈には受け入れ難い。必ずしも物語が自分に寄り添い続けてくれるとは限らないことに気づいたとき、杏奈はマーニーに裏切られた気持ちになるのだ。しかし、それでも最後には、マーニーを許し、この物語を愛し続けるという結論を導き出す。それがこの映画で描かれる杏奈の成長である。つまりマーニーとは擬人化された物語なのだ。

 

夢ではなくて思い出として

 『思い出のマーニー』は、子どもたちが夢を見ていずれ卒業する、その成長の過程に焦点を当てている。これと似たような構造の物語に『オズの魔法使い』がある。『オズの魔法使い』は、ドロシーという少女が竜巻に飛ばされてオズの国へ行き、大冒険を繰り広げて最後にまた家に戻ってくるというストーリーである。ドロシーははじめ、家を出ていきたいと思っていたが、オズの国へ行くとだんだん家へ戻りたいと思いを募らせるようになり、家に戻ってくるとやっぱり家が一番だと安堵する。これを少女がオズの国という夢から卒業し、家という現実を直視するようになる成長のお話と見ることができる。

 

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 『思い出のマーニー』と『オズの魔法使い』は、基本的なストーリーの構造が同じである。しかし、杏奈がドロシーと違うのは、マーニーの物語に留まりたいと願いながらも追いやられてしまう点だ。夢を手放しがたいもの、手放すには苦痛が伴うものとして描かれている。

 では、現実から逃げたいと願った杏奈にとってマーニーの物語とはただの夢だったのだろうか。そうではないだろう。『思い出のマーニー』は、その題名の通りマーニーとの間に起きた出来事を思い出として捉えている。マーニーをオズの国のように過ぎ去ってしまう夢として捉えるのでなく、自分を形作っている思い出として受け止めることで成長する姿が描かれているのだ。

 この映画は、アニメや漫画に熱中する今時の若者たちが、マーニーという物語にのめり込む杏奈の姿に自分を重ね、自分にとってかけがえのない作品たちとの関係を改めて認識するように促しているように思える。

 

ポスターの意味

 

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 米林監督は、杏奈というキャラクターを作るきっかけを以下のように述べている。

でも、鈴木さんからぜひやってくれないかと言われて、何点か絵を描きながら思いついたのが、杏奈を"絵を描く女の子"にすればどうかということ。そうすれば、杏奈が物を見ている目で、杏奈の心の中を描けるんじゃないかと思い、映画を作ろうと決意しました*3

杏奈がマーニーの絵を描くこと、つまり自分の好きな作品のキャラクターを描くことは、最近のアニメや漫画の二次創作に見られるように現実でも行われていることだ。

 そこで上に示したポスターの意味を考えてみよう。この手書きのポスターは、マーニーしか画面に配置されていない。だが、マーニーの視線の先には杏奈がいることが示唆されている。さらに踏み込んで、これを杏奈が描いた絵として解釈するなら、「あなたのことが大すき」という言葉は一見してこちらを見つめるマーニーから発せられたように見えるが、杏奈がこの絵を描く際に込めた思いと考えたほうがしっくりくる。 

 

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 もうひとつのアニメ調のポスターに書かれている「あの入江で、わたしはあなたを待っている。永久に——。」というフレーズは、マーニーの言葉と捉えるのが自然だろう。ふたりの気持ちが通っているようでもあるし、お互いの流れている時間が異なっているような不思議な感じもする。

 マーニーを物語の寓意として捉えるならば、「永久に」という言葉の意味もおのずとみえてくる。人から人へと受け継がれていく物語は、時間を超越している。だから、マーニーに会おうと思えばいつでも会いに行くことができるのだ。

 誰しも杏奈にとってのマーニーのような、思い出深いお気に入りの作品があるのではないだろうか。ひょっとしてそれは、引っ越しや大掃除のときについついめくってしまうマンガであったり、実家に帰省した時に懐かしくなりながら手に取る小説だったりするのかもしれない。

 

*1:映画.com速報「米林宏昌監督「思い出のマーニー」にかける並々ならぬ思い」2014/4/16〈http://eiga.com/news/20140416/2/

*2:ORICON STYLEジブリ思い出のマーニー』、テーマは「孤独」鈴木P明かす」2014/5/29〈http://www.oricon.co.jp/news/2037982/full/

*3:マイナビニュース「(米林監督) ジブリ最新作『思い出のマーニー』宮崎・高畑両氏も絶賛、新生ジブリ作品の魅力」2014/7/3〈 http://news.mynavi.jp/articles/2014/07/03/marnie/