noumos blog

語ることって大事

アニメ『ポプテピピック』に見る、ポップアート感と凸凹コンビの系譜の話

f:id:noumos:20180113155239j:plain

ポプテピピック』、始まったね。困ったことに、 自らをクソアニメと自認するって、すごくクレバーな戦略に見えるんだよね。通常の評価軸が通用しないから、そもそも賛否両あってもスムーズな議論が成り立たなくなる。そのキチガイパワーで見るものを圧倒できるか、できないかが、この作品の価値となっているからだ。

わりと真面目にポップアートと通じるところがあると思うんだよね…。アンディー・ウォーホルがやったのは、まさにこれですよ。美術の進歩史観ヒエラルキーをブリロ・ボックスは、ぶっ壊したのです。これをアートだと言い放った当時の衝撃をいま、このクソアニメは私たちに突き付けてきているような気がする。これがほんとにアニメなのか?

f:id:noumos:20180113151759j:plain

しかも、あれ?なんかポプテピの色合いと似てる?似てない?それに、一話再放送をやりやがったのは、ウォーホルがやった繰り返しに通じてるように見えなくもない。ネットミームを引用しまくっているのも、世俗的なアイコンを引用しまくったポップアートと共通点があるような…。題名にポップってあるし、それすら意識的だったとしたら僕は驚嘆するしかないよ…。多分偶然だよな…、そうだと言ってくれ。その方が安心する。

これがもしかしたらアートの文脈をアニメに持ち込んだなんて、そんなめんどくさいこと考えたくないよ!助けて!ただし、このアニメがアニメの評価軸を脱構築しようとしていることは明らかだ。恐ろしい子…。

 

ところで、ポプ子とピピ美みたいな、チビとノッポの二人組のことを「凸凹(でこぼこ)コンビ」と言います。これは『ブルース・ブラザース』(1980)以来のお約束。f:id:noumos:20180108190601j:plain

この適当なキャラ紹介も、凹凸コンビの特徴を簡潔に表していますね(鼻ホジ)。

f:id:noumos:20180108190249j:plain

 『ブルース・ブラザース』はミュージカル・コメディ映画で、主演は画像の二人組の兄ちゃんたち。ジェイク役のジョン・ベルーシ(右)とエルウッド役のダン・エイクロイド(左)は、二人ともアメリカのコメディアン。

映画の内容は、二人のコンビの個性で周りを次々と巻き込み、音楽とダンスでその場その場を潜り抜け、どったんばったん大騒ぎする映画です。電話ボックスごと吹っ飛んだりとか割と突拍子もないギャグ描写が癖になる。

 

ビジュアル的にもポプ子とピピ美は彼らと似てるし、ナンセンスギャクやパロディを連発するところも通じてる。ただ違うのは音楽とダンスがないところかな。これたぶんみんな聞いたことあると思うよ。


Blues Brothers - 'Opening: I Can't Turn You Loose'

 

後に凸凹コンビの系譜は、『メン・イン・ブラック』なんかに受け継がれていったよ。凸凹コンビは、ナンセンスギャグと共にありってことだ。

f:id:noumos:20180108201110j:plain

 

もうひとつポプテピは、2ちゃんねるのネットミーム的なキャラクターの、やる夫とやらない夫の要素があるね。ていうか直接の引用はこっちだね。

f:id:noumos:20180108195525p:plain

ビジュアル的には。体型であったり、「ω」の口元であったりと、こっちのほうがはるかに似てる。どっちにしても凸凹コンビがナンセンスギャグと相性がいいということには変わりないね。

 

ポプテピは、女子中学生で凸凹コンビを組み、ネットスラングを多用したナンセンスギャグをやってるわけだ。アニメ化されたことでギャグの幅が広がって、さてどうなることやら。

f:id:noumos:20180108201928j:plain

 

以上。

 

 

なぜ僕が『君の名は。』に対して、素直に素晴らしいと言えないのか。

はい、最近『君の名は。』が地上波初放送されました。私は見なかったですが、Twitterのタイムラインで感想が流れて来るのを読んでました。なかなかコアな話題もたくさん流れてきたので、それだけでも面白かったですね。

これまで新海誠作品を見てきた人にとって『君の名は。』は、特に『秒速5センチメートル』の衝撃からやっと解放してくれた記念碑的作品なのだ、という感想は僕にとっても心当たりがあります。

僕は、いまでも新海誠の最高傑作は、『秒速』だと思ってますから。だって考えても見てくださいよ。『秒速』を初めて見たのは、僕がまだ中学高校のあたりですよ?それに比べて『君の名は。』の時点で僕は、それなりに成長して、新鮮味をダイレクトに受け止めないで済む鎧を着てますからね。そんな僕が『君の名は。』が『秒速』を越えたなんて、本心からは言えないんです。

『秒速』がいかに「根暗男子たち」に衝撃を与えたのかって話ですよ。学生時代に、とにかく恋が成就せず、そのことを引きずりながら生きている主人公を描いておきながら、成就しなかった恋をさも人生のメインイベントだったかのように描く呪いみたいな映画なんですけどね。正直言って嫌いですよ。軟弱者めが!って思いますよ。でもその批判が、もしかしたら自分に当てはまるのでは、という恐怖がある。人の軟弱さを美化したこの映画のカタルシスに誘惑されている自分がいる。ああ、まんまと揺さぶられているじゃないかと、なってしまうわけです。

これはただの推測ですが、おそらく新海誠はかつて「根暗男子」だったんでしょう。これまでほとんど恋愛劇しか作ってない時点で、コンプレックスの塊なのが分かるじゃないですか。今はどうか知りませんが、その「根暗さ」を昇華すること、それを自分の武器として作品を作ってきたんだろうと思います。その執念は素直にすごい。ただね…『言の葉の庭』には、正直ドン引きしましたよ。男子高校生の妄想かよ!って思わず叫びました。いやマジで叫んだ、自分の部屋で。二人だけの空間とか時間を作り出すのは、たしかに上手い。上手くなってる。すごい!でも童貞くさい!

それが、その次の作品『君の名は。』では、なんかいい匂いのする童貞になってるんですよ(なんか語弊がありそう(笑))。え、やだ。なんでそんないい香りするわけ?いつもの汗臭い感じは何処へ行ったの?そう、急には受け入れられないんですよ。でも、もう一年くらいたったし、そろそろそういう感覚も薄れてきたので、真面目に受け入れてみようという感じになってきました。地上波みてないけどね(笑)。

 

結論から述べると、やはり嫌いです。それは『秒速』に対する嫌いとは全く違います。こっちは、感情移入できてしまうから嫌いですが、『君の名は。』まったく感情移入できないがために嫌いです。しかし、すごさは感じる。それはいったいなにがすごいのだろう。

要素に分けて見た場合、とても素晴しいという言葉しか出てこないんですよ。まず、絵がイイですよね。キャラクターも少年少女みんな可愛い。恋愛模様は、見ててニヤニヤできる(するとは言ってない)。

ただね、問題は全体的に見た時に、意味わからん、何が言いたいの?ってなるんですよ。『君の名は。』がこれまでの新海作品と決定的に異なるのは、恋愛以外のリアルな要素が強く出てることですよね。つまり、大災害を回避するというスペクタクルですが、これが何のためにあるのか、さっぱりわからない。いや、『アルマゲドン』での隕石は、悲劇的でありながら結局兄ちゃん姉ちゃんの恋路を成就させましたから、映画としてなしとは言いませんよ。けどね、高校生の恋愛を盛り上げるための装置としては大げさすぎるんですよ。スケールがデカ過ぎて高校生には身に余ってたし。実際、尾崎豊もびっくりな爆弾テロをやってもらわないと、話が持たなかったわけですからね。リアリズム、現実的な描写の限界をそこに感じるわけです。言っちゃ悪いが、『アルマゲドン』のほうがリアリティーがある。

だからこの映画、全体の印象が散漫で、なんとなくすげーっていう感想で終わりかねないんですよ。伏線もいっぱいあって、絵も凝ってて、キャラも可愛くて、スケールもデカくて、なんとなく希望が持てるラストだからすげー。でもそれって情報に忙殺されて、表面をなぞってるだけじゃないの?と思ってしまう。

この映画のテーマって、すごくわかりにくいんですよ。大災害を乗り越えて、時空まで越えちゃって、二人が出会って終わり。でも結局最後だけ切り取ったら、二人の男女が出会っただけなんですよ?全部忘れてるんだから。これまでのことは、夢のようなもんだからって言われて一瞬はぁっ?ってなるよね。だって、これまでやった1時間は、少なくとも二人にとって夢みたいなもんなんだぜ?やばくねー?まさか、この映画『インセプション』だったのか…?と頭をよぎるじゃないですか。

でも、この映画ってこのラストが全てで、つまり、この映画のテーマって一期一会って言葉に尽きると思うんです。わかりにくいけど、たぶんきっとそう。今出会ったこの人は、きっとどこかでつながる運命だったのだ、一回そう思って見ましょうよ、と僕たちに語り掛けている。絵で、可愛いキャラで、恋愛で、スケールのデカいスペクタクルで運命ってものに説得力を持たせて、大きな歯車がちょうどハマって今あなたと出会ったのだと、それは勘違いかもしれないけど、そう思って見るとなんかいいことある気がしませんか?そう言いたいのだろうね。じゃあ、誰もが記憶している震災を舞台装置に使った理由は何かといえば、癒しだよね。人との繋がりを大事にして、あの震災を克服していこうよ、ってメッセージなわけだ。

これは、正直に言えば、国家規模の惨禍をなんだと思ってるんだと、そう思った。新海誠は、とんでもない勘違いの境地へと旅立ってしまったなって。ある意味で飛びぬけちゃっててすごいよ。だって、あの震災から毒気を抜いて、みんな救ってやろうなんて、平平凡凡な人間なら思わないもの。映画業界人から人気がないのって、この映画が毒気がないからなんだろうなって納得もいくよ。でも、こういうのがみんなが見たかったもので、それが新海誠本人の意識を飛び越えて世相を反映することになった。一番困惑してるのは、監督本人なんじゃないかな。業界の人間だと思ってたのにアウトサイダーと見なされ、観客からは称賛されてるけどたぶん本人の意図とはまたズレてるのだろうしね。業界人たちも、毒気なんてそんなもんいらねーんだよって客から言われちゃって、立つ瀬がない。

なぜ映画に毒気が必要なのかと言えば、それは観客が映画を通して自分と向き合うように仕向けるためですよね。『秒速』が僕にとっては衝撃的だったのは、すごい毒気があったからだし。一方で、自分と向き合うなんてしんどいから嫌だっていう気持ちもよくわかる。僕、『けものフレンズ』めっちゃ好きだし。ああいう癒し系な作品が最近売れるのも、『君の名は。』のヒットと無関係じゃないと思う。僕は『まどマギ』みたいな毒の塊みたいな奴も、『けもフレ』みたいな純真無垢な奴も両方好きだよ。ただ『君の名は。』の問題は、震災っていうリアルに対して、その傷を癒そうなんて傲慢を起こしたことなんですよ。それ、全然リアルが伴ってないじゃないですか。神社の巫女さんが、東京のイケメン男子になっても、高校生が爆弾テロ起こしても、どうにもならないんですよ現実は。圧倒的なほど細部にこだわって、どこ切り取ってもインスタ映えしそうな絵で描いてみても、無理なもんは無理ですよ。

「人との繋がりを大事にしようよ、そんでもってあの震災を克服していこうよ」って、それ自体はいいメッセージだけど、そこへ至る道があまりにも現実味がないので、それを見た各々が震災というリアルに向き合うようなきっかけをくれる映画にはなってない。大きな嘘で夢をみさせてくれる、癒してくれる、それだけでも十分いい映画なのかもしれない。確かに『秒速』より健全に見えるし、ポジティブな方を向いてるよ。いやー『君の名は。』って素晴らしいね。

 

 

【短い感想】『ラブ・アクチュアリー』(2003)

はい、25日にクリスマス映画を見ました。『素晴しき哉、人生!』と迷いましたが、まだ見てないやつにしようということで、こちらにしました。

 

原題は、『Love Actually』。「愛は、実際には」という感じでしょうか。この映画では、恋愛にまつわるいくつかのエピソードを通じて、「愛は、実際には」どんなものなのかを描いています。

 

クリスマスに恋人といい感じの雰囲気になりたい人にオススメですよ。恋人とのセックスに至るハードルをぐっと下げてくれる、そんな類の映画であり、別にいまセックスしたくないけど、と言う人にも寄り添った内容になっています。ホントはセックスしたかったけどそこまでもっていけなかったという人も、この映画を見たあとなら不機嫌にはならないことでしょう。

 

なんでこんなセックスセックス言うかというと、映画の中でセックスって言いまくるからです。しかし驚くべきことに、作中でセックスはほぼ描かれません。セックスセックスとみんな言っておきながら、だれもセックスそれ自体をさほど重要だと思っていないのです。たしかにセックスは大事だけど、セックスが全てじゃない。愛はいろんな形があるのだと教えてくれます。そして、必ずしも恋が成就することが最良の結果ではないと言っていることも好感が持てますね。この映画のどのエピソードが好みだったのかで、その人のタイプ診断とかもできそうです。個人的に好きだったのは、フランスの田舎娘とイギリスの小説家とのエピソードでした。多分、ロマンチストとかそんなタイプになりそうだなぁ。あーはずかしい。

 

この映画の舞台はイギリスですから、私には性に合ってると思うのですが、やはり考え方がアングロ・サクソンだなぁと思いました。人間関係がこじれたりするんですけど、妙にこざっぱりしています。日本じゃこうはいかないでしょうね。

ただ、アメリカを馬鹿にしすぎな部分があったので、これはどうかと思いました。アメリカ大統領がイギリス官邸の職員にセクハラとか、しょーもなすぎだろと。あと、アメリカ人女性を性に乱れた人種としてしか描かないのも、冗談では済まないと思います。誰だこんなストーリーにしたお馬鹿さんは、と言いたくなりますね。私が下ネタ嫌いなわけじゃないんですよ。ふるちんでテレビに出てたミュージシャンなんか最高にロックだと思いましたよ。さすがロックの本場イギリスだ、ってね。

 

まとめると、あんまり頭を使わずに見れて、ジョークも(不謹慎ネタはうんざりしますが)たくさんあって笑えるし、見終わった後に恋愛について深い話もできるバランスのいい映画でした。見てよかったです。

【短い感想】『オリエント急行殺人事件』(2017)

最近、短い感想とタイトルを打っておいて全然短くないので、最初に手短なまとめを書くようにしようと思います。

 

1、映像がよかったというより、舞台の装飾や小道具がよかった。お金がかかっているのがよく分かった。映画にとって大切な贅沢感はあった。

2、ただし、ポワロ役兼監督のおじちゃんの自己満映画なんでは、と思うくらいなんもなかった。ポワロしかなかった。

3、最後の晩餐を模したシーンがあったけど、白けた。

 

 

はい、『オリエント急行殺人事件』ですね。私は、原作も過去の映画化作品も見ておりませんので、まったくの初見でございました。魅かれた理由は、英国らしさがきらびやかな映像美によって表現されているのではという期待感から。

まず、疑問なのは、何故「オリエント」なのかという点だね。これは原作者がよくオリエント急行に乗って旅をした経験からきているのだそうだ。

オリエント急行の運行区間はカレーからイスタンブール間で、まあイギリスからオリエント(この場合中東)の入り口まで運んでくれる列車なわけだな。作中赤いマントを「キモノ」なんて言ったり、殺されたデップもオリエンタル(東洋の骨董品)を扱う商人だったりと、異国趣味的な描写があったね。1930年代はまだ欧米列強の植民地支配が健在な時分なので、そういう異国趣味もまだまだ需要があったんだと、そういうことなんでしょうね。ただ今となっては、ひとつの時代考証に過ぎないんで、それいる?感はあった。まあタイトルが「オリエント」だしっていう言い訳ってことかな。それにしては描写が貧弱すぎじゃないか?赤いマントなんてこれ着物じゃねーし。

 

作中で支配人の女たらし男(名前は忘れた)が言ってたように、列車の旅は、たまたま乗り合わせた乗客たちがその場限りの出会いを楽しむ場でもある。そんな旅の醍醐味についても触れられていたね。でも、今回乗り合わせた乗客たちは、主人公ポワロと女たらし男とデップ以外は顔見知りだったわけで、そんな旅の醍醐味なんてクソほどもなかったわけだが。それに老人ポワロはマイビューティー一筋で、女との危険なランデブーなんて起こりそうもないわな。つまり、列車旅という舞台装置は、殺人事件のミスリードの役割になってるわけだね。こいつらは初めて出会ったはずの人々だ、という思い込みを逆手に取ってるということです。

個人的におっ?となったのは、イスタンブールへ向かう船の甲板で、リドリーがスナップカメラを首から下げてたことだね。たぶんライカ?じゃないかと思うんだけど、これも旅のお供として重要なアイテムですね。作中で活かされることはなかったんで、何かの伏線では全くなかったですけど。

 

まあ、旅という舞台設定はよくできてたとしましょう。じゃあ、本編はどうだったかというと、正直微妙だよね。見終わってからネットでいくつか感想よんだけど、ポワロの俳優がこの映画の監督もやってたんだね。それを聞いてから振り返ると、唯の自己満映画じゃん、って言ってた人の感想がかなり納得でした。下のブログです。

 

ameblo.jp

 

 

あと、終盤にダヴィンチの最後の晩餐を模した構図のシーンがありましたね。かなり無理やり感満載だったので、私的には萎えポイントでしたが。真ん中の主犯だったおばちゃんが大きな黄色い襟の服を着ていて光輪(聖人の頭の後ろにある光の円盤)っぽくなってましたね。

 

f:id:noumos:20171218184727j:plain

出典:https://i0.wp.com/thewire.in/wp-content/uploads/2017/04/last-supper.jpg?fit=754%2C393&ssl=1

 

だたダヴィンチの最後の晩餐は、光輪が描かれてないんだよね。ダヴィンチは、最後の晩餐を描くときの慣例をかなり無視してます。

それに光輪を描く場合、慣例では裏切り者のユダ以外の弟子たちの頭に描きます。中心のキリストだけに光輪を描くのも結構珍しいと言えるでしょう。ドメニコ・ギルランダイオの最後の晩餐なんかがそれですね。下の画像。ちなみに、手前で尋問されてるようにしか見えないハブられ男がユダなんですが、この配置は慣例通りです。(´∀`)アハハ

 

f:id:noumos:20171218190306j:plain

出典:http://kunig.main.jp/wordpressks/wp-content/uploads/2017/11/最後の晩餐2ogniss.jpg

 

つまり、主犯のおばちゃんが聖人並の心の持ち主だと言いたいんでしょうけど、これ、キリスト教圏から見ても微妙な表現なんじゃ?

そもそも、殺人をなんやかんや肯定してしまうというとんでもない映画だったからね。見てて、いやそりゃいかんだろ・・・と思った次第。

【短い感想】『ブレードランナー2049』(2018)

はい、ブレランですね。もうそろそろ興行が終わってしまうと知って、焦りました。

見る前に、前作を復習しようと思ってTSUTAYAに行ったら全部借りられてて、しょうがないからファイナルカットのBD買いました。メイキングも見れたので、結果的に良かったかな。

 

ブレランは、人間とは何か、という根源的なテーマを扱っているけど、これは今作でも継承されてたね。じゃあ、一作目となにが違っているのか。

 

一作目のブレランは、もっと長く生きたいと願うレプリカントたちのあまりに人間的な生への衝動を描いたよな。一方、今作のブレランは、己の使命を己で選択し、命を全うするレプリカントを描いていた。だからこそ今作の主人公は、デッカードではなくレプリカントである必要があったんだね。

自分の命の在り方を自分自身で決定するあまりに人間的な姿とその高潔さに感動したよ。映像の美しさも相まってね。

 

主人公のジョーは、最後レプリとしての使命(デッカードを殺すこと)ではなく、己の使命(彼を娘に合わせること)を全うして死んだ。それが彼を人間たらしめたってメッセージだよね。

人間は死にざまが肝心だって誰かが言ったけど、まさにこの映画はそれを体現してたと思う。

一作目のように長く生きられない自分の運命に抗おうとすることから、今作は自分がどう生きるのかという問いに答えを出すってところに「人間とは何か」というテーマを昇華させてた。

この点に関しては100点満点だよ。感動させられた時点でもう手放しの称賛を送るしかないよ。

 

ではジョーを人間たらしめたのは、何だったのか。これは思い出なんだと思う。懐かしい思い出をもち続けることで人間は人間らしく生きられるのだ、そう言いたいんだと思う。

彼はデッカードの娘の思い出を移植されていた。たしか、娘を匿うレプリたちの偽装工作の一環で彼は誕生した、って話だったと思う。

ジョーの女上司は、これまで会ったレプリたちの中で一番人間らしいと言っていたよね。

それはたぶん、ジョーの持つ思い出が現実にあったデッカードの娘の記憶から出来ていたからだろうね。通常レプリの記憶は、人工的に作られたものだけど、彼のはそうじゃなかった。

人間は思い出に生きるってメッセージは、ジョーが愛してた彼女がAIだったことからも描かれてたね。自我をもったAIは、肉体をもたないだけでほとんど生の人間に見える。このAIは結局プログラムでしかないはずなんだけど、ジョーは彼女を愛していたのは事実なんだよ。

終盤に彼女を失ったこと、その痛みを知ったことでジョーは己の使命に気づく。そのことを示すは、AI彼女の広告(巨大でコミカルなホログラム)がジョーを慰めるシーンだろう。

こんな一見くだらないものを、ジョーはそれでも愛していた。そこでジョーは、娘に一度も会えないまま、これから自分に殺されるデッカードに自分を重ね合わせたんだろうとわかるよね。

 

デッカードの娘を匿うレプリたちは、娘が持つ生殖機能を自分たちの人間の証として捉えていたよな。たぶん彼女の血を絶やさないように守って、レプリたちの希望の象徴に仕立てあげたかったんだろうね。

しかし、それはレプリカントという種全体のスケールの話だ。ジョーの中に芽生えたのはもっと個人的な感情だった。

それは、自分がデッカードの息子ではないかという疑問だよ。ジョーデッカードとの殴り合いは、まるで父と子の喧嘩のようだったでしょ?(鉄砲玉まで撃ってたけど)

二人の間の微妙な距離感も親子関係として見た時、なんともいえないリアリティーを感じたよ。頑固オヤジに久しぶりに会いに行った息子みたいなね(笑)

 

ジョーデッカードに見せる思いやりは、まさに息子のそれだった。彼にとって欠落していた思い出が、そこで埋め合わせられたんだよ。二人は実際の親子ではなかったんだけど、じゃあジョーの思いやりは偽りだったのか。それが真実だったことが、ラストで証明されるわけだよね。

では己の使命のために死んだジョーは、はたして幸せだったのか。

人間は思い出を完結させるために生きているわけだけど、それは人を幸福にしてくれるのだろうか。

答えは、目に見える絶望感の中にあえて見出さなくてはならないってことなんだと思うよ。

 

 

ここまで読んでくれた人に、豆知識ね。

 

劇中、ジョーデッカードが酒を飲んでた部屋には、19世紀イギリスの風景画家ターナーの絵が掛かってたよ。この絵だけど気付いた人いるかな。

f:id:noumos:20171202220556j:plain

雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道(1844)

 

なんでこの絵が掛かってたかっていうと、これは一作目ブレランの構想段階であったシーンを意識してるんだと思うよ。

今作の冒頭の小屋でのシーンは、同じ一作目ブレランで当初構想されてたシーンだったね。スープがコトコトしてるところにレプリが入って来て、ブレードランナーがそいつを撃ち殺すっていう場面。

そこまでは今作で晴れて映像化されることになったけど、実はその後に、その小屋の前を汽車が通り過ぎるってシーンも構想されてたんだよね。ソースはファイナルカットのBDに同梱されてたメイキングビデオだよ。そのシーンのコンテが、このターナーの絵にそっくりなんだよね。

 

かなり突拍子もない幻想的な風景だけど、こういう細かいところでオマージュを入れるてるの見ると、この映画の前作に対する敬意が伝わってくる。

 

 

【短い感想】『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016)

はい、岩井俊二監督のやつね。去年の作品か、意外と最近だな。

岩井監督の存在は今年知りました。しかも数か月前。夏にアニメ版『打ち上げ花火』をみるために予習としてドラマ版をみて、それから『リリィシュシュの全て』『花とアリス』『市川崑物語』をみたって感じ。ハマりそうでハマらないそんな距離感がある。

みるたびに心がえぐられるので、かなりしんどい。

 

夏にね、暇だったから夜中に2ちゃんねるやってたんですよ。もう今では5ちゃんになったんだっけ?まあいいや。そこで明日彼氏とセックスするんだけど・・・っていってる女子高生とお話ししたんだよ。話を聞いてると彼氏からコクられて、そんなに好きとかじゃないけどお試しで付き合って、今度セックスするんだと。

好きじゃないのにセックスはするのか・・・みたいなことを僕はグチグチ言ってみたけど、彼女はそれでかまわないらしい。それと、彼氏とはそのうち別れるだろうな、とかなんとかいってて、こっちがひたすらもやもやするだけだった。

ちょうど『リリィシュシュ』を観た直後だった僕は、そこで彼女に「いま岩井俊二の映画をみた後みたいなモヤモヤした感じだ」みたいことを確か言ったんだと思う。そしたら、彼女は岩井俊二のファンで、逆にお気に入りの作品をおすすめされるという、なんだこれっていう経験がありました。ちなみにおすすめされたのは『花とアリス』。

それから岩井の映画を見るたびに、彼女はいったいどんなセックスをしたんだろう、っていうようなことを思い出すことになってしまった次第です。君に幸あれ、とそのたびに思ってます。

 

なんでこんな話をしたかと言うとね、僕にとって岩井映画ってセックスのイメージが強くあるんですよ。『リリィ』も『リップヴァンウィンクル』もセックスもしくはレイプのところで一番心がえぐられたんで。ようするに女性の不本意なセックスをみると動揺しちゃうんだよね。

セックスシーン自体は嫌いじゃないよ。むしろ好きな映画もあるし。相思相愛なセックスは安心する。『グッドウィルハンティング』と『アバウトタイム』なんかがそんな感じかな。

 

そろそろ本題に入らなきゃ。

話自体は正直なんだこれ…って感じでポカーンだった。

整理しよう。

主人公の七海は、ネットを通じて彼氏と出会い、結婚することになった。そして、結婚式で出席する親族を水増しするため、アムロというなんでも屋の男に親戚代行の手配を依頼。新婚生活は順調と思いきや、アムロの思惑によって、七海と夫は別れることに。アムロという男は、金の為なら何でもやる男なだけで、悪人とは言い切れない、そんなキャラクターだということが、終盤あたりでやっとわかってくる。最初はほんとクズ野郎なんだと思ってた。

最初アムロの掌の上で七海が踊らされて不幸のどん底なのかと思いきや、あまりそこは重要ではないみたいだ。夫との離婚は、七海にとって自分の居場所を失いどこにいるのか分からなくなるという局面であり、それ以上の何かではない。

ただ僕にとっては、七海が知らない男から身体の関係を求められるところがこの映画の一番の山場であった。心が揺れ動く場面であった。なので正直ノイズが大きすぎた。

 

本当に重要なのはその後、七海は真白という女性と出会い彼女と生活するようになってから。二人はだんだんと距離を縮めていくが、真白は死んでしまう。

そこで七海は目が覚める。彼女は真白との生活が夢か何かだったように思えてならない。

 

物語の中で一貫しているのは、わかりあえなさ、他人を理解しようとしてもできないといった問題。

人はいろいろな仮面を複数持っている。それがこの映画ではSNSのアカウントだったり、親族代行だったりする。

でも、なにか一つの本当の自分なんていないんだろう。どれも自分であるからには、自分とはその集合でしかないということになる。

誰かに必要とされる自分をいくつも作りたい、持っておきたい、確かにそうだな。

いらなくなった自分は、アカウントを削除する、それでいいのかもしれない。

真白が死んだとき、七海は真白に必要とされていた自分を失った。それはある意味で死なのだと思う。

その思い出を生きる糧にしてさらに強く生きていくのか、受け止めきれずに枯れていくのか。

つらい思い出とは、人生の肥料なのだと、そう思った。

【短い感想】『ティファニーで朝食を』(1961)

過去の名作、今更ながら見てみた。

名作と言われるだけあって、見ごたえがあった。

きらびやかなイメージがあったけど、実際見てみて、全然印象が違っていた。

 

軽く映画の説明。

オードリーが演じたホリーは、男をたぶらかしながらお金を貢がせてその日ぐらし、しかも玉の輿を狙いという、まあこの時点でかなりドロドロした話だなって思うよね。

で、お相手の男ポールも、売れない作家で金持ちのおばさんと不倫&援助交際をしているという、これまたドロドロ。

 

二人とも一見精神的な余裕も教養もありそうな雰囲気だけど、ポールは普通にいい男を最後まで演じる一方で、ホリーは破綻していく。なんだろうね、この違いは。

ポールも少しは小説の筆が進まないことに焦りとかないのか?という疑問は沸いた。こいつ最後まで余裕ありすぎじゃね?正論ばっか吐きやがって、そういうお前はどうなんだ?って思うのは僕だけでしょうか。

それと、オードリー・ヘップバーンの体型が少しと言わずかなりガリガリに痩せ細ってたのが印象的だった。劇中で、田舎からホリーを迎えに来たおっさんが彼女のことを「骨と皮だ」って言ってたけど、あれはどういう意味なんだろうね。 細くてかわいい女性像を押し出そうとしているのか、批判しているのかよくわからなかった。たぶん、斬新なファッションできらびやかにホリーを演出しつつ、方便として「骨と皮」って言ってるんだろうな。個人的には、「かわいい」って言葉自体が僕はそもそも好きじゃないし、今回みたいに媚びてるパターンは特にそう。だから「骨と皮だ」という意見に賛成する。オードリーの出す独特な雰囲気は、別に痩せ細った体型だからあるのではないと思う。

 

あと、おまけみたいな日本人描写は最悪だった。これは差別以外の何物でもない。正直いって冒頭からかなり不愉快な気分になったよ。wikiを見てみたらやっぱり批判されているみたいだ。日本人差別って戦前からずっと根強く残ってるんだなあっていうのがわかって、参考にはなったけどね。

 

ここまで文句を言っておいて難だけど、内容自体はとてもよかった。不愉快な気分がある程度無くなるくらいのパワーはあった。

お金が全てだと思ってる女と、愛のために生きたい男とのせめぎ合い。いまとなってはよくあるパターンになってしまっているくらいの王道の原典。

 

ティファニーは資本主義の象徴みたいに描かれてる。

方便としてサービス精神見せてたけど、でもティファニーはホリーの儚い夢であり、破滅の原因なわけだ。

ここが僕のイメージと全く逆だった。もっときらびやかで楽しーって感じの映画なのかと思ってたから。

しかも、パッケージになってるホリーがティファニーで朝食とってるシーンは劇中になかったのが驚きだった。ないんかいっ!

 

ホリーが飼ってる猫は彼女の立場を象徴する役目を負ってる。この使い方はうまいなぁと思った。

最後にホリーが自分を受け入れる描写を、猫を抱擁することで視覚的に表してる。わかりやすくていいね。

 

例のごとく、曲がよかった。これは『ハチクロ』でも出てくるからいつか聞いてみたかったんだ。これだけでも十分満足だ。


Moon River - Breakfast at Tiffanys