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語ることって大事

【考察と感想文】『メアリと魔女の花』虹と魔法にさようなら

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 『メアリと魔女の花』公開初日に見たんだけど、自分の中でいろいろ考えて、ようやくブログで書く気になった。あと最近このブログで書いてることってなんか堅苦しいよな、って思ったんで今回はゆるく書きます。考察もするけどなんかそれだけじゃ俺が書いててつまらんから感想文ってことにするね。なるべく図版を使うよう心がけてるけど今回はそれはなし。

 

 そういえばこのブログを開設したのは、『思い出のマーニー』を公開初日にみてビビッときたことを書き起こして発信したいって欲求から始まってるので、米林監督の作品には個人的な思い入れがあったりする。

 

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 マーニーは今でも好きな映画だし、応援のつもりでメアリ公開の一カ月前にニコニコ動画に動画upしたりなんかもした。この記事読む前にこの動画見てくれたほうが、話がよくわかると思うんでよければ見てください。この動画作るためにマーニーを見直してみて、いろいろ考えを整理できたと思う(好きだという割に見るのはこれが二回目だった笑)。この動画で語ったのは、ジブリと米林監督自身の関係をメタ的に捉えることで一つのドラマを作り上げたのが、マーニーであった、といったようなこと。ジブリを意識し過ぎな二番煎じに見える人もたくさんいるんだろうけど、むしろそれに特化したところから新しい意味を作り出したのがマーニーとメアリのすごさなんだと俺は思うんだなぁ。

 メアリはマーニーと似ている点とまったく対照的な点があって、前者は日常と非日常を往来する物語の構造、後者はファンタジー要素がミニマムだったマーニーとは対照的にメアリがファンタジー要素マックスだった点。マーニーって実は王道から遠ざかった果てにあるような映画なんですよ。だって鬱こじらせた少女がジブリみたいなファンタジーあるわけねえじゃん!、ん?ないよな?、やっぱあるの?みたいなことやって終わる映画だからね。メアリは、従来のジブリのように王道のファンタジー、冒険活劇だったから、全く逆に振れたわけだよね。けどね、やっぱりメアリも最後はジブリに感謝しつつも、それを遠ざけようとしてるがヒシヒシと伝わってきた。簡単に言えば、ジブリ無き今、俺らが生きていくにはメアリみたいに後先考えずに突っ込んで行くしかねえ!って話だったんですよ。

 今の義務教育受けてる子どもたちも実は状況が似てる、というかもっと過酷かもしれない。今後、30年で世界は全く別の世界になってる。そんな世界でも生きられるように生きる力を身に付けさせなきゃって今の教育やってるわけで、ジブリっていうこれまでの恵まれた環境はもうないんだってレベルじゃないんだよね、これからの子どもたちって。うじうじ考えてる暇なんてないまま状況が変化し続ける、それに対応してかなくちゃいけない、そんな世の中にこれから身を投じていかなきゃいけないわけですよ。魔法が無くなったって突っ込むんだよ!っていうね、行動第一主義が今後大事だよって、それが生きる力だっていうのがこの映画の主張なんじゃないかと俺は思いました。思い立ったら即行動のメアリと思い出を深掘りしていくマーニーってな感じで(マーニーは主人公じゃないけど)、すごく対照的だよね。

 

 ここから少し考察だけど、まず地味にうれしかったのがマーニーの考察で比較する作品として『オズの魔法使い』を挙げたんだけど(動画参照)、メアリでは明らかにオズを意識してるセリフがあった。さっき言ったマーニーとメアリが似ている点は、二作品ともオズと同じ物語の構造を踏襲してるから、っていう説明で納得がいく。メアリの場合は他の点でもオズと繋がってて、何と繋がってるかっていうと、それは主題歌。オズの主題歌は、Over the Rainbow、もしくは虹の彼方にっていう超有名曲。要約すると、虹の向こう側になんでも願いが叶う夢の国がある、いきたいなー、でも行けなーいって曲。メアリの主題歌は、SEKAI NO OWARIのRAINって曲なんだけど、これがまさにOver the Rainbowへのアンサーソングになってる。


SEKAI NO OWARI 「RAIN」 Short Version PV 主題歌映画「メアリと魔女の花」

内容は、夢の国なんて虹の向こうにないけど、それでも前向きに生きていこうっていう感じ。虹じゃなくて雨のほうが草木を育てるから役に立ってるでしょ、っていう実はかなり現実志向な曲なんだよ、これ。すげーリアリストだし、メロディもいいし、素敵やん。この歌の虹ってのは、魔法そのものだし、米林監督たちにとってはジブリなんだよな。だから虹綺麗なんだけどねって口惜しく歌ってるのがまた憂愁を誘うよね。

 で、米林監督って次何やるんだろうな、って話なんだけどね。米林監督の創作意欲がジブリだったっていうのはよくわかるんだけど、それもそろそろ頭打ちだろうから、実は勝負所って次なんだよな。これからコンスタントに続けるには、ジブリ以外のものが必要なわけで、どうするんだろうっていうさ。俺としては、もっと黒い部分を出してもいいんじゃないかなーって思うんだよな。もっと絶望のどん底から這い上がるような話が描けるポテンシャルを実は持ってるんじゃないのかなーって漠然と期待してます。

 

 といったところで大体言いたいこと終わり。また何か思いつけば随時追記していくんで、とりあえずここまで読んでくれてありがとうございます。ではまた。

 

【批評】『ドリーム』:「私たちのアポロ計画」でなぜ悪い??【邦題批判への反論】

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Hidden Figures | Teaser Trailer [HD] | 20th Century FOX

 

『Hidden Figures』こと『ドリーム』

 今回取り上げるのは、アメリカで2016年12月に公開、日本では今年9月に公開予定の『Hidden Figures』こと『ドリーム』です。まだ日本で見ることは出来ませんが、私は幸いにも少し前に鑑賞することが出来ました。アメリカでは『ララランド』を越える興行収入だったそうで、かなりの注目作でありながら社会派ノンフィクションという日本では地味に受け止められがちなジャンルの映画です。映画の内容は、アメリカとソ連による冷戦の真っただ中、二国間で宇宙開発競争を繰り広げていた時期のNASAを舞台に、職員として働く黒人女性たちが差別と闘って自らの夢を叶え、出世していくサクセスストーリーとなっています。

 

邦題変更騒動について

 この映画は、邦題がストーリーと整合性がないとしてSNS上で問題となったことで、日本の映画界隈で話題になりました。もともとの邦題は、配給元の20世紀フォックスによって『ドリーム:私たちのアポロ計画』に決定されましたが、これが批判を浴びた結果『ドリーム』に変更されました。邦題が批判されたのは、この映画で取り扱っているのがNASAによるアメリカ初の有人宇宙船の打ち上げを目指したマーキュリー計画であり、人類初の月到達を目指したアポロ計画ではない、というのが主な理由です。

 ここでひとつ疑問が浮上するのですが、なぜ邦題を批判する人たちは、まだ日本で上映されていない映画の内容を知っていたのでしょうか。まず思いつくのがアメリカや飛行機内などで鑑賞した人たちです。それに加えて、映画評論家の町山智浩氏によるTBSラジオの番組『たまむすび』で紹介されたことも一因として考えられます*1。この番組で町山氏は、映画がマーキュリー計画を扱ったものであることを明言しています。これによって多くの映画ファンの方々が映画の内容を知ることになったことでしょう。

 私はこのような経過を知りつつ、映画を観たわけですが、邦題については正直そこまで悪くない、それどころか良いとさえ思えました。

 

改変前の邦題の意図

 邦題への批判が相次いでいることを報じたBuzzFeed Newsは、20世紀フォックスに取材し、以下のような回答を得たと書いています。

この邦題はどんな経緯や意図で決まったのでしょうか? 同作を配給する20世紀フォックスの作品担当者に聞きました。

「映画の内容としてはマーキュリー計画がメインであることは当然認識しています」

「その上で、日本のお客様に広く知っていただくための邦題として、宇宙開発のイメージを連想しやすい『アポロ計画』という言葉を選びました」

原作のノンフィクション「Hidden Figures」(「隠された(人たち/数字)」のダブル・ミーニング、映画原題と同じ)では、マーキュリー計画に関するエピソードだけでなく、より前後に広い時間軸が描かれているそう。

「どちらも当時のNASAで並行して動いていた宇宙開発計画であり、最終的にアポロ計画につながるものとも捉えられる」と説明します。

邦題を決める際に「確かに懸念の声も上がった」としつつ、「作品の本質にあるのは、偉大な功績を支えた、世の中では知られていない3人の女性たちの人間ドラマ。ドキュメンタリー映画ではないので、日本のみなさんに伝わりやすいタイトルや言葉を思案した結果」と判断の理由を話します。

「ネット上で否定的な意見があることも確認していますが、こちらからコメントを出すつもりは現段階ではありません。この作品に限らず、映画は観る前も観た後も、さまざまな感想を持っていただくものと考えています」〔筆者注:この時点ではまだ邦題の変更は検討されていなかった。*2

20世紀フォックス側は、まず邦題にアポロ計画と入れた意図を観客のイメージしやすい言葉であったためだと説明しています。そして、物語との整合性については、映画がマーキュリー計画だけでない広い時間軸を扱っており、最終的にアポロ計画につながっているとして反論しています。また、最後の発言は、観る前と後では感想が違うだろうと言っているように聞こえます。

 要するに、見てくれれば分かると言っているわけです。確かにフォックス側としてみればネタバレするわけにもいかないですから、この取材への回答は相当困ったことでしょう。ただはっきり言ってこの回答は、観客を馬鹿にしているといった論調に油を注いだ結果となったことは想像に難くありません。

 ただ一応彼等の中では、マーキュリー計画を扱った映画であると知りながら邦題を付けましたし、物語の整合性があると考えていたようですから、一度立ち止まってフォックス側の意図をちゃんと理解しようとしてみましょう。

 映画がマーキュリー計画だけでない広い時間軸を扱っていると言っている点は、確かにそうなのです。というのも劇中では、アポロ計画に関する話題が出てくるからです(正確には人類の月への到達の話題であり、あたりまえですがアポロ計画という言葉はセリフとして出てきません)。宇宙開発競争の初期段階であるマーキュリー計画が進行する中で、自分たちNASAの最終目標が月への到達であることが語られます。つまり、登場人物たちはマーキュリー計画に取り組みながらも、既に月を目指していることが示されるのです。問題となった邦題について考えるときこれは重要な点となります。というか私は、これが映画の中でも最も重要な要素の一つだと思います。20世紀フォックスの人が言う通り、確かに映画の中では、マーキュリー計画と人類の月への到達は、「どちらも当時のNASAで並行して動いていた宇宙開発計画であり、最終的にアポロ計画につながるものとも捉えられる」のです。

 

彼女たちの黒人女性差別との戦い

 『ドリーム:私たちのアポロ計画』は、ただ「アポロ計画」とするのではなく、「私たちの」というワードを付けています。つまりこの邦題は、正確に言えば「アポロ計画」のことを指しているのではないことがわかります。ではなにを指していたのかと言えば、この映画の本来のテーマである、黒人女性差別の問題です。

 主人公の黒人女性たちは、数学や科学の才能を持っているにもかかわらず黒人女性だからという理由でNASAの中でも地位は低く不遇の扱いを受けていました。しかし、ソ連との競争という現実にアメリカ政府とNASAが直面したとき、有能であることが正当に評価されていくようになった結果、彼女たちの努力によって出世し、その能力を発揮することが出来るようになります。黒人と女性への二重の差別を受ける中で彼女たちが出世するのは、当時不可能と考えられていたにもかかわらずです。

 劇中の彼女たちを取り巻く日常の変化の一つ一つは、人類を宇宙へ上げることに比べたら一見些細なことなのですが、彼女たちの才能がなければマーキュリー計画は成功していなかったことを知る時、それらはまるで歴史的偉業のように見えてきます。日常という小さなスケールの変化と、宇宙開発競争という大きなスケールの変化という二つの強いコントラストが実は表裏一体の関係であったことが分かった瞬間にカタルシスがじわじわと感じられるのです。主人公が次第にその才能を発揮していき、人類の月への到達を目指していく姿は、アポロ計画によって月面に到達したニール・アームストロングの「1人の人間にとっては小さな一歩だが,人類にとっては大きな飛躍だ。」という名言を想起させます。この映画を観て、その一歩を彼女たち、そしてNASAの職員たちはこの時既に踏み出していたのだと、本当の歴史的瞬間に立ち会えたように思えるのです。それは邦題に「私たちのアポロ計画」とあればこその感動だったと私は考えます。

 

邦題の変更の是非

 20世紀フォックスが邦題の変更を発表した後、BuzzFeed Newsは続報の記事を出しました。この記事の取材に応じた町山氏は、ネット上での邦題への批判が「映画会社側の時代感覚のなさ、観客は知らないだろうという勘違い、そして、知らない言葉はタイトルに使ってはいけないという思い込み――この3点が組み合わさって起きた事態」といい、映画の内容を知らないユーザーをキャッチ―な言葉で呼び込もうとした安易な姿勢だと批判しています*3。しかし、邦題が観客を騙そうとし、馬鹿にしているという批判が妥当ではないことは、先ほど述べてきたとおりです。

 今回の騒動は、「ドリーム:私たちのアポロ計画」という邦題が、他の観客よりも先に映画の内容を知っていた人々にとってわかりづらく、しかも誤解を招きやすいと判断されたことが原因だと言えます。20世紀フォックスには、観客が邦題に込めた意図を読み取ってくれるだろうという希望的観測があったことも確かだと思われます。

 しかし私は、それでも邦題を変更すべきではなかったと思います。「ドリーム:私たちのアポロ計画」は、原題にはない独自の解釈を提示している点でかなりチャレンジングな邦題だったと言えます。フォックス側は、このことをもっとちゃんと説明するべきでした。『ドリーム』、これこそ最強にクソみたいな邦題です。今回の騒動で最終的に誰が幸せになれたのでしょうか。特にこの映画を高く評価し、広報活動など様々な貢献をして来たであろう町山氏にこう尋ねてみたいです。あなたの批判は、この映画にとって本当に必要でしたか?

 

*1:番組の書き起こしは、以下のサイトを参照。「町山智浩『ヒドゥン・フィギュアズ(邦題:ドリーム)』を語る」『miyearnZZ Labo』2017/4/11〈http://miyearnzzlabo.com/archives/42884

*2:「【更新】タイトルと内容が違う…?大ヒット映画の邦題「私たちのアポロ計画」に批判 配給会社に聞く」『BuzzFeed News』2017/06/8〈https://www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/dream-apollo?utm_term=.pbzqn2zwQ#.wgALqEP5e

*3:「女性向けはスイートに、誤解を招く表現…「アポロ計画」だけじゃない、映画邦題の問題点 町山智浩さんに聞く」『BuzzFeed News』2017/06/11〈https://www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/rocket-girls-machiyama?utm_term=.kyRXL387q#.xcXkawgEq

【ネタバレ考察】マッドマックス怒りのデスロード 反面教師としてのサンダードーム

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今日というか今さっきマッドマックス怒りのデスロードを見てきた。さすがの前評判だけあって素晴らしい出来だった。今回私は予習として前三作を見ておいたのでそれもあって今作を大いに楽しめた。これから見るという人もぜひ前三作を見てから本作を見ることをお勧めする。若しくは本作を見た後に見てもいいだろう。

というのも、前三作を見ればこの映画の本作がどうしてこれほどまでクレイジーなものに仕上がったのかがわかるからだ。特に三作目のサンダードームがあってこその本作だと思う。

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三作目のマッドマックス/サンダードームは1,2を見てきたファンには不評だった。その教訓を生かして本作が作られたのだと言っていいくらい反面教師としての役割を全うしている。

ここからは本作とサンダードーム両方のネタバレになるので注意されたし。

 

ではサンダードームが不評だった理由を整理してみよう。

 

1. カーアクションが全然ない。サンダードームの売りは1,2と異なりタイトルにもあるサンダードームという檻の中での死闘がメインになっている。といっても全くないわけではなくサンダードームの戦いとカーアクションが半々くらいでとても中途半端な構成だ。しかもカーアクションといっても車対車ではなく列車対車、もはやカーアクションとはいいがたい。これが不評の一番の理由だろう。f:id:noumos:20150720021200j:plain

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2. インターセプターが出てこない。インターセプターは1,2で主人公が乗っていた車で主人公のキャラ付けには欠かせないものであったが2で爆発してなくなってしまう。それでサンダードームではラクダにひかれた幌馬車に乗っている。1,2を見てきた人からすればなんだそれという感じだっただろう。せめてエンジンのついた車に乗れと。

 

3. ストーリーが複雑。サンダードームではバーターシティという町と砂漠のオアシスにあるこどもの国を主人公が行ったり来たりする。そして両者は全く無関係なのだ。ただでさえ要素が増えて複雑なのにストーリーが行き当たりばったりなもんだから余計訳が分からない。1,2は単純なストーリーになっていていい意味でバカでも分かる話になっているので、サンダードームを見て私が求めているのはそこじゃないと困惑する人は多かっただろう。しかもあれだけ苦労したのに最後、行きつく先には子どもたちの望んでいたものはなにもない。

 

4. 主人公がただのいい人。物語の中盤、主人公は子どもの国に流れ着く。そしてそこで原始的な暮らしをしている子どもたちのために行動するのだが、その行動原理がいまいちよくわからず、ただのお人よしにしか見えない。そしてこの国に着くまで主人公がロンゲで小汚い浮浪者みたいな風貌でかっこよくないのもマイナスポイントだ。

 

5. 人が全然死なない。この世界では一応秩序があり、町では掟もあって争いがないようにしているため1,2のように暴力に蹂躙される弱者なるものが存在しない。ここも主人公がお人よしに見えてしまう一因だろう。子どもたちは別に暴力にさらされているわけでもないし、主人公が助ける町の支配者を名乗っていた小人のおっさんは都落ちしただけなので自業自得だ。女性も出てくるがバーターシティの支配者として出てくるので弱者とはむしろ逆方向だ。

 

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6. ボスキャラが怖くない。サンダードームのボスキャラは女性であり、1,2の流れから次は女性となるのはわからなくはないのだが、人を殺すような描写ももちろんなく、あまりにも人間味があふれていて狂気を全く感じない。普通すぎるのだ。前半で主人公と接触して協力関係になってしまうのもいただけない。むしろ彼女を裏切った主人公が悪者のような印象を受けるほどで、これではボスキャラとして失格だ。前半のストーリーが二人の支配者が争うという構造にしたおかげで小物にしか見えなくなってしまっているのも残念なところだ。

 

といった具合で整理がついただろう。

ここまで言っておいて難だが、サンダードームは決して悪い映画ではない。三作中一番お金がかかっているだけあってセットや衣装も凝っているし、いいカットもたくさんあって映画としてはよくできている。ただ1,2という流れでこの作品をみると違和感がありまくりでどうしようもなくダメな作品になってしまうのだ。

 

 

ここから本作、怒りのデスロードを見ていく。さあサンダードームの教訓から本作はどうなったのだろうか。

 

1. カーアクションがすべて。本編の8割がカーアクションになっている。こりゃたまげた。

 

 

2. インターセプターが登場する。冒頭の入りには胸が熱くなる。劇中まったく活躍しなくても、この冒頭でおおマッドマックスが始まるぞ!イェーイ!となれるのでファンは満足であろう。

 

 

3. ストーリーが単純。バカでも分かる。行ってなにもなかったから戻ってくるだけ。それだけなのにドラマとして全く見劣りさせない手腕は素晴らしいの一言。

 

4. 主人公は最初は自分のために行動する。しかし結局自分には無益な人助けをしていて本作でもいい人だが、行動原理はわかるようになっている。自分の妻と子を救えなかったことを悔やんでいるというのが冒頭から描写されるので、後半の主人公の滅私奉公のような行動も無理なく受け入れられる。警察官の経歴を持つだけあって、なんだかんだでヒーローの役回りを演じてしまうのがマックスなのだ。

 

5. 弱者、本作では特に女性が蹂躙されている。冒頭のブクブクに太った女性たちが搾乳されているシーン。これほどインパクトのある蹂躙のされ方はないだろう。そして今作のボスのイモータン・ジョーの正室、側室のような女たちにはいやらしいデザインの貞操帯がつけられており、正室格の女は妊娠しておなかが膨れていてこれもまたインパクトがある。まさしく性奴隷だ。見ていて思わずうわっ…となる。

そして人がバンバン死にまくる。ウォーボーイという全身真っ白の男たちは車を走らせて戦い華々しく散ることが美徳なのだ。イモータン・ジョーを唯一絶対の神として崇めていて、どうみてもこれはBANZAIアタックだ。勇ましく戦って死んだら死んだ仲間たちとともに神として迎えられるとか言ってるし、ああこれはまずいな…と思いながらもやっぱりヒャッハーしてしまう。あんまりこういうことを言うと右の人に怒られそうだがそうなんだから仕方がない。しかも女だろうがお構いなく死ぬ。これぞ男女平等と言わんばかりに。慈悲はない。しかしフェミニズムへの配慮もちゃんとしているというかせざるを得なかった感があるが、いい具合にバランスを取っている。これは最近の映画の流行というか時代性だろうか。海外のフェミニストってそんなに怖いのかな。

 

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6. ボスキャラが超怖い。冒頭の群集の上に立つシーンで俺様はすごいんだぞとビジュアルとして視聴者に見せつけることに成功している。なにせ唯一絶対の神なのだから存在感が半端じゃない。もちろんのことながら極悪人だが、どこか人間味を感じるキャラクターは嫌いにはなれない魅力を持っている。そして主人公と全く接触しない。突然両者は対峙し戦うことになるので緊張感のある戦闘シーンを息をのんで鑑賞することになるのだ。

 

といったようにここまでやるかというくらい、サンダードームでの教訓が生かされていることがわかるだろう。

そのほかにも、前三作のパロディが随所に見られるため前作からのファンも大満足な出来になっているがここではそれをいちいち解説するような野暮なことはしないので実際に見て確認してほしい。

 

とここまで記事を書いて、まだ本作を見てない人に向けて書いているにもかかわらず、ネタバレをしているというよくわからない記事になってしまったが、本作のせいで頭がおかしくなってしまっているのだと笑って済ませてほしい。それくらい興奮させてくれる映画なのだ。

しかし三部作としてあと二作やる計画らしいので、ここまで一作目で成功してしまって後が続くのか、という心配はある。しかし、そのときはまたサンダードームのように反面教師として生かされればいいのだろう。駄作は駄作としてちゃんと役割があるのだ。なので気負いせずに次回作もマッドに作っていってもらいたいと思う。

 

 

『時をかける少女』 ≪白梅ニ椿菊図≫について

 細田守監督の『時をかける少女』が地上波ということで、まぁ私は見ないんだけどずっと疑問に思っていた作中に出てくる作品≪白梅ニ椿菊図≫について記事に書いてみよう。

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 そもそも作品の題名≪白梅ニ椿菊図≫は、なんと読めばいいのだろうか。

 「白梅」は、「しらうめ」「はくばい」と読む。尾形光琳の≪紅白梅図屏風≫(こうはくばいずびょうぶ)や、呉春の≪白梅図屏風≫(はくばいずびょうぶ)などがあるから、「はくばい」と読むほうが一般的と言えるだろう。次に「ニ」は、これ漢数字ではなく、カタカナで表記されている。そして「椿」は、「つばき」「ちん」。「菊」は音読みの「きく」しかない。

 白梅、椿、菊と植物の名称が並列した題名なら「はくばいにつばききくず」、もしくは「はくばいにつばききくのず」と呼ぶのが順当であると思われる。ただ、どこに白梅や椿、菊が描かれているのかはあまり判別できないし、それらがメインモチーフであるとも思えないため、題名から作品の意図を読み取るどころか解釈に混乱を招いている。作者不詳ということであるから、この題名は後の人が付けたことが想像できるが、どこからこんな題名が出てきたのかは謎だ。

 画面に注目してみると、中心には女性が、その胸のあたりに四つの球体を抱擁するように描かれている。その球体は青色で、地球を連想させる点でどこかSF的に見える。助成の周りには、雲のようなものが辺りを一周して囲んでいる。よく見るとそれと一緒に花や鳥のような生き物もいるが、殆んど同じ色なため判別しにくい。

 ≪白梅ニ椿菊図≫は、劇中で未来人の千昭がこれを見るためにやってきたという設定で登場するのだから特に重要なもののはずだ。しかし、この作品に関する言及は、ほとんど成されず、登場する機会もほとんどない。唯一、素性が明かされるのは、この絵の修復を担当した主人公の叔母の以下の台詞である。

作者もわからない。美術的な価値があるかどうかも今のところはわからない。〔中略〕この絵が描かれたのは何百年も前の歴史的な大戦争と飢饉の時代。世界が終わろうとしてた時、どうしてこんな絵が描けたのかしらね。

ところが、実際に作品を見てみると、どう見てもここ最近に描かれた作品にしか考えられない。数百年前に描かれたというのはどうもリアリティーに欠けるのである。

 ≪白梅ニ椿菊図≫の表現に時代考証が伴っていないことを確認するために、実際に歴史に残る作品と比較してみたい。もちろん、時代考証が正確ではないことをもって批判する意図は、まったくない。狙いは、この作品の特殊性を浮き彫りにすること、と言えば仰々しいが、異質感を読み取っていくことにある。

 下に示したのは、日本画家の狩野芳崖(1828-1888)が死の直前に描き上げた≪悲母観音≫という作品である。芳崖は、日本近代日本画の先駆けと言える人物として歴史に位置付けられている。つまり、この絵は西洋絵画の技術を取り入れた、当時の最先端な表現で描かれている。

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 ≪悲母観音≫の幼児を包む球体を見てもらえればわかりやすいと思うのだが、いくら西洋の遠近法を取り入れたと言っても、モノの輪郭は線的で境界線がはっきりしていることがわかる。それに比べて、≪白梅二椿菊図≫の球体は、境界線があいまいであり、≪悲母観音≫での遠近法をさらに推し進めたもの、徹底したもののように見える。意地悪な言い方をするが、この作品は約百年前すらも遡ることが出来ないのである。先ほども言ったが、『時をかける少女』という映画において、この絵の時代的な正確さはどうでもよいのであって、重要なのはそこに込められた意味である。

 次に、女性の周囲を囲む雲のようなものに目を移すしてみると、こちらは球体とは異なって輪郭線がはっきりしている。さらに女性の描写は、かなり古いもののように思える。ただ、古代の絵がこんなにパースがしっかりしているわけではないから、時代考証云々というよりもビジュアルとしてそう見えればいいのだろう。

 以上、≪白梅二椿菊図≫の描写についてみてきた。これらのことから、この作品は、様々な時代の表現を混在させているという時代横断的な特徴があると言えそうだ。『時をかける少女』という作品が時間を横断するように、この絵も画面の中で時代を横断しているのだ。

 といったところで、この絵のSF的な要素が見えてきたように思うので、結論にしておく。

【考察】アニメ艦これ 敗戦のトラウマとの戦い

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ブラウザーゲームである艦これ、またそれを原作としたアニメの考察していくことで

なぜこのようなゲームが誕生し今もなお人気を博しているのか、またアニメになることによってわかるこのコンテンツのテーマを考えていきたいと思う。

 

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【考察】押井守 je t'aime 愛す、しかし愛されない。

まず思ったのが、これ押井守作品の中で一番直球なんじゃないか?ということだ。

どうやら監督本人の発言によると人間が存在しない世界でも愛は成立するかというテーマのもと制作したらしい。

 

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【考察・解説】 「思い出のマーニー」 マーニーとは誰だったのか 【批評】

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思い出のマーニー」を考える

思い出のマーニー」を見てきた。同時期に公開している「アナと雪の女王」とかぶってるなんてことも言われているが、私はアナ雪は見てないので何とも言えない(追記:見たけど全然似てなかったね)。しかしまあこの映画は地味だね。しようがないくらい地味で宮崎映画のようなカタルシスはない。そして、米林宏昌監督に次があるのかは正直微妙だ。ジブリ解散説も浮上しているし、おそらくないんじゃないかな…。まあそんなことは置いておいて、この映画体験はなんだったのか、その答えを求めて「思い出のマーニー」について考えていこうと思う。

 

 劇中では、これまでのジブリ映画を意識していることが伺えるシーンが随所にちりばめられている。ところどころにそれらを彷彿とさせるシーンが含まれているのだ。

 

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 「風立ちぬ」を見た方はすでに気づいているかもしれないが、「風立ちぬ」のポスターにもなった里見菜穂子がキャンバスに向かっているシーン。それと劇中に登場する絵を描くおばあさんのシーン。このシーンは気にかかった人も多いだろう。 人生の絶頂期とも呼べる時期を過ごす里見菜穂子と、年を取り隠居生活を送っているかのようなおばあさん。両者の対比が際立っている。

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  そして、田舎に休暇を過ごしに来るというのは、「おもいでぽろぽろ」の設定にも似ているし、冒頭の車が荷物でごった返すのは「千と千尋」の冒頭のシーンによく似ている。友達との別れを惜しみながら新しい引っ越し先にやってきた千尋と、理解者の居ない鬱屈した現実から逃げ出すように田舎へやってきた杏奈。この両者の新しい場所へやってくる動機が対比されている。 

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 階段を駆け下るシーンは「耳をすませば」のシーンと似ていることがわかると思う。 見比べてみると両者の差がとても残酷に見える。 夢を抱く少女と、夢らしい夢を抱けない少女との対比となっている。

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 湿っ地(しめっち)屋敷のパーティーのシーンは、明らかに風立ちぬのシーンを意識していることがわかるだろう。風立ちぬカストルプは気さくな人間であるが、マーニーの父親には冷徹さを感じる。

 他にもボートで海を行ったり来たりというシーンや、気付いたら海が出来ているという場面は、「崖の上のポニョ」のようでも「千と千尋」のようでもある。近道の雑木林に入っていくシーンは、「となりのトトロ」を思わせる。しかし、この先に何かがありそうな近道を行くとなんにもないし、いつのまにか海が出来ていてもおもちゃの船を大きくしてくれる金魚もいない。杏奈は、これまでのジブリ映画のような壮大なスペクタクルに巻き込まれることもないのだ。

 注目すべきなのは、「思い出のマーニー」では、これまでのジブリ作品を意識したと思われるシーンと、位置も方向も、そして意味合いも全く逆になっていることだ。これには、理想とは正反対の現実を描く意図が見て取れる。この映画では、今までのジブリ映画を現代の子どもの経験に当てはめようとしている。それも、リアリティーを逸脱しない微妙なラインでこの追体験が行われている。空も飛ばなければ、動物も登場しないのは、それが現代の子どもにとってのリアリティーではないからだ。 米林監督は、映画一本で世界を変えようなんて思っていないと述べている。

僕は宮崎さんのように、この映画1本で世界を変えようなんて思ってはいません。ただ、『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』の両巨匠の後に、もう一度、子どものためのスタジオジブリ作品をつくりたい。この映画を見に来てくれる『杏奈』や『マーニー』の横に座り、そっと寄りそうような映画を、僕は作りたいと思っています*1

これまでのジブリ映画のような壮大な世界観を構築しようとはそもそも考えておらず、むしろ残酷ですらある現実を意図的に描いている。この映画では、見に来てくれる子どもたちにとっての現実を描こうとしているのだと考えられる。本作の美術監督をいままで実写映画の美術をやってきた種田陽平に任せ、ある意味異常なまでのリアリティーを追及しているのはこのような意図があったからだろう。なるべく強調的なアングルを使わないように配慮がなされているのが上の画像からもわかるし、色彩の明度をかなり落としていることもおそらく意識的にやっているものと思われる。これまでのジブリ映画を現代の子どもの象徴としての杏奈に追体験させることは、ファンタジーと現代の子どもの現実との対比として機能している。

 

マーニーと宮崎駿の二面性 マーニー=宮崎駿

 ここで宮崎駿をやり玉に挙げるのは、強引かと思われるだろうが、米林監督にとって宮崎駿は「アリエッティ」の監督に自身を抜擢した人物であり、アニメ業界へ入るきっかけを与えた偉大な存在である。また、先に指摘したように、この映画自体がこれまでのジブリ映画を意識していることからすれば、ジブリを作り上げた宮崎駿への意識も当然あるだろう。

 マーニーという人物像は、二つの側面を持っている。 というのは、主人公が出会う理想的なマーニーと、物語の終盤におばあさんから語られる、実際は家族とうまくいっていなかったマーニー、二つの側面に分けることが出来るということだ。 実際のマーニーは家族とうまくいっていない。その描写には、マーニーが特に娘とうまくいっていない描写が強調されている。そして、その理由は、マーニーが娘を自分の手で育てなかったからだと説明されている。

 同じように宮崎駿にも、一般の人が宮崎映画を見て抱いている理想的な人物像と、実際の人物像という二面性がある。実際、宮崎駿も家族、特に息子の宮崎吾郎とはうまくいっていない。宮崎駿宮崎吾郎より仕事を優先して、あまり関わりを持たなかった。これは宮崎吾郎自身が語っている*2*3

 理想的なマーニーは、主人公に夢の中でその名の通り夢のような体験をさせてくれる。これを宮崎映画だと考えてみよう。私達が宮崎駿の映画を見ることは、杏奈がマーニーと夢の中で出会うことと同じ作用をもたらしていると言えなくはないだろうか。見ているうちは夢のような思いをできるが、現実に戻るとそれこそ杏奈が直面していたような現実に戻るわけだ。そして、次回作はいつやるのかと、期待を寄せるのである。

 

杏奈=米林監督の図式

 主人公の杏奈は、劇中の中盤にマーニー、そして湿っ地(しめっち)屋敷をスケッチブックに描く。 そのとき登場するおばあさんに、あの家は好きか、と聞かれて杏奈は好きだと答える。しかし、おばあさんから屋敷はまもなく建て替わると明かされる。おばあさんはだからこの絵を早く描き終えなければ、と言う。この場面は、なんだか思わせぶりだ。

 ここからさらに、マーニー=宮崎駿という図式更に展開させて、この映画と米林監督の周辺事情と対応させてみよう。湿っ地(しめっち)屋敷をスタジオジブリに置き換え、杏奈を米林監督に、このマーニーの素顔を知る事情通のおばあさんをプロデューサーである鈴木敏夫に置き換えてみるのも面白い。杏奈がマーニーの家を訪れると、さやかに「あなたがマーニーなのか?」と聞かれて杏奈は驚く。このセリフを「あなたが宮崎駿なのか?」というセリフ言い換えてみてもいいだろう。つまり、宮崎駿の後継者問題として捉えてみてもいい。さやかにこれを問われたとき、なぜか杏奈は回答を保留する。杏奈はマーニーの日記を読んだ後でこれを否定することになるが、その過程がまた思わせぶりだ。米林監督(杏奈)がジブリにとっての宮崎駿のような存在ではないと確認する過程、という個人的な問題を物語に対応させたと受け取ることもできる。監督自身の思いを登場人物に投影するのは映画の常套手段である。(千と千尋の窯じいや紅のポルコを思い浮かべてみよう(笑))

 そう考えると、屋敷でのパーティーで花売りをするシーンはとても意味深に見えてくる。あの花はムシャリンドウだそうだが、それをマーニーから手渡され、杏奈は花売りをさせられた。そうしたら、大人たちがにこやかに、しかし恐ろしく、札を差し出しながら杏奈の周りを取り囲むのだ。これは、米林監督が宮崎駿に「借りぐらしのアリエッティ」を任されたときのことを言っている、というのは考えすぎだろうか。

 監督は、この映画を作るに当たって、脱宮崎を宣言している。

宮崎さんがどう思うか。スタジオジブリがこれからどうあらねばならないか。 そういうところは意識せずにつくりました*4

これは、ジブリがこれからどうあらねばならないのかではなく、いままでジブリとは、そして宮崎駿とは米林監督自身にとってどんなものだったのか、それを踏まえてこれからいかに生きていくのか、という非常に個人的なテーマがあったということだろう。

  

思い出のマーニー」のテーマ マーニーとは誰なのか

 では、この映画で鑑賞者に向けられたメッセージとはなんだったのか。 米林監督の目指した「子どものためのスタジオジブリ作品」とはどのようなものなのだろうか。

 この映画では先に述べたこれまでのジブリ映画と若者の子どもとの対比によって、鑑賞者が直面する現実を描いている。その中にひとつだけマーニーというファンタジー要素を挿入している。それによってマーニーという存在の異質感を際立っている。マーニーという存在に、米林監督は個人的に思い入れのある宮崎駿という存在を当てはめるように、鑑賞者は自分にとってのなかけがえのない作品たちを当てはめることができる。そして、マーニーに見られる二面性は、その作品がかけがえのないものであると同時に、架空の物語であるという残酷さを表している。サイロにマーニーと一緒に行くのは、杏奈ではなく和彦なのだ。

 このことから見えてくるのは、現代の子どもにそっと寄り添ってくれるもの、それは、自分にとってかけがえのない作品たちであるという主張であり、それらは大人になる過程においてだんだんと卒業を果たさなければいけないものたちであるという主張である。

 これが鈴木敏夫の言う「思い出のマーニ―」のテーマ「孤独」に繋がっている。

「今回、僕らが作っている『思い出のマーニー』もそれ〔孤独:筆者注〕がテーマになっている」 “孤独”というテーマについて、「いろいろやってきているうちにそうなっちゃった。世の中が変わって、映画やテレビは大勢や家族で見るものだったけれど、今ネットは個人でするものになっている。技術革新によって人々の暮らしが変わって、そんな時代に彼の映画は意味を持つと思う」*5

 現代に蔓延する「孤独」に癒してくれるもの、それは家族でも友達でもなく、物語である。しかし、それは必ずしも寄り添い続けてくれるものとは限らない。それに気づいたとき、杏奈は裏切られた気持ちになるが、最後にはそれでもマーニーを、この物語を愛し続ける、という結論を導き出す。それが終盤のボートの上で、無口なおじさんとさやかと杏奈の三人で語り合い、今度の夏休みもここに戻ってくると約束するシーンへと繋がっていく。杏奈は、マーニ-という体験を通して、現実を再認識することができたのである。

 

ポスターに込められた意味

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 杏奈がマーニーの絵を描くこと、つまり自分の好きな作品を描くことは、最近のアニメーションや漫画の二次創作に見られるように、身近で行われていることだ。そこで、上に示したポスターの意味を考えてみよう。 このポスターは、マーニーしか画面に配置されていない。そして、下に示したもう一つのポスターは、セル画であるのに対して、このポスターが手書きである。このポスターのマーニーは杏奈が描いたものなのだとしたら、という仮定は、杏奈が絵を描くことが好きなキャラクターとして描かれていることからいえば不自然ではないだろう。米林監督は、杏奈というキャラクターを作るきっかけを以下のように述べている。

でも、鈴木さんからぜひやってくれないかと言われて、何点か絵を描きながら思いついたのが、杏奈を"絵を描く女の子"にすればどうかということ。そうすれば、杏奈が物を見ている目で、杏奈の心の中を描けるんじゃないかと思い、映画を作ろうと決意しました*6

「あなたのことが大すき」という言葉は、一見マーニーから発せられた言葉のようにも見えるが、この絵を描いた杏奈の言葉と考えたほうがしっくりくる。 

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 このことを踏まえれば、セル画のポスターに書かれている言葉、「あの入江で、わたしはあなたを待っている。永久に――。」は、マーニーの言葉として受け取ることができる。マーニーを物語として捉えるなら、「永久に」という言葉の意味もおのずと見えてくる。物語は人々によって引き継がれていく。おそらく、杏奈が死んだ後もそうだろう。本を開けばいつでも会える。「永久に」というフレーズは、そんな安心感を与えてくれる。

 劇中で繰り返される、入江を船で往復する行為は、向こう側、つまり黄泉の世界を暗示している。この暗示は、死を超越した存在である「物語=マーニー」に触れる、その体験を可視化しているように思える。この世とあの世との越境は、ある意味で不気味さを伴うにしても、その描写は私たちを優しく包み込むような童話的な美しさにあふれている。

 

おわりに

 「思い出のマーニー」は、子どもたちが夢を見て、いずれ卒業する、その成長の過程に焦点を当てている。これと似たような構造の物語に「オズの魔法使い」がある。「オズの魔法使い」は、ドロシーという少女が竜巻に飛ばされてオズの国へ行き、大冒険を繰り広げて、最後にまた家に戻ってくるというストーリーである。ドロシーははじめ、家を出ていきたいと思っていたが、オズの国へ行くと、だんだん家へ戻りたいと思いを募らせるようになり、家に戻ってくると、やっぱり家が一番だと安堵する。これを少女がオズの国という「夢」から卒業し、家という「現実」を直視するようになる成長のお話と見ることができる。

 「思い出のマーニー」と「オズの魔法使い」は、ストーリーにおいて基本的に同じ構造である。しかし、杏奈がドロシーと違うのは、オズの国(夢)に留まりたいと願いながらも追いやられてしまう点だ。この映画では、「夢」が手放しがたいもの、手放すには苦痛が伴うものとして描かれている。そこにこの映画の時代性が見出される。

 では、マーニーとは、現実から逃げたいと願い、自分の居場所を物語に求めた現代の若者のただの「夢」だったのか、といえばそうではない。「思い出のマーニー」は、その題名の通り、マーニーを「思い出」として捉えている。マーニーをオズの国のように過ぎ去ってしまう「夢」として捉えるのでなく、自分を形作っている「思い出」として受け止めることで成長する姿が描かれているのである。

 劇中で語られるマーニーと杏奈が祖母と孫の関係だったという事実は、時として不可解なものとして受け止められてしまうが、肯定的に見るならこれは精神的なものとして捉えるべきだろう。私達の一部を、この「思い出」たちが形作ってくれているのだと。

 

*1:映画.com速報、2014年4月16日、米林宏昌監督「思い出のマーニー」にかける並々ならぬ思い、http://eiga.com/news/20140416/2/

*2:ゲド戦記監督日誌、 2006年2月22日、第三十九回 父としては0点、監督としては満点、http://www.ghibli.jp/ged_02/20director/000314.html

*3:ゲド戦記監督日誌、2006年2月24日、第四十一回 作品だけが父を知る手段だった、http://www.ghibli.jp/ged_02/20director/000318.html

*4:デイリースポーツ、7月15日(火)、ジブリ最新作は“脱宮崎” 宮崎駿監督の意向を“無視”!?、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140715-00000059-dal-ent

*5:ORICON STYLE、05月29日、ジブリ思い出のマーニー』、テーマは「孤独」鈴木P明かす、http://www.oricon.co.jp/news/2037982/full/

*6:マイナビニュース、2014/07/03、(米林監督) ジブリ最新作『思い出のマーニー』宮崎・高畑両氏も絶賛、新生ジブリ作品の魅力、 http://news.mynavi.jp/articles/2014/07/03/marnie/