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語ることって大事

【短い感想】『ブレードランナー2049』(2018)

はい、ブレランですね。もうそろそろ興行が終わってしまうと知って、焦りました。

見る前に、前作を復習しようと思ってTSUTAYAに行ったら全部借りられてて、しょうがないからファイナルカットのBD買いました。メイキングも見れたので、結果的に良かったかな。

 

ブレランは、人間とは何か、という根源的なテーマを扱っているけど、これは今作でも継承されてたね。じゃあ、一作目となにが違っているのか。

 

一作目のブレランは、もっと長く生きたいと願うレプリカントたちのあまりに人間的な生への衝動を描いたよな。一方、今作のブレランは、己の使命を己で選択し、命を全うするレプリカントを描いていた。だからこそ今作の主人公は、デッカードではなくレプリカントである必要があったんだね。

自分の命の在り方を自分自身で決定するあまりに人間的な姿とその高潔さに感動したよ。映像の美しさも相まってね。

 

主人公のジョーは、最後レプリとしての使命(デッカードを殺すこと)ではなく、己の使命(彼を娘に合わせること)を全うして死んだ。それが彼を人間たらしめたってメッセージだよね。

人間は死にざまが肝心だって誰かが言ったけど、まさにこの映画はそれを体現してたと思う。

一作目のように長く生きられない自分の運命に抗おうとすることから、今作は自分がどう生きるのかという問いに答えを出すってところに「人間とは何か」というテーマを昇華させてた。

この点に関しては100点満点だよ。感動させられた時点でもう手放しの称賛を送るしかないよ。

 

ではジョーを人間たらしめたのは、何だったのか。これは思い出なんだと思う。懐かしい思い出をもち続けることで人間は人間らしく生きられるのだ、そう言いたいんだと思う。

彼はデッカードの娘の思い出を移植されていた。たしか、娘を匿うレプリたちの偽装工作の一環で彼は誕生した、って話だったと思う。

ジョーの女上司は、これまで会ったレプリたちの中で一番人間らしいと言っていたよね。

それはたぶん、ジョーの持つ思い出が現実にあったデッカードの娘の記憶から出来ていたからだろうね。通常レプリの記憶は、人工的に作られたものだけど、彼のはそうじゃなかった。

人間は思い出に生きるってメッセージは、ジョーが愛してた彼女がAIだったことからも描かれてたね。自我をもったAIは、肉体をもたないだけでほとんど生の人間に見える。このAIは結局プログラムでしかないはずなんだけど、ジョーは彼女を愛していたのは事実なんだよ。

終盤に彼女を失ったこと、その痛みを知ったことでジョーは己の使命に気づく。そのことを示すは、AI彼女の広告(巨大でコミカルなホログラム)がジョーを慰めるシーンだろう。

こんな一見くだらないものを、ジョーはそれでも愛していた。そこでジョーは、娘に一度も会えないまま、これから自分に殺されるデッカードに自分を重ね合わせたんだろうとわかるよね。

 

デッカードの娘を匿うレプリたちは、娘が持つ生殖機能を自分たちの人間の証として捉えていたよな。たぶん彼女の血を絶やさないように守って、レプリたちの希望の象徴に仕立てあげたかったんだろうね。

しかし、それはレプリカントという種全体のスケールの話だ。ジョーの中に芽生えたのはもっと個人的な感情だった。

それは、自分がデッカードの息子ではないかという疑問だよ。ジョーデッカードとの殴り合いは、まるで父と子の喧嘩のようだったでしょ?(鉄砲玉まで撃ってたけど)

二人の間の微妙な距離感も親子関係として見た時、なんともいえないリアリティーを感じたよ。頑固オヤジに久しぶりに会いに行った息子みたいなね(笑)それにしてはジョーが冷静過ぎだったかもしれないけど。

 

ジョーデッカードに見せる思いやりは、まさに息子のそれだった。彼にとって欠落していた思い出が、そこで埋め合わせられたんだよ。二人は実際の親子ではなかったんだけど、じゃあジョーの思いやりは偽りだったのか。それが真実だったことが、ラストで証明されるわけだよね。

では己の使命のために死んだジョーは、はたして幸せだったのか。

人間は思い出を完結させるために生きているわけだけど、それは人を幸福にしてくれるのだろうか。

答えは、目に見える絶望感の中にあえて見出さなくてはならないってことなんだと思うよ。

 

 

ここまで読んでくれた人に、豆知識ね。

 

劇中、ジョーデッカードが酒を飲んでた部屋には、19世紀イギリスの風景画家ターナーの絵が掛かってたよ。この絵だけど気付いた人いるかな。

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雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道(1844)

 

なんでこの絵が掛かってたかっていうと、これは一作目ブレランの構想段階であったシーンに似てるんだよね。

今作の冒頭の小屋でのシーンも実はそうなんだ。スープがコトコトしてるところにレプリが入って来て、ブレードランナーがそいつを撃ち殺すっていうね。

その小屋の前を汽車が通り過ぎるって構想だったらしい。ソースはファイナルカットのBDに同梱されてたメイキングビデオだよ。

かなり突拍子もない幻想的な風景だよね(笑)

 

このターナーの絵が掛かってたのは、きっとそのオマージュだと思うよ。

 

 

【短い感想】『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016)

はい、岩井俊二監督のやつね。去年の作品か、意外と最近だな。

岩井監督の存在は今年知りました。しかも数か月前。夏にアニメ版『打ち上げ花火』をみるために予習としてドラマ版をみて、それから『リリィシュシュの全て』『花とアリス』『市川崑物語』をみたって感じ。ハマりそうでハマらないそんな距離感がある。

みるたびに心がえぐられるので、かなりしんどい。

 

夏にね、暇だったから夜中に2ちゃんねるやってたんですよ。もう今では5ちゃんになったんだっけ?まあいいや。そこで明日彼氏とセックスするんだけど・・・っていってる女子高生とお話ししたんだよ。話を聞いてると彼氏からコクられて、そんなに好きとかじゃないけどお試しで付き合って、今度セックスするんだと。

好きじゃないのにセックスはするのか・・・みたいなことを僕はグチグチ言ってみたけど、彼女はそれでかまわないらしい。それと、彼氏とはそのうち別れるだろうな、とかなんとかいってて、こっちがひたすらもやもやするだけだった。

ちょうど『リリィシュシュ』を観た直後だった僕は、そこで彼女に「いま岩井俊二の映画をみた後みたいなモヤモヤした感じだ」みたいことを確か言ったんだと思う。そしたら、彼女は岩井俊二のファンで、逆にお気に入りの作品をおすすめされるという、なんだこれっていう経験がありました。ちなみにおすすめされたのは『花とアリス』。

それから岩井の映画を見るたびに、彼女はいったいどんなセックスをしたんだろう、っていうようなことを思い出すことになってしまった次第です。君に幸あれ、とそのたびに思ってます。

 

なんでこんな話をしたかと言うとね、僕にとって岩井映画ってセックスのイメージが強くあるんですよ。『リリィ』も『リップヴァンウィンクル』もセックスもしくはレイプのところで一番心がえぐられたんで。ようするに女性の不本意なセックスをみると動揺しちゃうんだよね。

セックスシーン自体は嫌いじゃないよ。むしろ好きな映画もあるし。相思相愛なセックスは安心する。『グッドウィルハンティング』と『アバウトタイム』なんかがそんな感じかな。

 

そろそろ本題に入らなきゃ。

話自体は正直なんだこれ…って感じでポカーンだった。

整理しよう。

主人公の七海は、ネットを通じて彼氏と出会い、結婚することになった。そして、結婚式で出席する親族を水増しするため、アムロというなんでも屋の男に親戚代行の手配を依頼。新婚生活は順調と思いきや、アムロの思惑によって、七海と夫は別れることに。アムロという男は、金の為なら何でもやる男なだけで、悪人とは言い切れない、そんなキャラクターだということが、終盤あたりでやっとわかってくる。最初はほんとクズ野郎なんだと思ってた。

最初アムロの掌の上で七海が踊らされて不幸のどん底なのかと思いきや、あまりそこは重要ではないみたいだ。夫との離婚は、七海にとって自分の居場所を失いどこにいるのか分からなくなるという局面であり、それ以上の何かではない。

ただ僕にとっては、七海が知らない男から身体の関係を求められるところがこの映画の一番の山場であった。心が揺れ動く場面であった。なので正直ノイズが大きすぎた。

 

本当に重要なのはその後、七海は真白という女性と出会い彼女と生活するようになってから。二人はだんだんと距離を縮めていくが、真白は死んでしまう。

そこで七海は目が覚める。彼女は真白との生活が夢か何かだったように思えてならない。

 

物語の中で一貫しているのは、わかりあえなさ、他人を理解しようとしてもできないといった問題。

人はいろいろな仮面を複数持っている。それがこの映画ではSNSのアカウントだったり、親族代行だったりする。

でも、なにか一つの本当の自分なんていないんだろう。どれも自分であるからには、自分とはその集合でしかないということになる。

誰かに必要とされる自分をいくつも作りたい、持っておきたい、確かにそうだな。

いらなくなった自分は、アカウントを削除する、それでいいのかもしれない。

真白が死んだとき、七海は真白に必要とされていた自分を失った。それはある意味で死なのだと思う。

その思い出を生きる糧にしてさらに強く生きていくのか、受け止めきれずに枯れていくのか。

つらい思い出とは、人生の肥料なのだと、そう思った。

【短い感想】『ティファニーで朝食を』(1961)

過去の名作、今更ながら見てみた。

名作と言われるだけあって、見ごたえがあった。

きらびやかなイメージがあったけど、実際見てみて、全然印象が違っていた。

 

軽く映画の説明。

オードリーが演じたホリーは、男をたぶらかしながらお金を貢がせてその日ぐらし、しかも玉の輿を狙いという、まあこの時点でかなりドロドロした話だなって思うよね。

で、お相手の男ポールも、売れない作家で金持ちのおばさんと不倫&援助交際をしているという、これまたドロドロ。

 

二人とも一見精神的な余裕も教養もありそうな雰囲気だけど、ポールは普通にいい男を最後まで演じる一方で、ホリーは破綻していく。なんだろうね、この違いは。

ポールも少しは小説の筆が進まないことに焦りとかないのか?という疑問は沸いた。こいつ最後まで余裕ありすぎじゃね?正論ばっか吐きやがって、そういうお前はどうなんだ?って思うのは僕だけでしょうか。

それと、オードリー・ヘップバーンの体型が少しと言わずかなりガリガリに痩せ細ってたのが印象的だった。劇中で、田舎からホリーを迎えに来たおっさんが彼女のことを「骨と皮だ」って言ってたけど、あれはどういう意味なんだろうね。 細くてかわいい女性像を押し出そうとしているのか、批判しているのかよくわからなかった。たぶん、斬新なファッションできらびやかにホリーを演出しつつ、方便として「骨と皮」って言ってるんだろうな。個人的には、「かわいい」って言葉自体が僕はそもそも好きじゃないし、今回みたいに媚びてるパターンは特にそう。だから「骨と皮だ」という意見に賛成する。オードリーの出す独特な雰囲気は、別に痩せ細った体型だからあるのではないと思う。

 

あと、おまけみたいな日本人描写は最悪だった。これは差別以外の何物でもない。正直いって冒頭からかなり不愉快な気分になったよ。wikiを見てみたらやっぱり批判されているみたいだ。日本人差別って戦前からずっと根強く残ってるんだなあっていうのがわかって、参考にはなったけどね。

 

ここまで文句を言っておいて難だけど、内容自体はとてもよかった。不愉快な気分がある程度無くなるくらいのパワーはあった。

お金が全てだと思ってる女と、愛のために生きたい男とのせめぎ合い。いまとなってはよくあるパターンになってしまっているくらいの王道の原典。

 

ティファニーは資本主義の象徴みたいに描かれてる。

方便としてサービス精神見せてたけど、でもティファニーはホリーの儚い夢であり、破滅の原因なわけだ。

ここが僕のイメージと全く逆だった。もっときらびやかで楽しーって感じの映画なのかと思ってたから。

しかも、パッケージになってるホリーがティファニーで朝食とってるシーンは劇中になかったのが驚きだった。ないんかいっ!

 

ホリーが飼ってる猫は彼女の立場を象徴する役目を負ってる。この使い方はうまいなぁと思った。

最後にホリーが自分を受け入れる描写を、猫を抱擁することで視覚的に表してる。わかりやすくていいね。

 

例のごとく、曲がよかった。これは『ハチクロ』でも出てくるからいつか聞いてみたかったんだ。これだけでも十分満足だ。


Moon River - Breakfast at Tiffanys

 

【短い感想】『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』

久しぶりに、TSUTAYAへ行った。ずっと財布にあったタダ券があったので、新作のこの作品を借りてきた。たまにはニューマンドラマ系も見ようかと思って。

 

で、なんかわかるようなわからないようなお話だったので、気になってググって見て、

こちらのブログを読んでスッキリした。

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う - secret boots

邦題のタイトルは、死んだ主人公の妻が残したメモ「If it's rainy, You won't see me, If it'ssunny, You'll Think of me」がもとになってる。「you」は主人公のことで、「me」はメモを書いた妻のことなんだけど、邦題だと主語が主人公になってるから意味が全然違っている。

それ自体はべつにいいにしても、このメモが出てきた時の字幕も邦題のまんまなので、かなり意味不明になってしまっていた。

 

まずはストーリーを追いながら。

冒頭で主人公と妻が交通事故にあい、妻は死に、主人公はほぼ無傷で生き残る。主人公は妻が死んでも泣くことが出来ず、彼女にたいして愛がなかったのだと思い始める。

主人公が鏡に向かって無理に泣こうとするしぐさが印象的だったな。つまり不感症な人間で、自宅の家具なんかもすごくデザインチックで、この時点で、ああ『ファイトクラブ』だなって思った。

 

主人公は、葬儀が終わった次の日も普通に出社して仕事を淡々とこなせちゃうんだけど、そんな自分がおかしいことにもだんだん気づいていく。そこで、いままで気にしてなかったものが気になり始めて、例えばトイレのドアの軋む音とか。だから、いろいろ気になったものを壊し始める。

これは、行動自体は物理的だけど、彼の心を解体していく作業となっている。

また、他人に「妻を愛していなかった」とか「部下の手柄を横取りするのが仕事」とかなんとか、思っていることを正直に話していくんだけど、これがほぼカウンセリングみたいな感じ。あとは音楽を聴いてダンスを踊ったり、『ファイトクラブ』ほど破滅的じゃないけど、一度は何かをぶっ壊さなきゃいけないって言う部分は一緒に見えた。

でも違っているのは、ぶっ壊してからまた組み立て直すっていうところ。最後には、妻への愛に気づいて心から泣くことが出来たし、彼女のために行動できるようになった。ただその行動っていうのが、おしゃれすぎだよ。

 

曲がすごくよかった。


Warmest Regards (Official Version)

【短い感想】『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』

はい、今日から観た映画は必ず、短くてもいいからなにか感想をそれなりの分量ひねり出すようにしてみようという試みを始めます。

 

というわけで、今日は『IT』見てきました。

ざっくりの感想は、「いまいち」でした。

映像はすごく綺麗、俳優もいい、ドラマもあって感情移入もできる。

でもなんだろう、このもやもや感は。

おそらく、物理的に敵をぶん殴ってぶったおす展開が白けてしまったんだと思う。アメコミ映画をみてるような感覚。

アメコミ映画を批判するわけじゃないけど、このジャンルって基本的に、悪をスカッとぶっ飛ばして、仲間とワイワイやって楽しーってやつだから、それをホラーでやられても困るんだよね。

 

こういう悪い点を指摘したら、次はよかったところ言わなければなるまい。

うーんなんだろうな。

ハリウッド映画ってやっぱりなんだかんだでアメリカ人のためにつくってるっていうのがあって、それでいうなら最近の社会諸相と絡められると思うんだよね。

最後はみんなで団結しなきゃいけないってメッセージは、とても今のアメリカ人たちにとって切実な問題なんだろうな、ってことが感じられたのはよかったかな?

でもやっぱりなおさら、これを日本人の俺がみたことで何かあるかっていうとなんもねーな、って思う。そんな映画だった。

これを観るなら『スタンドバイミ―』見直した方がいい時間が過ごせそう。

スティーブンキング原作の映画って他には『ミスト』とか『ショーシャンクの空に』、『シャイニング』を観たくらいだな。

『シャイニング』は異色だからおいといて、だいたい死が直接的に、身近な存在として描かれてるのがアメリカ的だなって思う。

日本の創作物だとなんだか非現実的な感覚が付きまとってて、それってなんでだろうな。

アニメとかで血の表現があるかないかって話が分かりやすいかな。血が出るアニメはとことん降り切れてて人がばさばさ死にまくるけど、極端であるほどリアリティがない。

血が出ない場合なら暗示的に示すとか婉曲的な表現になるんだろうなきっと。

そういえば最近『亜人』の漫画を全部読んだんだけど、あれなんか最たるものだよね。

でもあの死に対するリアリティーのなさが、逆にリアルなんだよなあ。

だから『聲の形』で描かれる自殺は、なんだかリアリティーが無くて、そこだけ感情移入できなかった。まあ、そういうことにしよう、と頭で保留して読んでた。

死を実感できてるのとできてないのとで、人ってどう変わるんだろう。

攻殻機動隊』の少佐が下手したら死んじゃうのにあえて夜の海に潜る感覚。

普段死を感じないからこそ、自分から感じてみたいと思う。だから戦争映画とかゾンビ映画が好きなんだろうな。

 

【考察】社会派ドラマとして読む『ダンケルク』

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ネタバレあります。

 

はじめに

 つい最近、北野武監督がテレビに出て『アウトレイジ最終章』について語っていた。北野監督は、この映画で現代の企業で起こっていることとを比喩的に描いたという。つまり、ヤクザたちを企業の上役やその末端にいる人々に置き換えれば、そのまま社会派ドラマになるというわけだ。「あの野郎ぶち殺してやりたいですよ」「俺だって同じだ!!(パンパンッ)」というのは、少々過激な末端社員の愚痴なのだ。

 戦争映画も、往々にして社会風刺として読むことができる。たとえばアメリカによるナチス・ドイツへの戦略爆撃を描いた『頭上の敵機』が示すのは、上官がいかに部下をマネジメントし、最大の成果をあげるのかという中間管理職の至上命題だ。その中で上官は、部下を厳しく訓練し、成果をあげようとするが、死んでゆく部下への同情との間で葛藤してゆく。私たちの社会にありふれた見えない暴力を、戦争という舞台装置によって可視化しているのである。では、このような視点から『ダンケルク』を読んでいくとどうなるだろうか。

 

 戦争映画としての『ダンケルク』の特徴

 まずは、オーソドックスな読みをしていこう。この映画の舞台は、第2次大戦初期の1940年、ナチス・ドイツの進撃によってイギリスとフランスの両軍が追い詰められた、フランス沿岸部のダンケルク。その両軍をイギリス本土へ救出するために、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが指令し、実施された「ダイナモ作戦」を描いている。では戦争映画として『ダンケルク』をみたとき、どのような特徴があるのか。以下の4つをこれまでの戦争映画にない表現として挙げたい。

 

(1)人生賛歌

 この映画最大の特徴は、兵士たちが本国へ無事に帰るというただ一つの目的が達成されるさまを描いていることである。兵士たちが本国へ逃げ帰ってくるラストなど、これまでの戦争映画史にあっただろうか。なぜこのようなラストを描けたのか。それは、最後に盲目の老人が言った「生きてるだけで十分だ」というセリフに象徴的な、無条件の生への肯定にある。

(2)見えない敵

 次に印象的なのは、戦闘がまったくないという点だ。海岸で救助を待つ兵士たちは、敵機の爆撃や茂みの向こう側からの銃撃、どこからともなく発射される魚雷になすすべがない。敵の顔が一度もあらわにならないまま、一方的に攻撃され、逃げ惑うというこれまでにない戦争描写となっている。これらの攻撃がドイツ軍によるものであるということよりも、見えない敵であることが重要だったのではないだろうか。

(3)分断された視点

 物語の構造上の特徴は、この映画を語るときにまず説明される。『ダンケルク』は、時系列の異なる陸・海・空の3つの視点から描いており、それぞれの視点がラストへと収束してゆく構造となっている。そのため、今回の救出作戦が、異なった時系列から登場人物たちの視点を借りることで立体的に描かれることになる。しかし、当たり前であるが、登場人物たちの誰もが作戦の一面を見ているにすぎない。確かにこれまでの戦争映画が描いてきた兵士たちも、戦争の全体像など知り得ない。だが『ダンケルク』では、登場人物たちの戦争体験を分断することで、戦争の知りえなさを描き切っている。

(4)没個性的なキャラクターたち

 この映画に主人公と呼べるような人物は存在しない。どの登場人物も、言ってしまえばどこにでもいるような個人である。先に挙げた3点より地味な特徴だが、これが一番重要に思える。登場人物たちが没個性的であるほど、その延長線上に私たち自身を感じられるからである。これは次に詳しく述べていく。

 

社会派ドラマとして読む『ダンケルク

 そろそろ本題に入ろう。これらの特徴を現代社会の比喩としてみるとどうなるのか。

 

(4)

 まず、主人公の不在とキャラクターの没個性について考えてみよう。この映画の登場人物たちは、ただの「兵士」であり「民間人」という以上のなにものでもない、というような冷めた視線で描かれている。戦争映画にありがちな彼らの生い立ちなどの人間描写が極限までされていない。しかし、にもかかわらずリアリティーを感じられるのは、そのような視線が、人を数に還元する資本主義社会ではごく当たり前のものでもあるからではないだろうか。社会を構成する私たちをだだの「社会人」としか捉えられない冷めた現実が、この映画の冷めた視線によって暴露されているのだ。

(3)

 分断された視点は、誰も本当の意味で戦争を知り得ないことを表現していると先に述べた。「戦争の知りえなさ」、この「戦争」を「社会」に置き換えてもまったく差し支えない。誰もが社会の中で暮らし、社会を構成しているにもかかわらず、誰もそれを本当の意味では知り得ない。戦争や社会について、それがなんなのか一言で言いきる術を私たちは持っていない。

 しかし、ひとつの側面から語ることはできる。つい最近では、桂歌丸氏の「戦争を知らない政治家は戦争に触れるな」という発言が話題になった。氏の言う「戦争」とは戦争の悲惨さのことであり、「戦争を知る」とはその悲惨さを経験するということだと思われる。戦争に投げ込まれた人々が、なぜこのようなことになったのか知ることのないまま、その悲惨さと闘った経験。この映画で描かれているのも、同じだと思うのだ。では、社会の悲惨さとはなんだろうか。これは誰もが何かしら答えられるのではないだろうか。事故、犯罪、貧困、過労死、自殺etc…。テレビをつければいつもニュースでアナウンサーが読み上げている。最低限の共有可能な経験は、ネガティブなのか。

(2)

 見えない敵は、恐怖という概念そのものだ。劇中に起こる仲間割れは、恐怖への矛先を目の前の人間に向けざるを得なかった結果である。同様に、自己責任という言葉が平気で使われるようになってから、ただの「社会人」たちも見えない敵に恐怖し、お互いを非難し合っている。少し前に、NHKの番組が発端で議論になった相対的貧困問題も、現状を誰のせいにしていいのかわからない、そんな混乱から来るものではなかったか。

 映画では、軍の救助船が次々と沈没していく。なぜ劇中で救助に成功したのが軍艦ではなく民間船なのか。現代社会の比喩として考えてみようと思ったのもこの点が示唆的に思われたからだ。政治家や上司なんて結局なにもやってくれない、そんな諦めに対するメッセージがあるのでは、と。

(1)

 この映画では、人々を冷めた視線で突き放して描きながら、それでも彼らの人生を肯定している。冷めた現実からの逃走による、個人の自己の回復がこの映画のテーマなのだ。ブラック企業に勤めるのが嫌でたまらないのに、逃げる決心がつかない、なんてことをよく聞く。だが、この映画の民間船のように、助け船を出してあげようとする人たちもきっとどこかにいるのだ。そんな希望を『ダンケルク』は描いているように思える。

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おわりに

 生きているだけで十分だ、そうみんなが無条件に生を肯定した歴史的瞬間を、『ダンケルク』は現代に蘇らせた。なぜいまそうする必要があったのか。それは、現代を生きる我々の生を無条件に肯定してくれるような機会がないからだろう。

 また、これは製作者の意図からまったく外れるのだが、劇中で命を落とし、最後に英雄として語られた少年は、電通での過酷な労働で命を落とし、労働改革の機運の中でメディアに祀り上げられた女性を想起せずにはいられない。これもこの映画が現代の普遍的なテーマたり得ているからだと思う。

 自分のことを社畜だと思ってしまっているような人は、涙なしにはこの映画を観れないかもしれない。そして、逃げることを恥だと思っているそこのあなた、一緒に『ダンケルク』を見ましょう。

【考察】『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』死のメタファーを読むPart2【感想】

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 この記事は、後編になります。まだ前編を読んでない人は下からどうぞ。前編でも言いましたが、この記事は、ドラマ版、岩井版の小説、大根版の小説、アニメ映画版のネタバレがあります。

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はじめに 

 いちおう、原作のドラマ版、岩井版の小説、大根版の小説、アニメ映画版の4つを、この一週間で見たり読んだりしまして、もう何がどんな話だったのかこんがらがってます。まるで典道みたいに、もしもの世界を繰り返して混乱しているような感覚が味わえるのでおすすめです。疲れますけど笑。

 

ドラマ版のメタファーPart2

 さて、前回の続きです。そもそも、ドラマ版の中にはメタファーじゃなくても死という言葉を直接含んだ台詞があります。それはなずなと典道が駅で電車を待っている場面で、典道が「かけおち」を二人で死ぬ行為だと勘違いする。そこでなずなが「それは心中でしょ」と突っ込むんですけど。典道はその突っ込みを聞いても「かけおち」の意味がわかってない。で、なんで典道がこんな勘違いをしたかというと、「かけおち」っていう言葉からなんとなく恐怖を感じ取ったからっていうのが、岩井版の小説では描写されてます。

 前回、「なずな」って名前の語源について触れたんで、じゃあ「かけおち」って言葉にも語源になんかあるんじゃないかと思って調べてみると、

相愛の男女が逃亡する意味で用いられるようになったのは江戸時代中期からで、もとは「欠落」と書いた。これは所属する組織から欠けて落ちることから、または失踪すると戸籍台帳から欠け落ちることからともいわれている。*1

「かけおち」は、江戸時代の行方不明者全般に使われてた言葉で、男女の逃亡という意味は後付けだったようです。その言葉の意味が分からなかったら、語感から読み取るしかないわけですけど、「かけおち」って語感はどう考えてもポジティブではないじゃないですか。なので、もともと社会からの脱落を意味した言葉に、典道が死を連想するほどの恐怖を覚えたっていうのはなんとなくわかるような気がする。けど、なずなにとってこれはごっこ遊びなので、見る側としては、ああーなんだ遊びか、っていうなんともいえぬ安堵感を覚える。緊張からの弛緩っていう流れの演出がうまいなーと思いますね。

 次に触れたいのは、終盤の夜のプールの場面。なずなは、夜のプールの水を墨汁みたいだと形容します。そのあと「なんか怖いよ」と台詞をつなげるんですが、怖いと言いながらも入水する。なずなの心理としては、スリルを求めての行動なんですが、それ以上に恐怖の先に自分の居場所を求めてるんだろうと思います。かけおちごっこもここじゃないどこかへ行きたいって願望から来てるわけで、墨汁みたいなプールの中にもどこか別の場所を見ようとしたんだろうと思うわけです。典道がなずなの姿を見失って動揺するのも、ほんとに彼女がどっかへ行っちゃったんじゃないかっていう不安からだろうと読める。その後のシーンでは、なずなが無事だとわかった典道もプールに飛び込んで一緒に水遊びを始めるんですが、岩井版の小説ではすこし違ってて、追いかけっこを始めるんですよ。典道は、もうなずなを失いたくないと思って本気で彼女を捕まえようとする。

 これまでドラマ版と岩井版の小説の内容を同列に語ってきましたけど、本来ならそれはできないかもしれない。なぜかっていうと、小説の方が彼らの不安だったり、どこかへ行ってしまう恐怖だったりをより強調して描いてるから。一番違ってるのは、小説では銀河鉄道の夜から引用しているところ。銀河鉄道の夜は、主人公のジョバンニがカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗って旅をするお話ですが、本当は死んでしまったカムパネルラとのお別れの物語です。これを引用するということが、ドラマ版よりも別れだったり死のイメージだったりを描く意図を明確に表してる。

 追記:ドラマ版の6年後に制作された『少年たちは花火を横から見たかった』という、当時の撮影を振り返るドキュメンタリーがあるんですが、そこで岩井監督がドラマ版の制作の際に、銀河鉄道の夜を参考にしたことを語っているみたいです。だとしたら、夜のプールのシーンは、お祭りの日にカムパネルラが川に溺れた友だちを助けて死んでしまう場面を意識してるって考えていいんだろうと思います。

 いろいろ書いてみて、あらめてこの映画を日本版スタンドバイミーだって言った理由を考えてみると、そういえばスタンドバイミーにもいろいろな形で死の恐怖が描かれてる。まあかなり物理的なものばかりですが、汽車に轢かれそうになったり、チ○コ噛みちぎる犬が出てきたり笑。そもそも旅の目的が死体を探すことだしね。

  

 アニメ映画版、総括

 やっと本題に入ろうと思います。いやーぶっ飛んでました。まずね、冒頭からわけがわからない。もう花火があがっちゃうんですよ。え?ドラマ版ではラストシーンでやっと見れたのに?すごくキレイだけどさあ!じゃあこれからこれ以上のことが起こるのかよ!って感じで勝手に盛り上がってました。しかも、普通の花火があがるのはほんとにこれっきりっていうね。

 ドラマ版のストーリーとの大きな違いは、もしもの世界を何度も繰り返すことと、ほんとに典道がなずなと電車に乗っちゃうところです。ふたりの逃避行を真っ正面から描いている。でもドラマ版では、ここじゃない別の場所っていうのが、死に近い恐怖だというふうに描かれていた。じゃあその先に行ってしまうこのアニメ映画版で、彼らは最後どうなっちゃうの!?そんなこと考えてたらハラハラドキドキが止まらない。それだけじゃなく、なずながとても色っぽいので、もうダブルパンチ。登場人物たちが中学一年生に変更されたり、シャフトらしい無機質な舞台空間だったりっていうのに関しては、はっきり言って好みの問題なので、何も言う事はないです。

 もしもの世界は、必ず何かの形が普通じゃなくなってて、それが繰り返されるからここはいったいどんな世界なんだっけと考えてるうちに、どんどん話が進んでいく。キーワードは「まる」と「平べったい」。でも、まさか先生の胸までいじるって、なんて微妙なセクハラギャグなんだって話だよ笑。

 いいなあと思ったのは、ドラマ版では不思議さばかりが目立ってたナズナが等身大の夢見る少女として描いたのと、あからさまに典道に向かって悪態をつく祐介をちゃんと描いてるところ。短めのドラマ版で描かれてなかった人間描写に満足。それと水の表現、反射が美しいし、しぶきのひとつひとつがいろんな可能性を写す多元宇宙みたいで、何度も見てると感覚が麻痺したトリップ状態。あまりにも執拗に水を写すもんだから、まるでタルコフスキーみたいだなあって思いながら見とれてた。

 

アニメ映画版のメタファー

 この記事を書くきっかけになったのは、この映画の至るところに死の臭いが漂っているように感じたからなんですが、まずこの映画の舞台は現代に設定されていて、3・11以後の話になってます。大根版だとそのことが言及されるんですが、アニメ映画版だとはっきりとはされません。けど、なんとなくそれを連想できるのがなずなの父親が溺死した姿が映されるところ。実は大根版とアニメ映画版って全然内容が違ってて、小説ではなずなが親父の死を知っていて、もしも玉が親父の贈り物として描かれるけど、映画では必ずしもそうじゃない。なずなは父親の死を知らないし、もしも玉は死体の横で一緒に浮かんでるものとしか説明されないんですよね。だから、もしも玉はある種の不穏なもののように見える。

 ラストシーンの解釈には、いろいろ議論があるみたいだけど、そのなかには典道があのとき海で溺れて死んでしまったんじゃないかっていうのがありますよね。僕も最初はそう思いました。ああ、典道はなずなの親父みたいにもしも玉を使って死んじまったんだって。要するに、典道がゲーテファウスト的な契約をして、自分の願いをもしもの世界で実現させてやるから、そのかわりお前の魂いただくよ!っていう感じ。

 ファウストは、悪魔メフィストフェレスとのそんな契約の話なんですが、悪魔の案内によっていろいろな享楽に耽ったあと、でも最後は自分以外の未来に希望を見いだして「時よ止まれ、おまえは美しい!」と言って死んでしまうっていう、悲劇でもあるけど壮大な人生讃歌でもあるいい話です。結局主人公のファウスト博士の魂は、愛人ゲレートヒェンの祈りに寄って天国へ迎えられます。このプロットのもとになったダンテの神曲にもベアトリーチェっていう女性が出てきて主人公のダンテを天国につれてってくれる。グレートヒェンとベアトリーチェはどっちも「永遠の女性」として描かれてるんですが、まさにこの映画では典道にとってのなずながそうですよね。

 まあ、こんな話をしたのは、クライマックスのもしも玉のかけらが飛び散るシーンが、神曲の最後で描かれる至高天に似てるなあって思ったからっていう、それだけなんですけどね。

f:id:noumos:20170827155737j:plainギュスターヴ・ドレ作

下のふたりは、ベアトリーチェとダンテ、上の円光は神様のいる至高天として描かれています。

 話は変わりますが、最後のシーンにふたりの影が写ってたそうです。全然見てなかった…。そんなのあった?まあともかく、このことが根拠になって、典道となずなが生きてて一緒にいるんだーとか、いやむしろ影なんだから死んでるんでしょとか、いろいろ言われてると思います(想像)。僕は物語や絵の中で影が出てくる場合、暗いニュアンスでとらえられるのが一般的かなーって思います。死はもちろん、不安や恐怖のための小道具として。けど影といえば、冒頭の花火と逆光になって真っ黒な電柱とか、黒文字でタイトルが写されるシーンとかすごく綺麗でしたよね。っていうふうにね、どう描かれてるかを見ないと意味はわからないので、見落としちゃった僕には何も言えないです、残念。もう一回見ようかな。

 

おわりに

 結局ふたりがどうなったのかって、いろいろ考えられるし、僕もこうして死のイメージっぽいものをいろいろ探して書いてみたけど、だからって典道は死にましたっていう結論にするつもりはないです。この記事書いてる途中ずっと考えてたけど、どっちでもいいっていうか、どちらでもないというか、今はそんなふうに思ってます。ほら、クラムボンだって結局何かわからないじゃないですか。あんな感じですよ。

 もう少し言うと、この映画で典道は、成長も挫折もしたっていうのは確かなので、最後どうなったのかを見せないってことは、観客に「あなたならどうしますか?」って投げられてるんだろうと。なので、自分はこう思うっていう解釈がその人の望む未来なんだろうなと思うわけです。だったら僕は、典道は死んでないよ!って言いたいですね。

 最後にね、ふたりのかげかーと思っていろいろ考えてたら、そういえばスガシカオの曲にそんなのなかったっけ?と思ってたらやっぱりありましたよ。聞いてみたらすごくいい曲だし、この映画にもなんとなく合ってるかなと思ったんで、ここで紹介しておきます。曲の始まりは1分13秒から。ハチクロのアニメで流れてた曲でしたね。


二人の影/スガシカオ

 

 ひさしぶりにこんな長い記事書いたんで結構疲れました。でも、楽しかったです。もう一回映画館に行って、ふたりのかげを見れたら、また更新するかもしれません。ではまた

*1:『由来・語源辞典』〈http://yain.jp/i/駆け落ち〉