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語ることって大事

【考察】『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』死のメタファーを読むPart2【感想】

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 この記事は、後編になります。まだ前編を読んでない人は下からどうぞ。前編でも言いましたが、この記事は、ドラマ版、岩井版の小説、大根版の小説、アニメ映画版のネタバレがあります。

noumos.hatenablog.com

 

はじめに 

 いちおう、原作のドラマ版、岩井版の小説、大根版の小説、アニメ映画版の4つを、この一週間で見たり読んだりしまして、もう何がどんな話だったのかこんがらがってます。まるで典道みたいに、もしもの世界を繰り返して混乱しているような感覚が味わえるのでおすすめです。疲れますけど笑。

 

ドラマ版のメタファーPart2

 さて、前回の続きです。そもそも、ドラマ版の中にはメタファーじゃなくても死という言葉を直接含んだ台詞があります。それはなずなと典道が駅で電車を待っている場面で、典道が「かけおち」を二人で死ぬ行為だと勘違いする。そこでなずなが「それは心中でしょ」と突っ込むんですけど。典道はその突っ込みを聞いても「かけおち」の意味がわかってない。で、なんで典道がこんな勘違いをしたかというと、「かけおち」っていう言葉からなんとなく恐怖を感じ取ったからっていうのが、岩井版の小説では描写されてます。

 前回、「なずな」って名前の語源について触れたんで、じゃあ「かけおち」って言葉にも語源になんかあるんじゃないかと思って調べてみると、

相愛の男女が逃亡する意味で用いられるようになったのは江戸時代中期からで、もとは「欠落」と書いた。これは所属する組織から欠けて落ちることから、または失踪すると戸籍台帳から欠け落ちることからともいわれている。*1

「かけおち」は、江戸時代の行方不明者全般に使われてた言葉で、男女の逃亡という意味は後付けだったようです。その言葉の意味が分からなかったら、語感から読み取るしかないわけですけど、「かけおち」って語感はどう考えてもポジティブではないじゃないですか。なので、もともと社会からの脱落を意味した言葉に、典道が死を連想するほどの恐怖を覚えたっていうのはなんとなくわかるような気がする。けど、なずなにとってこれはごっこ遊びなので、見る側としては、ああーなんだ遊びか、っていうなんともいえぬ安堵感を覚える。緊張からの弛緩っていう流れの演出がうまいなーと思いますね。

 次に触れたいのは、終盤の夜のプールの場面。なずなは、夜のプールの水を墨汁みたいだと形容します。そのあと「なんか怖いよ」と台詞をつなげるんですが、怖いと言いながらも入水する。なずなの心理としては、スリルを求めての行動なんですが、それ以上に恐怖の先に自分の居場所を求めてるんだろうと思います。かけおちごっこもここじゃないどこかへ行きたいって願望から来てるわけで、墨汁みたいなプールの中にもどこか別の場所を見ようとしたんだろうと思うわけです。典道がなずなの姿を見失って動揺するのも、ほんとに彼女がどっかへ行っちゃったんじゃないかっていう不安からだろうと読める。その後のシーンでは、なずなが無事だとわかった典道もプールに飛び込んで一緒に水遊びを始めるんですが、岩井版の小説ではすこし違ってて、追いかけっこを始めるんですよ。典道は、もうなずなを失いたくないと思って本気で彼女を捕まえようとする。

 これまでドラマ版と岩井版の小説の内容を同列に語ってきましたけど、本来ならそれはできないかもしれない。なぜかっていうと、小説の方が彼らの不安だったり、どこかへ行ってしまう恐怖だったりをより強調して描いてるから。一番違ってるのは、小説では銀河鉄道の夜から引用しているところ。銀河鉄道の夜は、主人公のジョバンニがカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗って旅をするお話ですが、本当は死んでしまったカムパネルラとのお別れの物語です。これを引用するということが、ドラマ版よりも別れだったり死のイメージだったりを描く意図を明確に表してる。

 追記:ドラマ版の6年後に制作された『少年たちは花火を横から見たかった』という、当時の撮影を振り返るドキュメンタリーがあるんですが、そこで岩井監督がドラマ版の制作の際に、銀河鉄道の夜を参考にしたことを語っているみたいです。だとしたら、夜のプールのシーンは、お祭りの日にカムパネルラが川に溺れた友だちを助けて死んでしまう場面を意識してるって考えていいんだろうと思います。

 いろいろ書いてみて、あらめてこの映画を日本版スタンドバイミーだって言った理由を考えてみると、そういえばスタンドバイミーにもいろいろな形で死の恐怖が描かれてる。まあかなり物理的なものばかりですが、汽車に轢かれそうになったり、チ○コ噛みちぎる犬が出てきたり笑。そもそも旅の目的が死体を探すことだしね。

  

 アニメ映画版、総括

 やっと本題に入ろうと思います。いやーぶっ飛んでました。まずね、冒頭からわけがわからない。もう花火があがっちゃうんですよ。え?ドラマ版ではラストシーンでやっと見れたのに?すごくキレイだけどさあ!じゃあこれからこれ以上のことが起こるのかよ!って感じで勝手に盛り上がってました。しかも、普通の花火があがるのはほんとにこれっきりっていうね。

 ドラマ版のストーリーとの大きな違いは、もしもの世界を何度も繰り返すことと、ほんとに典道がなずなと電車に乗っちゃうところです。ふたりの逃避行を真っ正面から描いている。でもドラマ版では、ここじゃない別の場所っていうのが、死に近い恐怖だというふうに描かれていた。じゃあその先に行ってしまうこのアニメ映画版で、彼らは最後どうなっちゃうの!?そんなこと考えてたらハラハラドキドキが止まらない。それだけじゃなく、なずながとても色っぽいので、もうダブルパンチ。登場人物たちが中学一年生に変更されたり、シャフトらしい無機質な舞台空間だったりっていうのに関しては、はっきり言って好みの問題なので、何も言う事はないです。

 もしもの世界は、必ず何かの形が普通じゃなくなってて、それが繰り返されるからここはいったいどんな世界なんだっけと考えてるうちに、どんどん話が進んでいく。キーワードは「まる」と「平べったい」。でも、まさか先生の胸までいじるって、なんて微妙なセクハラギャグなんだって話だよ笑。

 いいなあと思ったのは、ドラマ版では不思議さばかりが目立ってたナズナが等身大の夢見る少女として描いたのと、あからさまに典道に向かって悪態をつく祐介をちゃんと描いてるところ。短めのドラマ版で描かれてなかった人間描写に満足。それと水の表現、反射が美しいし、しぶきのひとつひとつがいろんな可能性を写す多元宇宙みたいで、何度も見てると感覚が麻痺したトリップ状態。あまりにも執拗に水を写すもんだから、まるでタルコフスキーみたいだなあって思いながら見とれてた。

 

アニメ映画版のメタファー

 この記事を書くきっかけになったのは、この映画の至るところに死の臭いが漂っているように感じたからなんですが、まずこの映画の舞台は現代に設定されていて、3・11以後の話になってます。大根版だとそのことが言及されるんですが、アニメ映画版だとはっきりとはされません。けど、なんとなくそれを連想できるのがなずなの父親が溺死した姿が映されるところ。実は大根版とアニメ映画版って全然内容が違ってて、小説ではなずなが親父の死を知っていて、もしも玉が親父の贈り物として描かれるけど、映画では必ずしもそうじゃない。なずなは父親の死を知らないし、もしも玉は死体の横で一緒に浮かんでるものとしか説明されないんですよね。だから、もしも玉はある種の不穏なもののように見える。

 ラストシーンの解釈には、いろいろ議論があるみたいだけど、そのなかには典道があのとき海で溺れて死んでしまったんじゃないかっていうのがありますよね。僕も最初はそう思いました。ああ、典道はなずなの親父みたいにもしも玉を使って死んじまったんだって。要するに、典道がゲーテファウスト的な契約をして、自分の願いをもしもの世界で実現させてやるから、そのかわりお前の魂いただくよ!っていう感じ。

 ファウストは、悪魔メフィストフェレスとのそんな契約の話なんですが、悪魔の案内によっていろいろな享楽に耽ったあと、でも最後は自分以外の未来に希望を見いだして「時よ止まれ、おまえは美しい!」と言って死んでしまうっていう、悲劇でもあるけど壮大な人生讃歌でもあるいい話です。結局主人公のファウスト博士の魂は、愛人ゲレートヒェンの祈りに寄って天国へ迎えられます。このプロットのもとになったダンテの神曲にもベアトリーチェっていう女性が出てきて主人公のダンテを天国につれてってくれる。グレートヒェンとベアトリーチェはどっちも「永遠の女性」として描かれてるんですが、まさにこの映画では典道にとってのなずながそうですよね。

 まあ、こんな話をしたのは、クライマックスのもしも玉のかけらが飛び散るシーンが、神曲の最後で描かれる至高天に似てるなあって思ったからっていう、それだけなんですけどね。

f:id:noumos:20170827155737j:plainギュスターヴ・ドレ作

下のふたりは、ベアトリーチェとダンテ、上の円光は神様のいる至高天として描かれています。

 話は変わりますが、最後のシーンにふたりの影が写ってたそうです。全然見てなかった…。そんなのあった?まあともかく、このことが根拠になって、典道となずなが生きてて一緒にいるんだーとか、いやむしろ影なんだから死んでるんでしょとか、いろいろ言われてると思います(想像)。僕は物語や絵の中で影が出てくる場合、暗いニュアンスでとらえられるのが一般的かなーって思います。死はもちろん、不安や恐怖のための小道具として。けど影といえば、冒頭の花火と逆光になって真っ黒な電柱とか、黒文字でタイトルが写されるシーンとかすごく綺麗でしたよね。っていうふうにね、どう描かれてるかを見ないと意味はわからないので、見落としちゃった僕には何も言えないです、残念。もう一回見ようかな。

 

おわりに

 結局ふたりがどうなったのかって、いろいろ考えられるし、僕もこうして死のイメージっぽいものをいろいろ探して書いてみたけど、だからって典道は死にましたっていう結論にするつもりはないです。この記事書いてる途中ずっと考えてたけど、どっちでもいいっていうか、どちらでもないというか、今はそんなふうに思ってます。ほら、クラムボンだって結局何かわからないじゃないですか。あんな感じですよ。

 もう少し言うと、この映画で典道は、成長も挫折もしたっていうのは確かなので、最後どうなったのかを見せないってことは、観客に「あなたならどうしますか?」って投げられてるんだろうと。なので、自分はこう思うっていう解釈がその人の望む未来なんだろうなと思うわけです。だったら僕は、典道は死んでないよ!って言いたいですね。

 最後にね、ふたりのかげかーと思っていろいろ考えてたら、そういえばスガシカオの曲にそんなのなかったっけ?と思ってたらやっぱりありましたよ。聞いてみたらすごくいい曲だし、この映画にもなんとなく合ってるかなと思ったんで、ここで紹介しておきます。曲の始まりは1分13秒から。ハチクロのアニメで流れてた曲でしたね。


二人の影/スガシカオ

 

 ひさしぶりにこんな長い記事書いたんで結構疲れました。でも、楽しかったです。もう一回映画館に行って、ふたりのかげを見れたら、また更新するかもしれません。ではまた

*1:『由来・語源辞典』〈http://yain.jp/i/駆け落ち〉

【考察】『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』死のメタファーを読むPart1【感想】

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カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。

                                  銀河鉄道の夜より

 

 

はじめに

 最初に断っておくと、この記事は最低でもアニメ映画の『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか』と、その原作となったドラマ版を見ている事を前提として書きます。できれば、アニメ化にあわせて原作者の岩井俊二が新しく書き下した小説『少年たちは花火を横から見たかった』とアニメの脚本を手がけた大根仁による映画と同じ題名の小説を読んでるとなお良いです。というかそのネタバレがありますのでこれから読もうと思っている人はこの記事は読まないでください。あ、あとアドバイスですが、小説をあとがきから読む派の人は、大根版の小説だけはそれやらない方がいいと思います。

 

感想文

 打ち上げ花火、見てきました。見る気は全然なかったんだけど、まあ暇だったからTSUTAYAでドラマ版を借りて見たのが運の尽き、のめり込んでいってしまった。監督が岩井俊二だったっていうのもそこで初めて知って、驚きました。で、その勢いでアニメ映画のほうを見に行ったわけですけど、これがまた原作をさらにぶっ飛ばしたような内容で度肝を抜かれて、よくこんなの作ったな…が最初の感想です。とても一般受けするとは思えない。でも僕はクライマックスで感動して、カップルとオタクっぽい男子高校生たちに囲まれて一人で泣いてました。エンドロールになる頃にはニヤニヤと笑ってて、ホント気持ち悪いな俺、って思いました。

 それから考察や感想等を書いたブログなんかを軽くネットで検索してみたところ、インタビューでディレクターの川村さんが言ってましたが、今の観客の観る目がすごく肥えてるのに驚いた。結構みんなあの話理解できてるんだな、と。僕は現代アートの世界に少し触れる経験もあるので、あまり抵抗はないんですけど、それが無防備な人にとってはいろいろな要素がノイズでしかないだろうなって思ってました。けど、ブログで映画のレビューを書くくらいの人たちには、普通に見れる映画だったみたいです。なので正直最初は、これは僕だけしかまだ言及してないだろうっていうのが見つからなかったんで、書かないでおこうかなと思ったんですけど、美術史の図像学っぽい考察なら出来そうかなって思ったんで、書いてみる気になりました。

 

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ドラマ版、総括

 じゃあ、まず原作について。ドラマは、オムニバステレビドラマ企画「ifもしも」の中の一作として1993年に放送された同名のドラマです。放送後、完成度の高さが話題となり、1995年に映画作品として劇場公開された、監督岩井俊二のメジャーデビューでありながら出世作という問題作。

 内容は、簡単に言うと日本版スタンドバイミーで、ドラマとして作られたため尺は50分と短いですが密度がすごく濃い。描かれる小学生男子たちの友達付き合いや恋の悩みには、将来に何の不満もなかったあのときの自分を重ねずにはいられない。そしてヒロインのなずな役、若き日の奥菜恵のかわいらしさに悶絶し、彼女との別れを描くこのドラマによってトラウマを植え付けられた人々はたくさんいた事でしょう。もしあのときこうしていたら、を実際に視覚化することの残酷さを呪いながら画面の美しさに見せられる、そんな名作です。

 登場人物たちはみんな小学生で、最終学年の6年生というだけあって少しずつ大人な部分を見せ始めている。恋愛なんかはその際たるものなんだけど、自分の感情に対する戸惑いもあって、どうしたらいいのかわかってないまま、お互いの気持ちがすれ違い合いながらストーリーが進行する。その中心にいるヒロインのなずなは、主人公たちより一回り以上大人な雰囲気を醸し出している。それは母親のお世辞にも褒められない恋愛歴を知っており、大人のいい加減さを肌身で感じているからなのかもしれない。そんな彼女が今度親が離婚する事を知ってふてくされて、そのわがままに主人公たちを巻き込んで、男たちは彼女の言動に振り回される。主人公の典道は、彼女のごっこ遊びに付き合わされるんですよ。かけおちごっこ、泥棒ごっこだったりね。これぞ童貞殺し、グサグサと男の恋心を無自覚に刺激しまくる、そんな悪女なんですが、刺されてる方にそんな意識はなく、あくまで自分の問題だと思っている。そして典道は、そんなごっこ遊びに振り回されたあげく、最後は実感する暇もないままに彼女との別れを迎えてしまう。

 この二人の次に重要なキャラクターは、典道の親友祐介。典道ルートが恋愛編だったとするなら祐介ルートは友情編。このドラマを日本版スタンドバイミーだと形容したのも、こちらのパートに比重があります。こちらのルートは、花火大会の打ち上げ花火を横から見るために岬の灯台を目指す冒険を男共が敢行する。死体を見に行くよりかはだいぶキレイですが、汗臭さは十分です。典道と祐介の選択は、友達と一緒に花火を横から見るために灯台に行くのか、それともなずなの花火大会への誘いを受けるのか、その二択で分岐していく。プールの勝負に買った負けたはただのきっかけにすぎないんですよ。祐介は、なずなとの約束を反故にして灯台に行こうとするけど、それを知った典道は怒って彼と仲違いして、何もかもが台無しになる。そこで典道は俺がなずなの誘いを受けていたらと願い、そのもしもが叶った世界が描かれる。ただ、祐介が約束を反故にしたのは、なずなのことが好きなのに告白する勇気がなかったからだ。でも小学生の恋の半分以上は、このパターンを踏むと思うんですよね。典道だってあんな事件がなければ、なずなを助けたいなんて思わなかったことが想像できるので、誰が意気地なしだとかそういう話ではない。で、もしもの世界での祐介は、なずなの誘いという縛りがないので、素直に他の友達と一緒に灯台へと向かう。その道中に喧嘩があったり、やけくそになって好きな女の子の名前を叫びだしたりと、行き場のない感情をどうにかしたくて必死だ。典道がifの世界の主人公だとするなら、祐介はリアルの世界の主人公だと言えるだろう。正直、僕は祐介に同情せずにはいられなかったなあ。僕も高校生の頃に似たような体験があったので。こういうふうに自分の恋愛歴はどうだっただろうかと思いをついつい巡らせてしまうのもドラマ版の力だと思う。

 

ドラマ版のメタファーPart1

 ここまではこのドラマのオーソドックスな読みって感じで書いてきたけど、ここからは少し作中のメタファーについて考察をしていきたい。ずばり、死のメタファーについてです。

 ここでいったん話が反れるんだけど、少し前に美術館へダリ展を見にいったんです。あの髭をピンっと跳ね上がらせた素っ頓狂なおっちゃんのダリです。暇つぶしのつもりで気軽に見てたんですが、パラパラと見てるとその中にいたんですよ、アリとハエが。ダリと言えばとろけたような時計が描かれたこの絵ですよね。

f:id:noumos:20170825023001j:plainこの絵の

f:id:noumos:20170825023058j:plainここの部分

この絵以外にも、ときどきアリやハエが描かれてます。で、どんな意味があるのかっていうとダリ本人曰く、アリやハエっていうのは生き物の死体に群がってくるから死のイメージとして絵の中に登場させているんだと。へえーって感じだよね。その時、ああそういえばなずなの体に蟻がくっついてて典道が取ってあげるシーンがあったよなあって、思い出したんですよ。

 その数日後、岩井俊二が新しく書き下ろした小説『少年たちは花火を横から見たかった』を読んだら、この場面以外にもアリが登場してました。それは、物語の序盤に典道がなずな本人から両親の離婚のことを聞いたとき。

なぜか頭に浮かんだのは、無惨に割れたすいかだった。たまに道ばたで遭遇する割れたすいか。(中略)割れたすいかはもう人間の食べ物ではない。アリや、ハエや、その他の昆虫のえさになる。カブトムシが食べに来るかもしれない。もったいなくも、残念な、無惨な、道ばたで割れたすいか。離婚という言葉にふさわしいイメージがほかに見当たらず、気の利いた言葉のひとつも浮かばないぼくの脳裏をただただ割れたすいかが駆け巡る。*1

 この割れたすいかに群がるアリや、なずなの体にくっついてるアリが、そのまま死のメタファーだというのは強引かもしれませんが、少なくともこの記述の場合は不穏なものを表すためのイメージとしてアリやハエが登場していると言えそう。このことを踏まえて、プールサイドでのなずなと典道のやり取りについて考えてみると、あのアリはなずなの中に溜まっている悪いガスでそれを典道が抜いてくれる、後のifの世界で起こる展開を暗示しているっていうふうに読めると思うんですよ。このとき典道は、彼女の体に触れることにドキドキして、もしかしてなずなは自分に気を許してるんじゃないかって思っちゃうんだけど、なずなにとってはガス抜きに付き合ってくれる男の子としか思ってない。この場面に二人の気持ちのすれ違いを見る事もできて、すごく濃密なシーン。

 とか思いながら読み進めていったわけなんですが、最後の方にですね、なずなの名前の由来となった植物の薺(ナズナ)について、こう注釈が書いてあるんですよ。

ナズナ(薺)】

アブラナ科ナズナ属の越年草。

名前の由来は、なでたいほどかわいい花の意味の撫菜、

夏無、夏になるといなくなる花、など諸説ある。

うーん、考え抜かれてるなって思わず感心しました。夏にいなくなるって言うのは要するに枯れちゃうってことです。思いっきり死の暗示ですよね。こういう思わずハッとしたり、いろんな意味を疑ってかかったりするようなモチーフを仕込んでいるところがこのドラマの名作と言われる所以だなあと思うのでした。

 

Part2へ、つづく

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*1:ちなみに僕が読んだのは、児童向けの角川つばさ文庫版です。これしか本屋になかった。けどあとがきは、普通の角川文庫版のやつとは別で、岩井俊二監督の小学校時代の恋愛感だったりが書かれているので、こっちもアリだと思います。

【考察と感想文】『メアリと魔女の花』虹と魔法にさようなら

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 『メアリと魔女の花』公開初日に見たんだけど、自分の中でいろいろ考えて、ようやくブログで書く気になりました。あと最近このブログで書いてることってなんか堅苦しいよな、って思ったんで今回はゆるく書きます。

 まず、米林監督による前作の『思い出のマーニー』と比較しながら書きたいと思う。そういえばこのブログを開設したのは、マーニーを見て考えたことを書き起こしたいって欲求から始まってるので、米林監督の作品には個人的な思い入れがあったりする。

 

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メアリ公開の一カ月前にニコニコ動画に動画upしたりなんかもした。この記事読む前にこの動画見てくれたほうが、これからの話がよくわかると思うんでよければ見てください。

 で話を戻すと、まずメアリはマーニーと似ている点とまったく対照的な点があります。

・前者は日常と非日常を往来する物語の構造

・後者はファンタジー要素がミニマムだったマーニーとは対照的にメアリがファンタジー要素マックスだった点

 前者について。先にあげたマーニーの考察記事で、主人公が日常から非日常へ放り込まれて成長してかえってくるっていう構造が『オズの魔法使い』と同じだって言いました。それはメアリでも同じだったし、メアリには明らかにオズを意識してるセリフがあった。魔法学校からおばあちゃんの家に戻ってきたときに、メアリが「やっぱり家が一番ね」って言うんですよ。それに魔法使いの欺瞞を暴くっていうオチも見事にオズでしたよね。まあ、これは物語の構造が云々というよりは、同じ魔法の世界を描いた作品だからってことで、オマージュとしてやってるって側面も当然あるだろうと思う。メアリの原作はイギリス児童文学『小さな魔法のほうき(The Little Broomstick)』(1971)で、俺まだ読んでないけどネットの情報を読んだ限りでは、基本的なストーリーラインは原作に寄りつつ、ところどころオズのエッセンスを入れているという感じかな。『オズの魔法使い』が書かれたのは、原作よりも半世紀以上前の1900年、有名なミュージカル映画が作られたのも戦前の1939年。なので、原作もオズの影響を受けているって可能性も十分あるんじゃないかと思う。魔法ファンタジーを書きつつ現実の科学だったりの欺瞞を暴こうとしたお話って、実はそんなに目新しくないんですが、普遍的なメッセージだし、今それをやる意味は十分あるよね。あくまで今の子どもたちに向けて作る訳だからね。

 さらに、メアリではストーリーだけでなく、主題歌でもオズと繋がってるんですよ。オズの主題歌は、Over the Rainbow、もしくは虹の彼方にっていう超有名曲。要約すると、虹の向こう側になんでも願いが叶う夢の国がある、いきたいなー、でもいけないのって曲。メアリの主題歌は、SEKAI NO OWARIのRAINって曲なんだけど、これがまさにOver the Rainbowへのアンサーソングになってる。


SEKAI NO OWARI 「RAIN」 Short Version PV 主題歌映画「メアリと魔女の花」

内容は、夢の国なんて虹の向こうにないけど、それでも前向きに生きていこうっていう感じ。虹じゃなくて雨のほうが草木を育てるから役に立ってるでしょ、っていう実はかなり現実志向な曲なんだよ、これ。すげーリアリストだし、メロディもいいし、素敵やん。この歌の虹ってのは、人に夢を見せる魔法そのものだし、米林監督たちにとってはジブリなんだよな。だから虹綺麗なんだけどねって口惜しく歌ってる。セカオワっていままで一度も聞いたことなかったけど、なにか聞いてみようかなと思えるくらいの実力は感じました。

 次に後者の、マーニーとは逆な部分。マーニーって実は王道から遠ざかった果てにあるような映画なんですよ。鬱こじらせた少女が少し不思議な体験をして元気になるっていう内容で、とてもジブリとは思えないような落ち着いた話。これまでのジブリみたいに明るく元気な登場人物たちが中心にいないので、好き嫌いが別れる作品です。僕は好きなんだけど、なんでかっていうと、例えば『耳をすませば』の月島雫みたいな女の子にリアリティを感じられないんです。『千と千尋の神隠し』の冒頭から暗いやつに見える千尋も実はもといた学校には友達がたくさんいて、別れたくないからブスッとしてるだけなんだよな。だから普通に明るくて自分にコンプレックスも感じてないような少女なわけだ。けれど、こういう健康な人間になろうとすること自体がおそらく今の若者の至上命題足り得るんじゃねーのって思うような、僕みたいな冷めた人間はマーニーにリアリティを感じられるから感情移入できるし感動できるわけです。

 今回のメアリは、従来のジブリのように王道のファンタジー、冒険活劇だったから、全く逆に振れたわけだよね。けど、やっぱりメアリも孤独ってほど深刻じゃないけど問題意識を自分の容姿だったり、何やってもうまく行かないドジさ加減に見いだしてる。これをどう克服するかがメアリにとっての命題だったわけだし、それが魔法の大学っていう今の社会を風刺したような場所での問題とリンクしていく。

 今の義務教育受けてる子どもたちも実は状況が似てる、というかもっと過酷かもしれない。今後、30年で世界は全く別の世界になってる。そんな世界でも生きられるように生きる力を身に付けさせなきゃって今の教育やってるわけで、メアリの裏のメッセージってジブリ以降のアニメ映画業界への挑戦っていうことだったけど、これからの子どもたちってこれまでの恵まれた環境はもうないんだってレベルじゃないんだよね。うじうじ考えてる暇なんてないまま状況が変化し続ける、それに対応してかなくちゃいけない、そんな世の中にこれから身を投じていかなきゃいけないわけですよ。魔法が無くなったって突っ込むんだよ!っていうね、行動第一主義が今後大事だよ、そしたらなんかいいこときっとあるよっていうのがこの映画の主張なんじゃないかと俺は思いました。思い立ったら即行動のメアリと思い出を深掘りしていくマーニーってな感じで(マーニーは主人公じゃないけど)、すごく対照的だよね。

 最後はジブリに感謝しつつも、それを遠ざけようとしてるのが伝わってきた。話の内容を簡単に言えば、ジブリ無き今、俺らが生きていくにはメアリみたいに後先考えずに突っ込んで行くしかねえ!って話だったんですよ。もちろん無くなったのはジブリだけじゃなくて、大学とか科学に対する信用だったりもするわけだけどね。ジブリを意識し過ぎな二番煎じに見える人もたくさんいるんだろうけど、むしろそれに特化したところから新しい意味を作り出したのがマーニーとメアリのすごさなんだと僕は思いました。

 

 で、米林監督って次何やるんだろうな、って話なんだけどね。米林監督の創作意欲がジブリだったっていうのはよくわかるんだけど、それもそろそろ頭打ちだろうから、実は勝負所って次なんだよな。これからコンスタントに続けるには、ジブリ以外のものが必要なわけで、どうするんだろうっていうさ。僕個人の意見としては、もっと黒い部分を出してもいいんじゃないかなーって思うんだよな。正直に言ってメアリには怖さが足りないです。中盤にメアリがボロボロになるんだけど、あー血出てないな、とかね。怪しい魔法がいっぱい出て来るのに、全然グロくないのも不満。なんというか社会の黒い部分を諷刺しようとしてる割には、チラチラ見え隠れするどうしようもない絶望感みたいなのがないんですよ。もっと絶望のどん底から這い上がるような話が描けると、そのコントラストがすごいキレイになりそうなのに、そうなってないからもったいないなーって思う。非情になりきれてない感じがした、そんな映画でした。次回作は誰かを殺すぐらいの覚悟でやってほしい。

  うーん、ここまで語っておいて何だけど、僕はマーニーの方が好きですね。なぜかと言うと死んだ人に会うっていうかなり怖い映画だから。こっちの方が深みがあるよなーって思います。でもこれ大人の意見なんで、子どもが見て感じるものがあればそれでいいんでしょうけどね。

 

 といったところで大体言いたいこと終わり。ではまた。

 

【批評】『ドリーム』:「私たちのアポロ計画」でなぜ悪い??【邦題批判への反論】

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Hidden Figures | Teaser Trailer [HD] | 20th Century FOX

 

『Hidden Figures』こと『ドリーム』

 今回取り上げるのは、アメリカで2016年12月に公開、日本では今年9月に公開予定の『Hidden Figures』こと『ドリーム』です。まだ日本で見ることは出来ませんが、私は幸いにも少し前に鑑賞することが出来ました。アメリカでは『ララランド』を越える興行収入だったそうで、かなりの注目作でありながら社会派ノンフィクションという日本では地味に受け止められがちなジャンルの映画です。映画の内容は、アメリカとソ連による冷戦の真っただ中、二国間で宇宙開発競争を繰り広げていた時期のNASAを舞台に、職員として働く黒人女性たちが差別と闘って自らの夢を叶え、出世していくサクセスストーリーとなっています。

 

邦題変更騒動について

 この映画は、邦題がストーリーと整合性がないとしてSNS上で問題となったことで、日本の映画界隈で話題になりました。もともとの邦題は、配給元の20世紀フォックスによって『ドリーム:私たちのアポロ計画』に決定されましたが、これが批判を浴びた結果『ドリーム』に変更されました。邦題が批判されたのは、この映画で取り扱っているのがNASAによるアメリカ初の有人宇宙船の打ち上げを目指したマーキュリー計画であり、人類初の月到達を目指したアポロ計画ではない、というのが主な理由です。

 ここでひとつ疑問が浮上するのですが、なぜ邦題を批判する人たちは、まだ日本で上映されていない映画の内容を知っていたのでしょうか。まず思いつくのがアメリカや飛行機内などで鑑賞した人たちです。それに加えて、映画評論家の町山智浩氏によるTBSラジオの番組『たまむすび』で紹介されたことも一因として考えられます*1。この番組で町山氏は、映画がマーキュリー計画を扱ったものであることを明言しています。これによって多くの映画ファンの方々が映画の内容を知ることになったことでしょう。

 私はこのような経過を知りつつ、映画を観たわけですが、邦題については正直そこまで悪くない、それどころか良いとさえ思えました。

 

改変前の邦題の意図

 邦題への批判が相次いでいることを報じたBuzzFeed Newsは、20世紀フォックスに取材し、以下のような回答を得たと書いています。

この邦題はどんな経緯や意図で決まったのでしょうか? 同作を配給する20世紀フォックスの作品担当者に聞きました。

「映画の内容としてはマーキュリー計画がメインであることは当然認識しています」

「その上で、日本のお客様に広く知っていただくための邦題として、宇宙開発のイメージを連想しやすい『アポロ計画』という言葉を選びました」

原作のノンフィクション「Hidden Figures」(「隠された(人たち/数字)」のダブル・ミーニング、映画原題と同じ)では、マーキュリー計画に関するエピソードだけでなく、より前後に広い時間軸が描かれているそう。

「どちらも当時のNASAで並行して動いていた宇宙開発計画であり、最終的にアポロ計画につながるものとも捉えられる」と説明します。

邦題を決める際に「確かに懸念の声も上がった」としつつ、「作品の本質にあるのは、偉大な功績を支えた、世の中では知られていない3人の女性たちの人間ドラマ。ドキュメンタリー映画ではないので、日本のみなさんに伝わりやすいタイトルや言葉を思案した結果」と判断の理由を話します。

「ネット上で否定的な意見があることも確認していますが、こちらからコメントを出すつもりは現段階ではありません。この作品に限らず、映画は観る前も観た後も、さまざまな感想を持っていただくものと考えています」〔筆者注:この時点ではまだ邦題の変更は検討されていなかった。*2

20世紀フォックス側は、まず邦題にアポロ計画と入れた意図を観客のイメージしやすい言葉であったためだと説明しています。そして、物語との整合性については、映画がマーキュリー計画だけでない広い時間軸を扱っており、最終的にアポロ計画につながっているとして反論しています。また、最後の発言は、観る前と後では感想が違うだろうと言っているように聞こえます。

 要するに、見てくれれば分かると言っているわけです。確かにフォックス側としてみればネタバレするわけにもいかないですから、この取材への回答は相当困ったことでしょう。ただはっきり言ってこの回答は、観客を馬鹿にしているといった論調に油を注いだ結果となったことは想像に難くありません。

 ただ一応彼等の中では、マーキュリー計画を扱った映画であると知りながら邦題を付けましたし、物語の整合性があると考えていたようですから、一度立ち止まってフォックス側の意図をちゃんと理解しようとしてみましょう。

 映画がマーキュリー計画だけでない広い時間軸を扱っていると言っている点は、確かにそうなのです。というのも劇中では、アポロ計画に関する話題が出てくるからです(正確には人類の月への到達の話題であり、あたりまえですがアポロ計画という言葉はセリフとして出てきません)。宇宙開発競争の初期段階であるマーキュリー計画が進行する中で、自分たちNASAの最終目標が月への到達であることが語られます。つまり、登場人物たちはマーキュリー計画に取り組みながらも、既に月を目指していることが示されるのです。問題となった邦題について考えるときこれは重要な点となります。というか私は、これが映画の中でも最も重要な要素の一つだと思います。20世紀フォックスの人が言う通り、確かに映画の中では、マーキュリー計画と人類の月への到達は、「どちらも当時のNASAで並行して動いていた宇宙開発計画であり、最終的にアポロ計画につながるものとも捉えられる」のです。

 

彼女たちの黒人女性差別との戦い

 『ドリーム:私たちのアポロ計画』は、ただ「アポロ計画」とするのではなく、「私たちの」というワードを付けています。つまりこの邦題は、正確に言えば「アポロ計画」のことを指しているのではないことがわかります。ではなにを指していたのかと言えば、この映画の本来のテーマである、黒人女性差別の問題です。

 主人公の黒人女性たちは、数学や科学の才能を持っているにもかかわらず黒人女性だからという理由でNASAの中でも地位は低く不遇の扱いを受けていました。しかし、ソ連との競争という現実にアメリカ政府とNASAが直面したとき、有能であることが正当に評価されていくようになった結果、彼女たちの努力によって出世し、その能力を発揮することが出来るようになります。黒人と女性への二重の差別を受ける中で彼女たちが出世するのは、当時不可能と考えられていたにもかかわらずです。

 劇中の彼女たちを取り巻く日常の変化の一つ一つは、人類を宇宙へ上げることに比べたら一見些細なことなのですが、彼女たちの才能がなければマーキュリー計画は成功していなかったことを知る時、それらはまるで歴史的偉業のように見えてきます。日常という小さなスケールの変化と、宇宙開発競争という大きなスケールの変化という二つの強いコントラストが実は表裏一体の関係であったことが分かった瞬間にカタルシスがじわじわと感じられるのです。主人公が次第にその才能を発揮していき、人類の月への到達を目指していく姿は、アポロ計画によって月面に到達したニール・アームストロングの「1人の人間にとっては小さな一歩だが,人類にとっては大きな飛躍だ。」という名言を想起させます。この映画を観て、その一歩を彼女たち、そしてNASAの職員たちはこの時既に踏み出していたのだと、本当の歴史的瞬間に立ち会えたように思えるのです。それは邦題に「私たちのアポロ計画」とあればこその感動だったと私は考えます。

 

邦題の変更の是非

 20世紀フォックスが邦題の変更を発表した後、BuzzFeed Newsは続報の記事を出しました。この記事の取材に応じた町山氏は、ネット上での邦題への批判が「映画会社側の時代感覚のなさ、観客は知らないだろうという勘違い、そして、知らない言葉はタイトルに使ってはいけないという思い込み――この3点が組み合わさって起きた事態」といい、映画の内容を知らないユーザーをキャッチ―な言葉で呼び込もうとした安易な姿勢だと批判しています*3。しかし、邦題が観客を騙そうとし、馬鹿にしているという批判が妥当ではないことは、先ほど述べてきたとおりです。

 今回の騒動は、「ドリーム:私たちのアポロ計画」という邦題が、他の観客よりも先に映画の内容を知っていた人々にとってわかりづらく、しかも誤解を招きやすいと判断されたことが原因だと言えます。20世紀フォックスには、観客が邦題に込めた意図を読み取ってくれるだろうという希望的観測があったことも確かだと思われます。

 しかし私は、それでも邦題を変更すべきではなかったと思います。「ドリーム:私たちのアポロ計画」は、原題にはない独自の解釈を提示している点でかなりチャレンジングな邦題だったと言えます。フォックス側は、このことをもっとちゃんと説明するべきでした。『ドリーム』、これこそ最強にクソみたいな邦題です。今回の騒動で最終的に誰が幸せになれたのでしょうか。特にこの映画を高く評価し、広報活動など様々な貢献をして来たであろう町山氏にこう尋ねてみたいです。あなたの批判は、この映画にとって本当に必要でしたか?

 

*1:番組の書き起こしは、以下のサイトを参照。「町山智浩『ヒドゥン・フィギュアズ(邦題:ドリーム)』を語る」『miyearnZZ Labo』2017/4/11〈http://miyearnzzlabo.com/archives/42884

*2:「【更新】タイトルと内容が違う…?大ヒット映画の邦題「私たちのアポロ計画」に批判 配給会社に聞く」『BuzzFeed News』2017/06/8〈https://www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/dream-apollo?utm_term=.pbzqn2zwQ#.wgALqEP5e

*3:「女性向けはスイートに、誤解を招く表現…「アポロ計画」だけじゃない、映画邦題の問題点 町山智浩さんに聞く」『BuzzFeed News』2017/06/11〈https://www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/rocket-girls-machiyama?utm_term=.kyRXL387q#.xcXkawgEq

【ネタバレ考察】マッドマックス怒りのデスロード 反面教師としてのサンダードーム

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今日というか今さっきマッドマックス怒りのデスロードを見てきた。さすがの前評判だけあって素晴らしい出来だった。今回私は予習として前三作を見ておいたのでそれもあって今作を大いに楽しめた。これから見るという人もぜひ前三作を見てから本作を見ることをお勧めする。若しくは本作を見た後に見てもいいだろう。

というのも、前三作を見ればこの映画の本作がどうしてこれほどまでクレイジーなものに仕上がったのかがわかるからだ。特に三作目のサンダードームがあってこその本作だと思う。

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三作目のマッドマックス/サンダードームは1,2を見てきたファンには不評だった。その教訓を生かして本作が作られたのだと言っていいくらい反面教師としての役割を全うしている。

ここからは本作とサンダードーム両方のネタバレになるので注意されたし。

 

ではサンダードームが不評だった理由を整理してみよう。

 

1. カーアクションが全然ない。サンダードームの売りは1,2と異なりタイトルにもあるサンダードームという檻の中での死闘がメインになっている。といっても全くないわけではなくサンダードームの戦いとカーアクションが半々くらいでとても中途半端な構成だ。しかもカーアクションといっても車対車ではなく列車対車、もはやカーアクションとはいいがたい。これが不評の一番の理由だろう。f:id:noumos:20150720021200j:plain

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2. インターセプターが出てこない。インターセプターは1,2で主人公が乗っていた車で主人公のキャラ付けには欠かせないものであったが2で爆発してなくなってしまう。それでサンダードームではラクダにひかれた幌馬車に乗っている。1,2を見てきた人からすればなんだそれという感じだっただろう。せめてエンジンのついた車に乗れと。

 

3. ストーリーが複雑。サンダードームではバーターシティという町と砂漠のオアシスにあるこどもの国を主人公が行ったり来たりする。そして両者は全く無関係なのだ。ただでさえ要素が増えて複雑なのにストーリーが行き当たりばったりなもんだから余計訳が分からない。1,2は単純なストーリーになっていていい意味でバカでも分かる話になっているので、サンダードームを見て私が求めているのはそこじゃないと困惑する人は多かっただろう。しかもあれだけ苦労したのに最後、行きつく先には子どもたちの望んでいたものはなにもない。

 

4. 主人公がただのいい人。物語の中盤、主人公は子どもの国に流れ着く。そしてそこで原始的な暮らしをしている子どもたちのために行動するのだが、その行動原理がいまいちよくわからず、ただのお人よしにしか見えない。そしてこの国に着くまで主人公がロンゲで小汚い浮浪者みたいな風貌でかっこよくないのもマイナスポイントだ。

 

5. 人が全然死なない。この世界では一応秩序があり、町では掟もあって争いがないようにしているため1,2のように暴力に蹂躙される弱者なるものが存在しない。ここも主人公がお人よしに見えてしまう一因だろう。子どもたちは別に暴力にさらされているわけでもないし、主人公が助ける町の支配者を名乗っていた小人のおっさんは都落ちしただけなので自業自得だ。女性も出てくるがバーターシティの支配者として出てくるので弱者とはむしろ逆方向だ。

 

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6. ボスキャラが怖くない。サンダードームのボスキャラは女性であり、1,2の流れから次は女性となるのはわからなくはないのだが、人を殺すような描写ももちろんなく、あまりにも人間味があふれていて狂気を全く感じない。普通すぎるのだ。前半で主人公と接触して協力関係になってしまうのもいただけない。むしろ彼女を裏切った主人公が悪者のような印象を受けるほどで、これではボスキャラとして失格だ。前半のストーリーが二人の支配者が争うという構造にしたおかげで小物にしか見えなくなってしまっているのも残念なところだ。

 

といった具合で整理がついただろう。

ここまで言っておいて難だが、サンダードームは決して悪い映画ではない。三作中一番お金がかかっているだけあってセットや衣装も凝っているし、いいカットもたくさんあって映画としてはよくできている。ただ1,2という流れでこの作品をみると違和感がありまくりでどうしようもなくダメな作品になってしまうのだ。

 

 

ここから本作、怒りのデスロードを見ていく。さあサンダードームの教訓から本作はどうなったのだろうか。

 

1. カーアクションがすべて。本編の8割がカーアクションになっている。こりゃたまげた。

 

 

2. インターセプターが登場する。冒頭の入りには胸が熱くなる。劇中まったく活躍しなくても、この冒頭でおおマッドマックスが始まるぞ!イェーイ!となれるのでファンは満足であろう。

 

 

3. ストーリーが単純。バカでも分かる。行ってなにもなかったから戻ってくるだけ。それだけなのにドラマとして全く見劣りさせない手腕は素晴らしいの一言。

 

4. 主人公は最初は自分のために行動する。しかし結局自分には無益な人助けをしていて本作でもいい人だが、行動原理はわかるようになっている。自分の妻と子を救えなかったことを悔やんでいるというのが冒頭から描写されるので、後半の主人公の滅私奉公のような行動も無理なく受け入れられる。警察官の経歴を持つだけあって、なんだかんだでヒーローの役回りを演じてしまうのがマックスなのだ。

 

5. 弱者、本作では特に女性が蹂躙されている。冒頭のブクブクに太った女性たちが搾乳されているシーン。これほどインパクトのある蹂躙のされ方はないだろう。そして今作のボスのイモータン・ジョーの正室、側室のような女たちにはいやらしいデザインの貞操帯がつけられており、正室格の女は妊娠しておなかが膨れていてこれもまたインパクトがある。まさしく性奴隷だ。見ていて思わずうわっ…となる。

そして人がバンバン死にまくる。ウォーボーイという全身真っ白の男たちは車を走らせて戦い華々しく散ることが美徳なのだ。イモータン・ジョーを唯一絶対の神として崇めていて、どうみてもこれはBANZAIアタックだ。勇ましく戦って死んだら死んだ仲間たちとともに神として迎えられるとか言ってるし、ああこれはまずいな…と思いながらもやっぱりヒャッハーしてしまう。あんまりこういうことを言うと右の人に怒られそうだがそうなんだから仕方がない。しかも女だろうがお構いなく死ぬ。これぞ男女平等と言わんばかりに。慈悲はない。しかしフェミニズムへの配慮もちゃんとしているというかせざるを得なかった感があるが、いい具合にバランスを取っている。これは最近の映画の流行というか時代性だろうか。海外のフェミニストってそんなに怖いのかな。

 

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6. ボスキャラが超怖い。冒頭の群集の上に立つシーンで俺様はすごいんだぞとビジュアルとして視聴者に見せつけることに成功している。なにせ唯一絶対の神なのだから存在感が半端じゃない。もちろんのことながら極悪人だが、どこか人間味を感じるキャラクターは嫌いにはなれない魅力を持っている。そして主人公と全く接触しない。突然両者は対峙し戦うことになるので緊張感のある戦闘シーンを息をのんで鑑賞することになるのだ。

 

といったようにここまでやるかというくらい、サンダードームでの教訓が生かされていることがわかるだろう。

そのほかにも、前三作のパロディが随所に見られるため前作からのファンも大満足な出来になっているがここではそれをいちいち解説するような野暮なことはしないので実際に見て確認してほしい。

 

とここまで記事を書いて、まだ本作を見てない人に向けて書いているにもかかわらず、ネタバレをしているというよくわからない記事になってしまったが、本作のせいで頭がおかしくなってしまっているのだと笑って済ませてほしい。それくらい興奮させてくれる映画なのだ。

しかし三部作としてあと二作やる計画らしいので、ここまで一作目で成功してしまって後が続くのか、という心配はある。しかし、そのときはまたサンダードームのように反面教師として生かされればいいのだろう。駄作は駄作としてちゃんと役割があるのだ。なので気負いせずに次回作もマッドに作っていってもらいたいと思う。

 

 

『時をかける少女』 ≪白梅ニ椿菊図≫について

 細田守監督の『時をかける少女』が地上波ということで、まぁ私は見ないんだけどずっと疑問に思っていた作中に出てくる作品≪白梅ニ椿菊図≫について記事に書いてみよう。

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 そもそも作品の題名≪白梅ニ椿菊図≫は、なんと読めばいいのだろうか。

 「白梅」は、「しらうめ」「はくばい」と読む。尾形光琳の≪紅白梅図屏風≫(こうはくばいずびょうぶ)や、呉春の≪白梅図屏風≫(はくばいずびょうぶ)などがあるから、「はくばい」と読むほうが一般的と言えるだろう。次に「ニ」は、これ漢数字ではなく、カタカナで表記されている。そして「椿」は、「つばき」「ちん」。「菊」は音読みの「きく」しかない。

 白梅、椿、菊と植物の名称が並列した題名なら「はくばいにつばききくず」、もしくは「はくばいにつばききくのず」と呼ぶのが順当であると思われる。ただ、どこに白梅や椿、菊が描かれているのかはあまり判別できないし、それらがメインモチーフであるとも思えないため、題名から作品の意図を読み取るどころか解釈に混乱を招いている。作者不詳ということであるから、この題名は後の人が付けたことが想像できるが、どこからこんな題名が出てきたのかは謎だ。

 画面に注目してみると、中心には女性が、その胸のあたりに四つの球体を抱擁するように描かれている。その球体は青色で、地球を連想させる点でどこかSF的に見える。女性の周りには、雲のようなものが辺りを一周して囲んでいる。よく見るとそれと一緒に花や鳥のような生き物もいるが、殆んど同じ色をしているため判別しにくい。

 ≪白梅ニ椿菊図≫は、劇中で未来人の千昭がこれを見るためにやってきたという設定で登場するのだから特に重要なもののはずだ。しかし、この作品に関する言及は、ほとんど成されず、登場する機会もほとんどない。唯一、素性が明かされるのは、この絵の修復を担当した主人公の叔母の以下の台詞である。

作者もわからない。美術的な価値があるかどうかも今のところはわからない。〔中略〕この絵が描かれたのは何百年も前の歴史的な大戦争と飢饉の時代。世界が終わろうとしてた時、どうしてこんな絵が描けたのかしらね。

ところが、実際に作品を見てみると、どう見てもここ最近に描かれた作品にしか考えられない。数百年前に描かれたというのはどうもリアリティーに欠けるのである。

 

 

 ≪白梅ニ椿菊図≫の表現に時代考証が伴っていないことを確認するために、実際に歴史に残る作品と比較してみたい。もちろん、時代考証が正確ではないことをもって批判する意図は、まったくない。狙いは、この作品の特殊性を浮き彫りにすること、と言えば仰々しいが、異質感を読み取っていくことにある。

 下に示したのは、今から120年ほど前に描かれた作品。日本画家の狩野芳崖(1828-1888)が死の直前に描き上げた≪悲母観音≫である。芳崖は、近代日本画家の先駆けとして歴史に位置付けられている。この作品は西洋絵画の技術を取り入れた、当時の最先端な表現で描かれている。

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 ≪悲母観音≫の幼児を包む球体を見てもらえればわかりやすいと思うのだが、いくら西洋の遠近法を取り入れたと言っても、モノの輪郭は線的で境界線がはっきりしていることがわかる。それに比べて、≪白梅二椿菊図≫の球体は、境界線があいまいであり、≪悲母観音≫での遠近法をさらに推し進めたもの、徹底したもののように見える。意地悪な言い方をするが、この作品は約百年前すらも遡ることが出来ないのである。先ほども言ったが、『時をかける少女』という映画において、この絵の時代的な正確さはどうでもよいのであって、重要なのはそこに込められた意味である。

 ≪白梅二椿菊図≫に描かれた女性の周囲を囲む雲のようなものを見てみると、こちらは球体とは異なって輪郭線がはっきりしているため描写に統一感がないように見える。時代考証云々というよりもビジュアルとして古めかしい雰囲気がこの作品にとって重要だったのではないかと思えてくる。

 

 

 以上、≪白梅二椿菊図≫の描写についてみてきた。これらのことから、この作品は、様々な時代の表現を混在させているという時代横断的な特徴があると言えそうだ。『時をかける少女』という作品が時間を横断するように、この絵も画面の中で時代を横断しているのだ。

 といったところで、この絵のSF的な要素が見えてきたように思うので、結論にしておく。

【考察】アニメ艦これ 敗戦のトラウマとの戦い

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ブラウザーゲームである艦これ、またそれを原作としたアニメの考察していくことで

なぜこのようなゲームが誕生し今もなお人気を博しているのか、またアニメになることによってわかるこのコンテンツのテーマを考えていきたいと思う。

 

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